鎗ヶ崎の交差点㉟
その日から「忙しい」と言われ会うのを断られることが増えていった。僕は平日も知花の店に行っていたので彼女が妊娠中に離れていた客が戻り始めて店が繁盛しているのは知っていた。
毎週会えていた時は客が少なく余裕があったのだろう。忙しいと言うのも紛れもなく真実だったと思う。しかし僕はそれをわかっていながら不安になり、彼女と会えない時の空白の時間の孤独に耐えられなかった。
誘いを断られれば、何度もラインを送り時には強引に「中目黒に着いている」と言いプレッシャーをかけた。そんな時は、知花は不満気な表情を浮かべて現れた。僕はそれに気付きながらも、気持ちを抑えることができなかった。
知花の仕事の特性を理解しているつもりだったのに、僕は彼女を信じられなくなっていた。それはもしかしたら僕達が不倫で始まったからかもしれない。 相手がいるのに、僕の元に来た知花。しかし他の誰かが現れたら、同じようにすぐに新しい相手の元に行ってしまうのではないか。そして知花にはそれができる環境がある。周りは皆男だらけの職場で酒も入る。そんな勝手な疑念を拭うことができなかった。
会えない時に膨らむ嫌な想像は日に日に増して、僕の中にあった知花への優しさを奪っていった。やがて知花は金曜日の僕の誘いを断るようになった。「お店が忙しくて」と言って。そして、日曜日に心太と会う時間も徐々に減っていった。
「日曜日、心太と遊びに行こうか」と誘っても、複雑な表情をして返事を濁すようになったのだ。夫の話もしなくなっていった。
そんな状況の中でどうにか会える土曜日の夜は彼女を激しく抱き、何度も愛していると言い自分の想いを伝えようとした。しかし知花はだんだんと微笑みすら返してくれなくなっていった。
ある夜。僕はたまらなくなって知花に聞いた。
「最近、彼とはどうなってるの?」
「うん・・」
すると知花は視線を落とした。僕は険悪な間を埋めようと言葉を続けた。
「あまり話してくれないから。何かあるんなら、教えて欲しいなって」
すると知花が覚悟を込めた口調で言った。
「なんとなく割り切ったら、関係がうまくいき始めてね。今は心太のお父さんって感じでいるの」
ある意味では、それは普通の夫婦の関係でもある。しかし、だったら僕はいったい彼女のなんなのだろうかと思った。夫との関係がなくならない限り、僕は夜中に会うだけの都合のいい男ではないか。自分はこんなにも二人を愛し、将来すら考えている。なのに何がいい関係だ。
「それで、どうするの?離婚はしないの?」
「それは・・・もちろん彼を男としては見ていないけど、心太もいるしそんな簡単じゃないの。もしかしたら、何年もかかるかもしれない」
「そう」
僕は自分を抑えるのに必死だった。今のそんな気持ちの彼女を無理やり急かしてもどうしようもないことはわかっていた。しかし行き場のない落胆が僕の中に沈殿していくのがわかった。
「わかった。でも、待つよ。何年でも」
絞り出すように僕は言った。言いながら本当は自信がなかった。昼間の街も歩けず、友人や親にもしっかりと紹介できない関係にこのまま我慢できるのだろうかと。
時折、知花は僕を自分の友人に紹介してくれたがその時も店でも僕を「友達」と言って紹介していた。彼女が結婚をしている事を知らない相手にさえも。
冷静に考えれば、結婚をしていることを知らない相手にでも僕を彼氏と紹介することはリスクを伴う。誰に聞かれるかもわからないことを考えれば当たり前のことだ。
なのに、この頃の僕は煮え切らない彼女の態度に苛立ちと焦りを感じていて「友達」と言われることを受け入れられなかった。それでもどうにか必死に僕はその状況に耐えていた。耐えていれば、きっと知花は自分のものになると信じていた。
しかし僕と知花との関係は前進しなかった。あまつさえ、夫との関係が改善したと彼女は言った。そんな状況のまま、ずっと僕は知花のそばにいられるのだろうか。未来を約束はしてくれない彼女のそばにずっと。
今考えれば、僕はこの時に余計なことを考えずに、この生活を続けていればよかったんだと思う。夫に愛はないのだから、余裕を持って行く末を見つめて、いざという時に知花の背中を押す。そんな器用でスマートな進め方ができればよかった。
でも僕にはできなかった。彼女の言葉に焦って、不安になり、余裕を無くした。その一件から、土曜日でさえも会えないと言われることが多くなった。
「疲れている」や「次の日に心太と出かけるから」と言われると、僕はそれ以上何も言うことができず苛立ちを飲み込み、また落胆を心に溜めた。
僕はわかっていた。知花の気持ちが自分から離れていっていることを。しかしその状況を脱する術を持ない僕はただ感情を露わにすることしかできなかった。
知花の店に行くと、そこにいる男性客にさえ妙な嫉妬心を持って見るようになってしまった。もしかしたらこの中の誰かと店が終わった後に飲みに行っているのではないか。日曜に心太と遊ばせているのではないか。と何の根拠もない疑念を持つようなった。
そんな客への視線に知花は気づいていたのだろう。彼女は店でさえも僕にあまり笑顔を見せてくれなくなった。そして僕自身も店に行くのが辛くなっていった。
それでも、ずっと勤めていた従業員が辞めた時には二人で飲みに行き、その帰り際に僕の肩に頭を乗せて「疲れた」と言った彼女に僕は「仕事を辞めたいならやめればいい。俺が君たちを食わしていく」と宣言をして、彼女は嬉しそうに笑ってくれたし、店の周年記念を祝った日には最後まで残った僕に「ありがとう」と言ってくれて店の中でキスをした。
僕らの関係はとても不安定ながらどうにか続いていた。そしてそんな中で、大きな変化の時が訪れた。
その変化により、二人の関係がやっと前進すると僕は信じていたが、そこから僕達の関係はさらに急激に後退して行くことになった。




