鎗ヶ崎の交差点㉗
しかし部屋に入ると、知花はベッドにうつ伏せに倒れこんでしまった。まだ深夜十二時前で僕は時間を持て余してしまったが、昨日からあまり寝ていない知花を起こす気にはなれなかった。僕は彼女をそのままにして酔いを覚まそうとシャワーを浴びた。
バスルームから出てくると、知花は寝息を立てていた。正直がっかりした気持ちもあったが同時に安心もしていた。このまま関係を持ってしまえば何かが壊れてしまうかもしれない。そんな懸念もあった。
叶わぬ恋のまま、美しい思い出のまま。カウンター越しの距離のまま終わった方が本当はいいのではないかと。もしも今日がこのまま終わっても、彼女の手を握った時の感触と、この旅の思い出があれば生きていける。僕は知花を起こさないようにベッドに入った。
同じダブルベッドで、知花は僕に背を向けて寝ていた。それでも、近くに彼女を感じているだけでよかった。僕はしばらく彼女の寝息を聞いていた。
十年前はどこか大人びていて近づき難い雰囲気があった。しかし、今日の知花は普通の女性と同じようにはしゃいでいた。僕の中にあった知花はずっと十年前と変わらないままだった。大人びていて届かない存在。しかしそのイメージが今日変わり、新しい知花が僕の中に生まれた。はしゃぐ知花も携帯代を払い忘れてしまった少し抜けている知花も新鮮でとても愛おしかった。このまま、ここで暮らしていけたらと思った。たった二人だけで。
もっと早く再会していれば。代官山に引っ越した時に、中目黒のお店に気づいていれば。僕は彼女の髪を撫でながら、たらればの先にあるありえない未来を想像していた。
すると、知花の寝息が止んだ。
「あれ?今何時?」
寝ぼけた声で知花が言った。
「今は一時過ぎかな」
「ごめん。寝ちゃった」
「いいよ。疲れてたんだよね。お店に、子育てに、家庭に。少しは休まないと」
すると知花が僕に身体を向けた。とても近くで見る彼女はやはり美しく、いい香りがした。欲望が掻き立てられるのがわかったが、必死に抑えた。
「久しぶりだったの。彼も子供もいない時間なんて。本当に楽しかった」
「その割には、行った場所はお寺じゃなくて携帯ショップで君はさっきまで寝てたんだけど」
「いじわる」
「冗談だよ」
「うん」
僕らは見つめ合うと、自然にキスをした。知花の少し厚い唇は昔と変わらず溶けそうなほど柔らかかった。すると彼女が言った。
「まだ、こんな気持ちになれるんだ」
「え?」
「結婚して、子供を産んで。もう私はこのまま恋とかしないで生きて行くんだって思ってたから。でも、またこんな気持ちになれるんだなって」
僕はたまらなくなって、知花に深いキスをした。そしてその身体を引き寄せた時に彼女が言った。
「ごめんなさい。今日は無理なの」
僕は焦ってしまったかもしれないと後悔をしながら身体を離した。
「いや、謝らないでいいよ。俺こそごめん。君は結婚をしてるし・・・」
「違うの。実はこの前、中目黒で会った日あったでしょ?」
「え?ああ。顔色悪かった時?」
「うん。実はあの日、子供を堕ろしたの」
不思議なほど、動揺していない自分がいた。子供ができて、今度はいなくなってしまって。十年前は僕を置いて海外に行ってしまって。いつも知花は僕と関係ないところでことを進めてしまう。そんな知花に慣れてしまったのかもしれない。
「それは大変だったね」
「子供を産んで家に帰ったときに、断りきれなくて。ごめんね」
「いや、仕方ないよ今の状況なら。君が悪いわけじゃない。それに俺はそんなことは気にしないよ」
京都に行こうといった知花の心情がわかった気がした。彼女は辛い現状から一瞬でも逃げたかったのだ。僕はそんな知花が愛おしくてたまらなくなった。そして、心から守りたいと思った。
抱きしめると、知花も僕の身体に手を回した。そのまま、抱き合ったまま僕達は昼まで眠った。あれだけ計画していた京都観光もすることもなく。
夕方。中目黒の駅の階段を降りる途中で京都からずっと握っていた手を知花が離した。僕はその瞬間に現実に戻った。そして、彼女はまだ僕が手に入れられる距離にいないことを実感した。京都では恋人同士でも中目黒の街では他人として暮らす必要があるのだと。
しかし、僕達の距離は確実に縮まっていた。別れる時も、彼女が離れ難そうにしているのがわかった。改札を出て、駅の柱の影で互いに見つめ合い僕らは少ない言葉を交わした。
「それじゃあまた」
「うん」
このまま知花を攫ってしまいたい。しかし、彼女にはまだ家庭がある。理性が自分を諭そうとする中で、耐え難い欲望が波のように押し寄せてくるのがわかった。その唇が欲しくて堪らなかった。
「またね」
それを察知したかのように、知花は僕の手を軽く触り笑顔を残して去って行った。
夫との不和。そして堕胎。他人には決して言えない秘密を共有した僕らは、十年ぶりの再会という物語にも酔いしれて互いを求め合っていた。もう、誰にも止める事ができないほどに。




