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1、それはまるで

 まるでアナログテレビのスノーノイズのように、絶え間なく雨粒が地面を打つ音が響く。けれども、その音はメトロノームみたいに一定のリズムを刻んでいるわけではなく、草木を打ち、アスファルトを打ち、朽ちかけたプレハブの屋根を打ち、道端に転がる空き缶を打ち、不規則な音楽を奏でているようだ。


 そんな自然が奏でる演奏が聞こえてくる中で、柏木アリサは不機嫌だった。大きすぎるアラーム音に起こされてしまったことも原因のひとつだろう。なぜアラームはあんなにも大きな音で(わめ)き散らすのかがわからない。優しく、肩を揺するようにして起こしてくれる目覚ましグッズがあるのならば、是が非でも手に入れるのに。


 けれども、アリサが不機嫌なことの一番の要因は大きすぎるアラーム音ではなく、雨の中を登校しなければいけないということだ。


 別に雨自体は嫌いではない。水に濡れて、水滴がしたたる花は綺麗だし、アスファルトに信号の光や周りの景色が反射して見えると、まるで異世界の中に迷い込んだようで、なんだか楽しい。深呼吸したくなるような雨の匂いも好きだ。ただ、身体が雨に濡れるのが嫌なのだ。特に登下校時には荷物も多く持っているし、傘を差していても足や腕はあっというまに濡れてしまう。


 アリサは少し大きめのビニール傘を広げて歩いていたものの、家を出て五分が経てばもうスカートの裾が濡れ始めていた。


「ああ、もう最悪」


 そう呟いて空を見てみる。


 ほとんど黒に近いような灰色の雲がどこまでも続いていて、雨が止む気配は全くない。朝に見た天気予報では昼過ぎに雨は止むといっていたけれども、当たる気配はないし、そんなものを当てにはしていない。今までも大抵、天気予報には裏切られてきたし、たぶんこれからも裏切られ続けていくのだろう。そもそも、アリサも天気予報に対してなんの期待もしていないので、別に裏切られたところでどうということもないのだけれども。


 少しでも憂鬱(ゆううつ)な気分を紛らわせるために、くるくると傘を回してみたり、鼻歌を歌ってみたりしてみるものの、別にそれによって濡れなくなるわけでもないので、余計に腹立たしくなってくる。傘を回すのも鼻歌も止めて、歩くペースを速める。ぴちゃぴちゃと足を踏み出す度に水の跳ねる音がする。ずっと、同じリズムでその音は聞こえてくる。


 雨の音は雑多な分、余計な音が入ってこない。いろんな音が重なるから、一つの音が抜きん出ないのだ。確かにいろんな音がそこに存在する。けれども同時に、それは限りなく静寂(せいじゃく)に近い雑音だ。


 だから、考えごとをするには雨の日が向いている。


 ずっと不機嫌であり続けるのもよくないことだ、とアリサは自らの高校生活のこと、将来のこと、駅前のカフェのミルクレープのこと、そんな当たり前の高校生のようなことを考えながら歩く。きっと、こんな風に平凡なことを思い描く時間が自分には必要なのだ、とアリサは思う。


 特別なものなんて、何もいらない。特別であるということはそれだけで面倒だ。映画や小説の主人公は特別だからこそ、事件や事故に巻き込まれていくし、物語が展開していく。スポーツ選手や芸能人だって、普通とは違う才能を持ったばかりに、プライベートもなく、プレッシャーや批判に晒される。普通の人はよく、天才に凡人の気持ちはわからない。と、嘆くけれども、天才側の人間からすればきっと、凡人に天才の気持ちは理解できない。と、嘆くのだろう。


 その気持ちはよくわかる。

 柏木アリサも普段から、何かとよくトラブルに巻き込まれるから。


 アリサは歩いていたその足を止めて、前を向く。


 今も、ほら。


 その目の前に一つの球体が浮かんでいる。正体不明の謎の球体。何の前触れもなく、唐突にそれはアリサの前に現れた。それを見て大げさに溜め息を一つ吐き出したのは、さっきまで抱いていた平凡への憧れを捨てるためなのかもしれない。今、ここ、この場にそんなものは必要ない、と。


 よく見ると、宙に浮かぶその物体は球状ではあるものの、正確には球体ではない。それは実体を伴ったものではないのだ。目線の高さのその先にある空間がぐにゃりと歪んでいる。なんだかまるで球体の鏡が浮かんでいるようにも見える。


 空間が歪む、というのはなんだか、SF映画を思わせる。


 この球体に触れたらタイムスリップできてしまうんじゃないか、なんて思うと少し好奇心もそそられるけれども、だからといって、その程度の好奇心でその球体に触れてしまえるほどアリサも無邪気なじゃじゃ馬ではない。


「さて、どうするか」


 と、球体を前にアリサは人差し指で鼻先をかいて、唇を尖らせる。


 学校へ向かうにはこの道を行くのが一番早い。そして、今日は雨が降っていたので、その対策をしていて家を出るのが普段よりもやや遅れている。今からルート変更をしていたのでは、確実に遅刻してしまうだろう。とはいえ、得体の知れない物体に近付くのはあまりにリスキーだ。何が起こるかわからない。下手をすれば無事では済まない可能性もある。というよりも、アリサの今までの経験上、その可能性の方が高い。ならば、選択肢はひとつだ。幸い、アリサは一度の遅刻程度でどうこう言われるほどの劣等生ではない。むしろ、高校生活での三年間で一度くらいは遅刻して先生に怒られる、というイベントを経験しておくのも悪くないかもしれない、だなんて思い始めている。


 そうと決まれば、とアリサはひらりとスカートを(ひるがえ)し、(きびす)を返す。


 けれども、振り返ったその先に、一人の女性が立っていて、思わず硬直してしまう。彼女は確かに、さっきまではそこにいなかったはずだ。しかも、この雨の中を傘も差さずに立ち尽くしている。明らかに異常で、異質だ。


 アリサは注意を払いながら、その女性を観察する。


 髪は長く、黒い。雨に濡れて、余計にその黒は深い黒になっている。肌は白すぎるくらいに白く、まるで深海に棲んでいるかのようだ。青のワンピースドレスは彼女のボディラインにピッタリと張り付いていて、その脚の長さを際立たせている。そしてなぜか、そのワンピースドレスには似つかわしくないバッグを肩から掛けている。顔は、前髪が長くてあまり表情を読み取れないものの、決して老けているわけではない。二十代半ばといったところだろうか。鼻筋はスッと真っ直ぐ通っていて、下唇はやや厚い。


 綺麗だ、とアリサは息をのむ。


 それは異様なもののはずなのに、まるで宝石のように美しいと、そう思ってしまう。いや、異様なものだからこそ、際立ってよりいっそう美しく見えるのかもしれない。


 女性は右足を一歩前に踏み出して水たまりをひとつ踏んで、顔を上げる。けれどもまだ、その表情は見えない。ゆっくりと首を動かし、左を見て、右の方を見る。そして正面のアリサを見る。その口元が微かに歪んだ気がした。


 さて、どうしたものか。と、アリサは考える。


 背後には歪んだ空間、目の前には異質な女性。どっちを選択しても、前途多難そうで、思わず眉間に(しわ)を寄せてしまう。現状、動くことは出来ず、ただその場に立ち尽くしかない。


「ああ、懐かしいわね」


 と、その女性は(ささや)いた。


 けれども、そんなはずがない。アリサはその女性のことなんて知らない。知らないものを、懐かしいと思うはずがない。思えるはずがない。彼女の言葉はきっと、なにかの勘違いか、間違いだろう。


「懐かしい……」


 そう言ったその人の声は少し、震えていて、本当に切実そうで、今にも泣きだしそうで。気が付けばアリサは、彼女に向けてそっと手を伸ばそうとした。


 それは、同情だったのか、(あわ)れみだったのか、アリサ自身にもわからなかった。けれども、彼女は悲しんでいる。ならば、手を差し出すべきだ、と思ったのだ。ほとんど本能的にそうしていた。こんなこと、ありえないのに。今までに誰かが泣いている場面に遭遇したことは何度かある。けれども、積極的に自ら関わっていくようなことはなかった。それは別に面倒なことに巻き込まれるのが嫌だとか、そういうことではなくて。ただ純粋に目の前で泣く人に興味を持てなかったからだ。目の前で泣くその人が、自分と仲のいい友達だったのならば、自分は手を差し伸べるだろうか、と考えてみるけれども、それはそのときになってみないとわからない。


 ただ、目の前のこの女性にはなぜだか手を伸ばしてしまっている。どうしてだかはわからない。それでも、この人が涙を流すことが見逃せなくて、右手を伸ばしている。


 そうして、アリサは手を伸ばした。けれどもそれとほぼ同時に、その女性は左足を一歩前に踏み出した。そして、風が吹いた。


 それは、彼女のその踏み出した左足を中心に、嵐のように吹き、辺りを巻き込み、あっという間に広がり、そして雨が止んだ。空を見上げると、さっきまで空全体を覆っていた灰色の雨雲が綺麗に、まるで神様が両手ですくい上げたかのようにぽっかりと消え去っていて、目に痛いほどの青が広がっていた。


 アリサはゆっくりと青い空から目を下ろし、正面を見る。けれども、そこにはあの女性の姿はもうなかった。振り返ってみると、そこにあった空間の歪みも消えていた。代わりに、さっきの強風で壊れてしまったアリサの青い傘が転がっている。空気は澄んで、なんだか清々しい。


 ――これは、あの人がやったのか?


 アリサはもう一度空を見上げる。そういえば、あの人も青いドレスを着ていたな。この空に、

 あの人は溶けてしまったのかもしれない、なんて思いながら。


 あの雨をあの女の人が止ませたのならば、それはまるで。


「魔法のよう……」


 なんて、そう(つぶや)いてアリサは少し、微笑んだ。

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