鎗ヶ崎の交差点㉞
目黒川沿いを歩いていると不意に、小さなカフェバーがあるのに気づいた。店はすでに閉店していて、カウンターにいた女性店員と男性客が話をしていた。男性客は店員の女性を口説いているようだった。僕はなんとなくその光景を眺めた。すると知花から連絡があった。時間はすでに深夜三時を過ぎていた。
「ごめん。遅くなっちゃった。今日はなしにしようか」
深夜に二人で会うようになってから、誘いを断られるのは初めてだった。すると通りがかりのカフェバーの光景と知花の店の光景が重なり急に不安に苛まれた。知花を目当てに店に訪れる男性客達。カウンターに一人で訪れる客はほとんどが彼女目当てだった。
しかし、今までそんな客を気にしたことはなかった。女性が店主の店であれば少なからずそう言うことはあるし知花も仕事と割り切って相手をしていると言っていた。むしろ僕はいつもその光景を見ながら優越を感じていたくらいだった。自分は誰もが求める女性の特別な存在なのだと。
しかしこの時はもしかしたら残った客の一人と・・・そんな嫌な想像が生まれ頭から離れなくなった。
「ちょっとだけでも会おう」
僕は不安をなくしたくて大人げないラインを送った。すると知花から返信があった。
「今日は疲れちゃって。もう帰るね。また来週にしよう」
深夜まで仕事をして、疲れているのは当然だ。仕事が長引くこともあるだろう。しかし、そんな当然のことをこの時の僕は信じることができなかった。
気づくと僕は目黒川を走り、店のある路地の前に立っていた。店に行って知花の言ったことを確かめようとしたのだ。しかしその時に知花が店から出てきて、いつもの自転車に乗って帰って行く姿が見えた。
その時にやっと僕は冷静さを取り戻した。自分は何をしようとしていたのか。日々子育てと店と夫のことで疲れているのに何を疑っている。疲れて会えないこともあるし、それを覚悟して知花と関係を始めたのではないか。
「そうだね。今日はやめよう。ごめん」
ようやくラインを返すと、鎗ヶ崎の交差点へ向かう坂を登った。
夜明けの寒さの中でまた自分が十年前と同じ過ちを犯そうとしている事に気づいた。見知らぬ相手への嫉妬に支配されて知花を幻滅させようとしていると。自分の成長のなさが情けなくなった。そして、二度とそんなことはしてはならないと自分に言い聞かせた。
しかしこの時から僕達は少しずつすれ違い始めた。今考えれば、僕らの関係が上手くいかなくなったのは、全て僕のせいだと理解できる。
結局僕は彼女の仕事への理解や、不倫という関係性の中での制限や我慢に耐えられるほど成熟していなかったのだ。そして僕は十年前と変わらず子供のままだった。
知花から僕のラインへの返信があったのは、数日経ってからのことだった。
「元気?この前はごめんね」
何もなかったかのように返してきたメッセージの裏で、きっと知花は僕の嫉妬心に気づいていたのだろう。しかしこの時は僕にチャンスを与えてくれた。僕を信じようとしてくれたのだ。なのに僕は自分を律することができなかった。




