出発
8月16日東京出発
ついに今日から長野に向けて200キロの道のりを走り始める。緊張からか、目覚まし時計が鳴る10分前に起きた。目は冴えていたけれど、なんだが体が硬い。顔を洗って冷蔵庫に入っている水を飲む。
外は確認しなくてもいいほど強い雨が降っている。スマホで天気を確認した。昨日の予想通り山梨県辺りでは曇りだ。なんとか山梨県辺りまで行けは雨には降られないだろうと当たりを付けた。昨日、朝食にと買ってあったパンを頬張る。歯が溶けているのが分かるほど甘い。そんなのを選んだんだから当然だ。トイレに行って用を済ませ、自転車のタイヤの空気を入れに外へ出る。
案の定雨が降っている。目の前に見える駐車場から雨の降っていないこちら側に侵略するように足元のアスファルトは染みを作っていた。
自転車に「よう、おはよう」と小さく声を掛けて空気を入れていく。嘘か本当か知らないけれど、タイヤの空気はいっぱいまで入れない方がいいという事を聞いたことがあった。何事もバランスと言う事だろうか? とまぁそんなことは無視してタイヤにどんどん空気を入れていく。どこかでパンクしたらしたで、自転車屋さんか修理出来そうなおっちゃんにでも頼もうとは思っていた。しかし、出来るだけパンクはしてほしくなかったので、僕が思ういっぱい手前まで入れた。サドルを叩いて自転車と自分に気合を入れる。
荷物を外に出して、必要な物を改めて確認した。鞄を雨具で包み、ママチャリの荷台にゴムの網で括り付けた。ダサいポンチョ(大きな幼稚園の制服を想像してもらうとわかりやすい)を被って、ママチャリの写真を撮った。それをツイッターに上げた。ツイッターとは言ってもその垢のフォロワーは大学のサークルの友達くらいだ。あとは、母親が面白半分で、おばあちゃんや親せき、従兄妹、弟を入れたラインのグループに写真をアップした。
辺りは雨雲のせいで随分暗い。僕の恰好は青いポンチョを被ってコンビニ行くような服装。ポンチョを被ると下は何も履いていない様に見える。この生足が女の子だったら扇情的でもあるだろうが、あいにくとすね毛だらけだ。
夏だというのに鳥肌が立つほど寒い。寒さか武者震いか、体が震える。
「よし、行くか」そう、近所迷惑にならない様に呟く。世の中には自転車で世界一周や日本縦断などすごい事をやった人が結構いる。しかし、僕にとっては、たかが200キロでも大きな挑戦と言える。その出立に歓声がない事はずいぶんとさみしかったが、ええいこんなものだろう、とペダルを踏みこんだ。
雨が強い。ポンチョのフードを被っていたが、頭はもうずぶぬれだ。ポンチョの覆いきれない部分は雨に濡れて、いくら体を動かしても温まらない。必要な物の候補として若干の雨をはじく素材のスポーツウエアを考えていた。けれど、持ってきても雨で重くなって荷物になるだけだったろう。雨のせいで眼鏡に水滴がついて視界が悪い。息を吐くとメガネが曇って気温が寒い事が分かると同時に前が見えなくなる。眼鏡をはずして視界を確保する。
東京の高低差が大きい道をグネグネと進んでいく。半ズボンの腿の辺りが雨で濡れる。寒いからポンチョで覆うが風ですぐに雨に晒される。20号線の道路に出るまでのルートは少し確認したが、知らない道をひた走るのに一抹の不安があった。しばらく進み、先が突き当たりで道路の下の駐輪場に止まっていったん休憩する事にした。
ポンチョの下は蒸れて暑いのに覆われていない体の一部は冷たくなっている。フードを脱ぎ、ポケットから濡れてるスマホを取り出す。グーグルのマップを開いて位置情報とルートを確認する。地図の縮尺の関係だけれど、意外と進んだように思える。目の前の突き当たりには線路が通っている。どうやら線路を渡った向こう側に20号線があるようだ。ふーっと大きく息を吐いてフードを被りなおして雨の中に突っ込んでいった。
しばらく線路の脇を通っていると、線路の上を通る様に歩道橋が右手に見える。さすがに踏切があるだろうとそれを無視して、先に進んだ。すると左折しか出来ない道にぶつかった。もしかしてあの歩道橋を渡るのだろうか、と思いながら惰性で左折して少し進んだ。出社だろうか、肩掛け鞄を背負って傘をさしているおじさんがこちらに向かって歩いてきた。
「突然すみません。20号線ってどう行けばいいですかね?」
本当に突然声を掛けたので、向こうは若干戸惑いながらも、「反対側だよ。向こう側だから、一回歩道橋を渡ってしばらくの所にあるよ」そう丁寧に教えてくれた。「あーやっぱりか」とつぶやき、お礼を言って自転車を反転させて歩道橋まで走った。
言い忘れていたが、鞄を覆う雨具には「東京から長野に帰省中なう」と油性ペンで書いたゼッケンを張っていた。だから親切なおじさんは反転した僕のゼッケンを見て驚いたはずだ。きっと20号線を朝5時に目指す珍妙な男の登場にまさか、と一瞬よぎった予感がそれで確定したのだから。とまぁ相手からしたら一切の興味はなかったかもしれないけれど、自分を鼓舞するためにそんな想像をして、歩道橋を自転車で押して上った。
歩道橋自体あまり上った事がないのに加えて、少ない荷物でも荷台に乗ったママチャリを押して上るのは大変だった。けれど、歩いて進んでいることにちょっと面白く感じた。
歩道橋を降りて、先に進む。そのあたりは住宅街になっている丘が右手にあり、あまり上りたくなかったが、おそらくどこかで右に曲がらないと、と思っていた。しばらく行っても右手に大きな道は見えてこない。このまま進んでしまうと20号線に合流するまで、遠回りしてしまうだろうことを恐れて適当なところで右に曲がった。小さくない坂道を走る。今日初めて立ち漕ぎをちゃんとした。幅広のポンチョが風の抵抗をめいっぱい受けて、普段よりも辛い。さらに、この道で合っているか分からないまま進むのは案外体力が奪われる事に気付いた。ボクシングで当てようとしたジャブが外れた時の疲労が大きいというのと似ているかもしれない。住宅街をグネグネと進み、進行方向は合っている事を確認するために、ちょっと先に歩いている歩行者に声を掛けた。
「すみません、20号線ってこっちの方で合ってますか?」
向こうは音楽が好きそうな女性で、高そうなヘッドフォンをしていた。二回目の声掛けで気づいてくれた。彼女は右耳だけヘッドフォンを持ち上げて、20号線だろう方向を指さした。無事進行方向は合っていることを確認した僕は頭を下げて先に進んだ。
彼女が何も言わなかったことに、面倒だから適当な方向を指さしたのではないだろうか、などと邪推したが、先ほどのおじさんも同じような方向を刺していたので大丈夫だろう。
しばらくその方向へ進むと、コンビニが見えた。サ〇クスだったと思う。僕は東京から長野に郵便で送らなくてはならないものがあったので、そこで済ませてしまおうと寄る事にした。
全身びしょびしょで店員さんに悪いな、と感じ、あまり効果はなかったけれどつま先立ちでお店に入った。郵便したい旨を伝えて、住所を書く。一部濡れてしまったが、支障はなさそうだったから無視した。そうして、僕が帰った直後になるだろう18日午後の着払いにした。
もともと買おうと思っていた袋詰めの飴玉と小さいアンパンが数個入っているのを買った。無事郵送を頼んで、ママチャリのかごが少し軽くなるな、と思いながらアンパンを頬張る。つぶれても構わなかったので、小さくして鞄に詰めた。飴玉を口に入れて、数個をポケットに突っ込んだ。久しぶりに飴玉を舐めるな、と懐かしさを感じた。そこで20号線の道を確定しようと思ってもう一度入って聞いた。
「度々すみません、20号線ってこっちの先にありますか?」指を刺して言う。
「あ、道は分かりません」そう女性の店員は面倒臭かったのか、そう答えて、それにかぶせる様に奥にいた風邪気味の青年が「少々お待ちください」と大きな地図で道を確認してくれた。確認してくれた青年の店員は丁寧に道を教えてくれた。お礼を言って、店を出た。
先ほどの女性の店員の気持ちはわからなくもない。確かに今スマホで確認できるから、自分で調べろって思うし、それこそggrksって奴だ。まぁ僕は地図を見るのが苦手というのと、人に聞いた方が確実だと思う昔人間だから仕方ない。それに、スマホはこれ以上濡れない様に鞄に入れていて、取り出すのが面倒だったというのもあった。反省しながら飴玉をもう一つ口に放り込んで、ポンチョを被る。後方を確認しながら青年に教えてもらった道に出た。口の中はメロンとブドウ味で甘々だ。この帰省が終わるころには虫歯の一つや二つできるだろうな。
教えてもらった道をしばらく進むと、先の道が二つに分かれていた。坂を下る道か、そのまま進むか、と少し迷ったので、再び歩いていたおじさんに声を掛ける。もちろん違うおじさんだ。同じおじさんだったらホラーだ。
坂を下りてすぐだよ、と教えてくれて、どこまで行くの? と続けた。僕は長野までです、と答えてお礼を言って離れた。おじさんはきょとんとした後に頷いて答えてくれた。
おじさんの言う通り、坂を下ると、20と言う文字の書いてある丸い標識が出てきた。徐行しながら、その青い看板をにやにやして通り過ぎて、よっしゃーっと気合を入れなおして速度を上げた。
初めは八王子を目指して漕いだ。しかし問題が発生した。
八王子に入る手前辺りから、お腹がじくじくと痛み出した。持病がある訳ではないので、何か原因があるだろうと推測。朝口にしたのは甘すぎる菓子パンと、冷えた水、アンパンに飴玉数個。漕いでいる最中は朝に冷えた水をあおった事に気づいていなかった。たぶん原因は冷えた水と、気温に適した格好ではなかった事だろう。胃袋の内側から何かがチクチクと面白がって突っついている様な気がした。痛みに耐えながらだましだまし進む。飴玉を舐めたり、手で擦ったり、他の事を考えてみたが効果は薄い。
浅川というところでいったん止まった。何か写真でも撮らなくては、とまるで人気ブロガーやyoutuberの様な義務感に駆られた。今考えると痛みの末、他の行動に移りたかったのだろう。しかし実情は20人も見てはいないし、早朝ゆえ、レビュー数は少ないだろう。お腹の痛みに耐えながら適当に写真を撮って、ツイッターにはその名の通り、痛みを呟かせてもらった。負けた気がしたので、ラインには「浅川なう」とだけ書いてスマホを仕舞った。
記憶が曖昧で申し訳ないのだが、この浅川以降の歩道は広かった気がする。八王子の商店街と言う奴だろうか。等間隔でバス停があり、朝早くから数人が並んでいた。人に気を付けながら歩道の方を走らせてもらい、商店街を抜けた。道が少し細くなり、左手から車や人が出てくるのが怖かった。雨は相変わらずで、それに加えて当時原因不明の腹痛に顔を歪ませていたと思う。
すれ違う自転車に乗っている人はカッパを着ている。僕はそれをチラリと見て、ショウウィンドウに移る自身の恰好を見た。違うんだよ、あれなんだよな、と心でぼやいた。確か実家にカッパもあったはずだけれど、荷物を減らす為に、ポンチョにした。少しションボリとしたが、今はこれしかないんだ、と自分に言い聞かせた。それに隣の芝は青いと言うのだし、カッパはポンチョよりも脱ぐのが大変だし、もっと蒸れるだろう。はっはっは、ざまぁみろ、と強がってみたが、寒かったので羨ましかった。
そうして、しばらく進むと、若干の坂道が始まった。いよいよ田舎の道と言った具合で歩道も狭ければ、道路も狭い。本当に国道20号線か? と不安になるも、時々現れてくれる青い20号という標識を確認して安心した。国道なんだからもっと広く作ってくれよ、なんて無茶な願いをしていても仕方ない。
この坂道を上っている最中に改めて気付いたのは、ポンチョは幅が広い事だ。こちらに飛び出している草木はもちろん、ガードレールや、家の壁などが時折引っかかる。うっわ、こっわ、ひぃっ、はぁー、むーん、ぷぷぷっ、などと叫びながら転ばない様に慎重に進んだ。雨で声がかき消されるし、車も通っているからある程度大きな声で呟いても大丈夫だろうと勝手に決めつけた。
しかし、先ほどから続く腹痛は収まってくれない。坂を上り始めて、幾つ目かのコンビニを見つけ、何か温かいものでもお腹に入れてみようと思い立った。お腹が痛くて、体が冷えていた事もあった。プールから上がってきたゾンビの様にコンビニに入る。目に入ったのはインスタントの八王子ラーメン。八王子からちょっと離れていると思ったけれど、所狭しと置いてある。まるでここもまだ八王子だぞ! と訴えているようで可笑しかった。
部活をしていたころから、特にごはんはたくさん食べる様になっていた。加えて根性論的な考え方もするので、食えば元気になるだろう、とおにぎりも手に取った。
朦朧としながら店員に「お、お湯を入れてもいいですか?」と言ってお湯を探すも見つからない。店員は戸惑いながらもレジの横にある事を伝えてくれた。覇気のないお礼を伝えて、お湯を入れた。ここまで、という線よりもちょっとだけ多く入れた。ウルトラマンより一分長い4分の八王子ラーメンに顔をしかめながらも、外に出る。
寒い。うー、と唸りながらインスタントの準備をする。待っている間は体を震わせながらスマホだ。
なんか今書いていて、「スマホ、いつでもスマホ、寄生されてんのか、してんのか分からない み〇お」みたいなのありそうだと思ったよ。とまぁ、撮るものも特になかったので、スマホでレスポンスを返していく。普段いいねしてくれない友人がしてくれるとちょっとうれしい。
頬を綻ばせながら、時計を確認する。まだ3分だ。もうウルトラマン帰っちゃう時間だし、いいよね、と意味不明なこじ付けをして封を開けた。後入れの火薬なりを入れてかき混ぜる。箸を持つ指は寒さでこわ張っている。いや、麺もまだ固かったのだけれど、関係ないとスープを啜る。
そこまで熱くないはずなのにとっても熱い。冬空の下の缶コーヒーはめちゃくちゃ熱い現象と同じだ。お腹の痛みはまだ少しするけれど、温かいもので良くはなると確信していたので、おにぎりとラーメンを交互に食べていく。
久しぶりに体を動かした事もあって、ものすごくおいしく感じた。熱々のスープに浸っている麺を引き上げて口に運ぶ。追う様にスープを啜って、器を置いて、おにぎりを頬張る。ごはんとラーメンの炭水化物のタッグは最強だ、止まらない。麺がなくなっては悲しい。また、スープを飲みすぎても麺が冷える。麺とスープのバランスを保ちつつ、食べ進めていく。おにぎりはもうなくなった。時折出るため息は満足げだったと思う。最後の一口はスープ派だ(スープの底には細切れの麺や具が残っている。そのお得感を楽しみながら器をあおるのだ。しかし、気を付けなくてはならないのは、スープの底にある調味料の塊だろう。あれは飲み干すときの天敵だ。最後の濃すぎる味の所為でじゃりじゃりするのが僕は嫌いだからだ)。そうして、空になった器をしばらく見つめ、ご馳走様、とつぶやいてゴミをまとめた。
その頃にはお腹の痛みはほとんど無くなった。体温も上がって、元気が体中から溢れてきた。