幸せと不幸せの採用日
処女作「幸せで不幸せな水曜日」の番外編にあたります。初めての方でもしよければ先にそちらを読んでもらえると嬉しいです。
1 仲良しこよし
私は恵まれていた。父親はそこそこ大きな会社の経営者だったし、母親はお菓子教室を開いていた。家には両親と私の笑い声が絶えなかったし、お菓子の甘い匂いが優しく私たちを包んでいた。
今日の夕食はグラタンにチキンライス、それとポテトサラダだ。どれも私の好きなもの。
「佳澄、明日の準備はしたの?」
グラタンを頬張る私にお母さんが言う。
「もう毎日言われなくてもちゃんとしてるよ」
わざとらしく頬を膨らませる。
「母さんは心配性だな」
はははと笑いながらお父さんが相槌を打つ。
「だって佳澄忘れっぽいんだもの」
お母さんも負けじと言い返す。どの言葉にも笑顔が絶えない。
私は、この世界には幸せしかないと思っている。不幸せなんてのはその人の捉え方次第でどうにでもなるのだと、私の中ではまだ幸せしか採用されていない。
いつもの会話をみんなで交えながら楽しい夕食は進んでいく。
食べ終わって、食器を流しに置いて水に浸ける。
「じゃあ明日の準備してくる」
「さっきしたって言ったでしょ?」
今度はお母さんが頬を膨らませる。
「どうせするんだからいいでしょー」
私は笑顔でそれだけ言うと自分の部屋に向かう。
リビングからはまだお母さんとお父さんの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
中学三年生に上がってからもうすぐ二ヶ月だ。何もかもが順調で高校もみんなと同じとこに行きたいなと思うというか、同じ高校に行こうという話になっている。
朝は友達が迎えにくるから、早く寝よう。
お風呂に入って、髪を乾かして、寝る準備をしてから布団に入る。
学年が上がって陽麻里と一緒のクラスになれたのが嬉しい。幼稚園の頃からずっと一緒だったから。家が離れてるから一緒に登下校できないのが寂しいけど。ちょうど私の家と陽麻里の家を直線で結んだ真ん中に学校がある感じだ。
そんなことを考えているといつの間にか私は寝ていた。
朝は、6時にセットした目覚まし時計の音で目が覚めた。
上体を起こして伸びをする。
布団から出ると洗面所で顔を洗って、リビングに向かう。昨日のグラタンの残りを冷蔵庫から取り出すと、レンジで温めてテーブルに置く。牛乳かお茶かで迷ったけど、牛乳にして私は席に着いた。
グラタンを食べ終わると、今度は食器を洗う。この時にだいたいお母さんは起きてくる。
「あら佳澄、おはよう」
はかったかのようなタイミングでお母さんが起きてきた。
「おはよー」
お母さんに挨拶を返すと、食器を食器乾燥機に入れる。
「お母さん。もう私食べたから、友達来たら行くね」
「はーい」
お母さんは寝起きらしい間延びした返事をして洗面所に消えた。
私は制服に着替えるため部屋に行く。
学校指定のカバンに昨日の夜、お母さんが作り置きしてくれたのだろう弁当を入れて、忘れ物がないかカバンの中を確認しながら友達を待つ。
私の中学校は珍しく昼食は弁当なのだ。家庭の事情などで用意できない生徒には配達弁当というのがあるから、それを予約すれば大丈夫だ。お金は提示額の半分でいいらしい。私は、基本家庭だけど。
少しうつらうつらしていると、チャイムが鳴った。
「はーい」
洗面所からお母さんの間延びした声が聞こえてきたけど、それをスルーして私はカバンを肩にかけると、お母さんのいる洗面所に「行ってきまーす」と声をかける。
「行ってらっしゃい。気を付けてねー」
洗面所から聞こえてきた。
ガチャっとドアを開けると、同じクラスの加瀬彩奈と畠山奈々美がいた。
「佳澄おはよ!」
元気よく彩奈が挨拶をする。
「おはよ」
続けて静かに奈々美が挨拶をした。
「おはよ!」
私もそこそこ元気に挨拶を返した。
3人で並んで家を出る。
「今日もいい天気だね」
彩奈は朝から元気だなとニヤニヤする。
「何ニヤニヤしてんの」
早速、彩奈に見られてしまった。
「いや元気だなって」
ニヤニヤしたまま答える。
それを見て奈々美がクスッと笑う。
「奈々美までー」
「いつものことじゃん」と騒ぐ彩奈をなだめる。
「今日の授業めんどいよね、特に社会のアイツぜーったい女子のこと変な目で見てる」
彩奈は自分の体を両手で抱えるようにする。
社会のアイツこと尾田先生は太っててメガネをかけている。ついでにいつも鼻息が荒い。
「かもね。彩奈とか可愛いから特にでしょ」
私の言葉に奈々美も頷く。
「そんなことないって、佳澄も可愛いじゃん。なんていうのクールビューティ?」
「違うと思う」
私は笑った。
「笑うと可愛い」
奈々美が追い打ちと不意打ちをかけてきた。
「ちょっとやめてよね、彩奈も奈々美も可愛いって」
「みんな可愛いってことで」
彩奈が締めくくった。
人の悪口はあまり好きじゃない。なんとかそれてよかった。少しホッとする。共通の話題に人の悪口は相性がいいと思う。でも、やりすぎるのはよくないとも思う。
それからはどうでもいいって言っちゃいけないけど笑い混じりのガールズトークに花を咲かせた。
学校が近づいてきて、同じ制服を着た生徒たちが増えてきた。
彩奈の方を向いて話していると、左肩を叩かれた。
彩奈が真ん中で向こう側に奈々美がいるから、ん? 誰だろう? と思いながら振り向くと誰かの人差し指が私の頬を突いた。
「みゅっ」
変な声が出た。その誰かは同じクラスの灘克樹だった。
「ちょっと何すんの」
「面白そうだなと」
文句を言う私を爽やかに眺めながら、灘は言う。
呆れる私を見て勝ち誇った顔を浮かべる灘に復讐心が芽生えて脇腹をガチッと掴んでやった。
「うわっ」
慌てて飛び退く灘を見て、私は笑う。
「ほらほら葛楽さんいじめるから」
灘の隣にいた野間弘樹がさらに脇腹をガチッと掴む。
「お前まで!」
二度目の飛び退きで電柱にぶつかって「すみま……」と謝りかけた灘を横目に野間くんとも挨拶する。
「野間くん、おはよ」
「弘樹くんおはよー!」
「おはよ」
私に続いて彩奈と奈々美も挨拶した。
「みんなおはよ。朝から元気だね」
「でしょでしょ」
食い気味に彩奈が答える。
そのまま彩奈は野間くんの隣を陣取った。
私は彩奈が野間くんのことを好きなのを知ってたから、空気を読んで奈々美の隣に行く。
「ほんと彩奈わかりやすいよね。野間くん気づいてないのかな」
2人の世界、というか彩奈の世界に入った2人を見ながら奈々美に話しかける。
「一年の時からだもんね」
奈々美が言った。
「電柱に謝りかけるとは思わなかったわ」
さっきまでゆったり後ろを歩いていたのに彩奈と野間くんが話し出したら隣に来た。寂しいのかな?
「野間くん取られて寂しいの?」
「はあ? んなわけないし、ただ……やっぱいいや」
「そこまで言ったら言おうよ」
「いやいいよ」
「えー言って、教えて、この通り」
手を合わせて、上目遣いをやってみた。奈々美から借りたコミックの知識だけど。
「いやいいって」
顔を朱く染めてそっぽを向いてしまった。あれ? 効果あり? なんて思いながら奈々美を見る。
「佳澄も野間くんも似たり寄ったりだね」
「どういう意味?」
「言葉の通り、もう校門見えてるよ」
相変わらず笑顔のまま奈々美がスタスタといってしまう。
「待ってよー」
ちらっと灘を見るとホッとしたような顔をしていた。
仲良く5人で校門を通り過ぎて、教室に向かう。途中でクラスの違う野間くんと離れたけど。彩奈が残念そうにしていた。
今日は時間が過ぎるのが早い。午前中は好きな授業が多いから。特に国語かな。
午後イチは社会。
4時間目の国語が終わって、お昼になる。
「佳澄ーご飯食べよー」
「わかった」
彩奈は私の後ろで陽麻里は私の隣だから一緒の班なのだ。奈々美は残念ながら別だけど。1番後ろの廊下側の席だ。
お昼はそれぞれが6人グループになる形で向かい合わせてお昼を食べる。
先生の中には自由にしてくれる人もいるらしいけど、私のとこの担任は真面目だからダメだ。
「陽麻里の弁当いつも整ってるよね。自分で作ってるの?」
「そうだよ。結構大変だけど、楽しいよ」
少し恥ずかしそうに、伏し目がちで答える。
「私なんてお母さんが作ってるからね。自分でやらなきゃダメかな~」
「まだいいと思うよ」
「佳澄、午後イチ社会だね」
まだ陽麻里と話していたかったけど、彩奈に話しかけられた。
「だね。まあ楽だからいいよ」
社会の授業は基本的に配られたプリントを埋めながらやっていく。教科書を見ながらでもできるから楽だ。
「えーでも、すっごい見てくるよ絶対」
確かにプリントにひたすら記入するだけだから目線は教科書とプリントに釘付けになる。
「たまに顔あげると目合うし、まじキモい」
吐き捨てるように彩奈は言う。
「まあまあ。それより6時間目の英語の小テストはどう? できそう?」
私は話を変えた。
「まあ小テストなんてちょちょいだし」
「さすが彩奈」
小さく拍手する。
「とか言ってる佳澄はいつも満点だもんね」
満面の笑みで彩奈が私の頭を撫でてくる。
「撫でないの」
彩奈の手を自分の頭からどかす。
彩奈はどかされた手を下ろすと、陽麻里を見た。
「田川さんは小テストどう?」
びくっと肩を震わせて陽麻里が顔を上げる。
「わ、わたしは大丈夫です」
「なんで敬語なの? タメだからタメでいいし」
彩奈が不機嫌になったのがわかった。
これはちょっと嫌な空気だなと思って会話に入ることにする。まだ彩奈と陽麻里は一言しか交わしてないけど。
「陽麻里頭いいしね。小テストでも全力、みたいな感じでしょ」
「うん」
もう彩奈は興味をなくしたのか残りのご飯を食べ始めた。
あっという間にお昼の時間は過ぎて、もう5時間目だ。
本鈴が鳴る少し前に尾田先生が入ってきた。
「じゅ、授業始めるよ」
目を必要以上にキョロキョロさせながら、教材を教卓の上に置いた。
もっと堂々とすればみんなから馬鹿にされたりキモがられたりしないと思うのに。
本鈴が鳴って、起立、礼、着席をすると尾田先生は早速プリントを出した。
「く、配るから。ま、前から回して」
先頭の子が慣れた手つきでプリントを後ろに回していく。
私も受け取ると、プリントに名前を書いてから教科書を開く。
「プ、プリントきたら始めて」
ざっと周りを見回すと、もうみんなプリントをやっていた。
教科書を見ながらプリントを埋めていると、午後イチの授業というのもあって早くも眠たくなってきた。
時計を見ると15分くらい経っていた。
眠気と闘う私に彩奈が後ろから声を掛けてきた。
「佳澄、今アイツと目あったんだけど、萎える」
「我慢してずっとプリントやっとけば大丈夫だよ」
「無理無理、視線感じるもん」
少し後ろを向いて何か言い返そうとしたら、視線を感じた。顔を上げると尾田先生と目があった。
「プ、プリントに集中して」
「……すいません」
条件反射で謝ってしまった。
「いいよ、謝らなくて」
「なんで彩奈が言うの」
小声で返す。
「だってキモいじゃん」
よく意味がわからなかった。
「でも一応先生だよ」
自分で言っておきながら、あって思った。
「一応なんだ」
すかさず指摘された。
「もう、プリントやるよ」
「く、葛楽さん。プ、プリントに集中して」
彩奈が何かを言う前に尾田先生に言われた。
「はい……」
むぅと彩奈を睨むけど、彩奈は知らぬ顔どころか口を押さえて笑いをこらえている。
私は、諦めてプリントに集中する。
授業が終わって、早速、彩奈に名前を呼ばれた。
「佳澄」
「なに?」
返事をしながら振り返ると、ツボったのかわからないけど、まだ口を押さえていた。
「葛楽さんだって」
彩奈は堪え切れなくなったのか、声を出して笑った。
「彩奈笑いすぎー! もう、彩奈のせいだからね」
「ごめんごめん、だってあたしなのにあたしじゃないんだもん」
「そこだけ聞いたら、誰も意味わかんないよ」
私もつられて笑った。
私たちの笑い声に気付いた奈々美が、どうしたの? と言いながら近づいて来た。笑いながら彩奈が説明する。「佳澄悪くないのに」と奈々美も笑った。
今日最後の英語の授業も無事終わった。小テストも問題ない。
受験生というのはわかるけど、実感はまだない。
帰りの会が終わって、奈々美がカバンを肩に引っ掛けると入口を指差した。まあ前後の扉に入口も出口もないけど。強いていうなら、ロッカーのない側が入口だろうか。
私と彩奈は頷くと、先に出た奈々美に続く。
私は、出る前に陽麻里をみた。陽麻里も私を見ていて小さく手を振ってくれた。私も振り返す。
「佳澄、どうしたの?」
彩奈の声が前から聞こえてきた。振り向くと奈々美も私を見ていた。
「ううん、なんもない。行こっか」
朝のように3人並んで下駄箱を目指す。
下駄箱が目と鼻の先に迫った時、野間くんと鉢合わせした。
「野間く……「弘樹くんじゃん!」」
彩奈が私の声に被せるように言った。
「みんな今帰り?」
野間くんはテンションの上がってる彩奈に気付いているのかいないのか、いつもと変わらない。
「弘樹くんは、もしかして灘くん待ち?」
彩奈の質問に野間くんは笑顔で答える。
「そうだよ」
「じゃあ来るまで時間つぶそーよ」
こうして、彩奈の世界に野間くんは引きずりこまれた。こう聞くとホラーだけど。
改めて思う。純粋に彩奈は野間くんが好きなんだなって。
奈々美と目が合うと、奈々美が微笑んだ。
「しょうがないから、灘来るまでまとっか」
私も微笑み返しながら言った。
「うん。そうだね」
奈々美はそう言うと彩奈たちと廊下が見える位置の壁に寄りかかった。私もその隣で寄りかかった。
ハイテンションな彩奈と相変わらず落ち着いてる野間くんを見ながら、灘を待つ。
10分くらい経ったかな。隣の奈々美に肘で小突かれた。
ぼーっとしていた頭を覚醒させる。
「どうしたの?」
奈々美に訊くと、目線だけ動かしてその問いに答えた。
奈々美の目線を追うと、灘が歩いてきた。
「やっと来たね」
私の口から空気が漏れるみたいに無意識に出た。
「灘くん」
俯き加減だった灘が奈々美の声に反応して顔を上げる。
顔を上げた灘と目が合った、と思う。
「やあやあ」
奈々美に合わせて、私も声をかける。あくまでも合わせただけだ。
「おお、葛楽に畠山さん。えっなになに、おれ待ち?」
私はニヤつく灘を睨む。
「そんな見つめんなよな、照れるだろ」
「睨んでるの!」
私と灘を見て奈々美が笑う。
「2人で何してんの?」
改めて灘が言った。
私と奈々美は少し離れたとこにいる2人を見る。
灘も状況を認識して苦笑する。
「弘樹も加瀬さんの気持ちに気付いてると思うんだけどな」
この灘でさえもわかるくらい、彩奈は野間くんと話すとき、好き好きオーラを纏っているのだ。
「野間くんは灘待ちだったんだよ」
私の説明に「だろうな」と灘は野間くんたちを見ながら答える。
「おーい、弘樹来たぞ!」
灘の大きい声に、野間くんも彩奈もこちらを見る。
「あ、やっと来たね」
野間くんの声には安堵の気持ちが混ざってる感じがした。
彩奈はあからさまに残念そうにしていた。
結局5人揃った。中学二年生の時は5人とも一緒のクラスだったからもっとスムーズに帰れたけど。みんなで靴を履き替えて帰路につく。なんだか嬉しい。
前を歩く3人を見て口が綻ぶ。
彩奈は飽きずに野間くんに話しかける。しっかり答える野間くんも偉いと思う。奈々美はそんな2人、主に彩奈のフォローをしていた。大変そう。
「どうした?」
お察しの通り、私は3人の後ろを灘と並んで歩いてる。
「どうもしてない」
「葛楽ってさ、す、好きなやつとかいないの?」
突然のその質問に、思わず灘を見る。また、目が合った。灘は逸らさない。私も対抗心が芽生えて逸らさない。
灘の目は真剣だった。
「いない、かな。多分」
「なんだよ、多分って」
灘が笑って、張っていた空気が緩んだ。
「よくわかんないんだよね、好きとか嫌いとか」
これは私の本心だった。今まで、いいなと思う人がいたことはあった。でも、それが好きかと言われるとわからない。
「いいなって思ったり、毎日考えたりしたらそれが好きじゃない? まあおれも難しいことはわからないけどさ」
結局は十人十色かと納得した。
「灘は好きな人いないの?」
私もお返しに訊いた。
「……いる、っちゃいる」
歯切れの悪い返事だった。
灘の好きな人、誰だろ? 想像するけど、想像の女の子にはモザイクがかかってるみたいに思いつかない。
「へえー、誰が好きなの?」
「い、言わねーよ。バカ」
朝のように頬を朱く染めて顔を逸らした。
「バカって何よ。バカは灘じゃん」
そこかよって顔をしつつ、灘も言い返す。
「おれ別にバカじゃねーよ」
「中二の成績は?」
「言うわけないだろ」
「バカだからだね、オール2とか」
「それ以上言うなー」
図星だったのか灘は頭を抱える。
私の意地悪な質問にたじたじになる灘が面白くて、吹き出す。
「灘って面白いね」
灘は「そうかー?」と首をかしげる。
「ま、でも葛楽はいいなって思うよ」
灘のその言葉に、思わず固まる。
灘も頰を染め出した。
今、私をいいなって言ったよね? 自分の中で確認する。それって灘の好きの定義に当てはまる?
「あ、いや、いいなって思うけど、そうじゃなくて。そう、お前と話すの楽しいってこと!」
慌てて、灘が弁解するけど、墓穴を掘ってる感が否めない。
「わ、私も灘と話すの楽しいし、お互い様だよ」
なんとなく気付いてしまった。私、灘のこと好きかも。
なんだか悔しくて灘の脇腹をガチッと掴んでやった。
「や、やめ……」
飛び退きながら、また電柱に当たって「すみま……」と謝りかけていた。
「お前だから許すけど……いや、なんもない」
お前だからって言うのが頭に残った。せっかく直そうと思ったのに、灘が戻してしまった。
変な空気になってしまった私たちはみんなが解散するまでぎこちない会話になってしまった。ほとんど灘が喋っていた気がする。
明日は気をつけよう。灘にも申し訳ないし。
いつの間にか家の前にいた。そんなに考え込んでいたのかと呆れてしまった。半笑いの表情で家に入る。
次の日、もう梅雨に入ってると思うのに晴れていた。晴れるに越したことはない。今日は金曜日だし、頑張ろ。
いつものように、支度をして2人を待つ。
ピンポーン……とインターホンが鳴った。
ドアを開けると2人がいた。
「佳澄おはよ!」
「おはよ」
「おはよ!」
毎度同じ順番同じ声量の挨拶を交わす。
週終わりの登校だ。3人で並んで歩き出すと、彩奈が口を開いた。
「ねえねえ、今日もあるよ社会」
これも毎度とは言わないけど話題に出る率は高い。
「また見てくるんだろうな〜佳澄とか目つけられてるね、昨日の感じ」
「ないない、昨日はたまたまだよ。それより、今日金曜だよ」
私はいつも通り話題をそらした。さすがにわかりやすかったかも。
「金曜日ってありがたいようで言うほどだよね、だってただ単に次の日に休みが二つ重なるだけだし」
彩奈は空を見ながら答えた。
「昔は土曜も午前中に授業あったの考えたらラッキーだと思う」
奈々美が彩奈と同じように空を見上げながら言った。同時に彩奈は空から視線を外して前を見た。
「まあね」
前を見たまま彩奈が言った。奈々美もすぐに視線を前に向けた。
「あ、ねえ高校も3人一緒ね!」
唐突に彩奈がテンションを戻して、私たちの顔を交互に見ながら言った。
「うん」
奈々美は控えめながら、しっかり返事した。
「陽麻里も一緒がいいな」
つい本音が漏れてしまった。思わず彩奈を見る。私が改めて何かを言う隙さえ与えずに、彩奈がムッとした。
「佳澄はいいかもしんないけどさー、あたしら仲良くないし」
そうだねとでも言ってくれたらよかったのに。良くも悪くも彩奈は正直だ。私は、少し言い返してしまった。
「でも、4人の方がいいって」
彩奈は完全に不機嫌な顔になった。
「だから、あたしら仲良くないし。絶対あの子も嫌だと思うよ」
ちらっと奈々美を見ると、不安そうに私たちを見ていた。
「だいたい、佳澄はさなんでいつも途中で話切るの?」
「え?」
急に話題が変わって、陽麻里のいいところを考えていた私はうまく反応できなかった。
「え、じゃなくていつも切るじゃん。さっきもさ、普通に気付くし」
何を言われているのかよくわからなかった。人の悪口を言うのが好きじゃないから、話題をそらしていた。でも、何か迷惑かけたのかな。考える私に、彩奈が続ける。
「ほんと、いい子ぶってんのか知らないけど、もういいよ。たまたま奈々美との通学途中に家があったから、一緒に登校してたようなもんだし」
なんて返せばいいのか思いつかなくて、黙っている私を完全に見限ったのか首を振った。
「もう知らない。行こ、奈々美」
「う、うん」
奈々美は気まずそうにしながらも彩奈についていく。
学校に着いてからも、一切、彩奈とも奈々美とも話すことはなかった。気まずさだけが増していく。なんて言っても彩奈は後ろの席なのだ。結局何をすることもできず、下校の時間になる。
さすがに帰りになれば機嫌を直して、佳澄帰ろ、とでも声をかけてくれるだろうと思っていた。私が、動かなかったのも悪かったのだろう。結局、彩奈は奈々美と2人で帰ってしまった。
灘や陽麻里が話しかけてくれたけど、上の空だった。無視をされるのは初めてだった。
私は久しぶりに1人で家に帰った。
家に着いてから、すぐに変に待たずに謝りに行けばよかったと反省した。
ほとんどの人がやってるだろうLINEを使う手もあるんだろうけど、あいにく私は高校の入学祝いでスマホを買ってあげようと両親に言われている。
まあ、土日あるし月曜日になれば戻るかなと私は甘く考えていた。
喧嘩するほど仲がいいとも言うしとすら考えていた。
現実はそんなに甘くないと言うことを、月曜日に知ることになる。
月曜日、今は不安と期待でいっぱいだ。まるで入学式の日に戻ったみたいだ。
いつもより早く目が覚めた私はいつもより早く準備も終わった。自分でもそわそわしてるのがわかるくらいだった。カバンを準備して制服に着替えて、ひたすらお茶を飲んでいた。しばらくそうしていると、お母さんが起きてきた。
今までと変わらない挨拶を交わす。お母さんは洗面所に消えた。もう少しで彩奈たちがインターホンを鳴らすはずだ。少しずつ早くなる鼓動を気にしないようにしながら待つ。
お母さんが洗面所から出てきた。
「今日友達遅いわね」
すっかり覚めきった表情でお母さんが言った。
「ね、寝坊したのかも。もう行くね」
きっと原因は私だろうけど。
「もし、後から来たら、もう出てるよって言っといて」
そんなことはないとわかっていても、自分にも言い訳をするように続けた。
お母さんは頷くと、笑顔で「行ってらっしゃい」と言った。
私もうまく笑えたかわからないけど笑顔を浮かべて「行ってきまーす」と返した。
家を出て念のため辺りを見回してみるけど、2人の姿は見当たらない。
仕方なく、学校に足を向ける。許してもらいたいな。
1人だったからか、いつもより早いペースで歩いていた。ふと、足元を見ていた視線を前に向けると、2人の後姿を捉えた。
少し駆け足で2人に追いつくと、昨日の後悔を糧に私から声をかける。
「お、おはよー!」
勇気を出した私の声は2人を素通りして行った。
奈々美はちらっと私の方を見たけど、彩奈は一切私の方を見なかった。それどころか「それでさ、奈々美ーー」と迷っていた奈々美の思いを断ち切るように話し出した。
これが無視か。テレビなんかで聞いてもそんなの気にしなきゃ大丈夫だと思ってたけど、実際に自分がされると思った以上にダメージが大きかった。その間も2人は歩いて行く。
私は、鹿せんべいでもあげたくなるキャラが使える影縫いと言う術を2人にかけられたかのように、2人の姿が見えなくなるまでその場を動けなかった。
どれくらい経っただろう。誰かに肩を叩かれた。
落ちそうになる涙を押さえ込みながら振り向く。
「声かけても気づかないし、どう……なんで泣きそうなんだよ!?」
驚いた表情の灘がいた。
「なに葛楽さん泣かせてるの」
灘の後ろから野間くんがひょいと顔を覗かせた。
「ちげーよ。ってそんなことよりほんとどうしたんだよ?」
私はイヤイヤをする子供のようにただ首を振った。
灘は困ったように野間くんを見るけど、野間くんも首を振るだけだ。
「とにかく学校に行こう。遅刻するぞ」
私は、とぼとぼと2人の後をついていった。たまに、灘が私を気にかけて話しかけたりしてくれたけど、まともに返答できていたか怪しい。昨日ちゃんとしようと決めたばっかだったのに。
暗い表情のまま学校について自動的に教室に行く。いつの間にか2人を追い抜いてしまっていたみたいだ。
きっと声をかけてくれてたはずなのにそれにも気づかなかった。私も無視をしてしまったようなものだ。
教室の中に入って自分の席に着く。彩奈は奈々美の席に行って2人で話していた。
灘は自分のロッカーにカバンをかけると私のとこに来た。
「葛楽? あいつらと話さないの? 朝も一緒じゃなかったし」
「……私の、せい」
こうなった原因は少なからず私にあったと思う。でも、彩奈もあそこまで拒絶しなくてもとも思ってしまう。2人とも私が来たのに気づいてるはずだけど、見向きもしない。
私はまた泣きそうになってしまった。灘はずっと私に話しかけてくれてるのにうまく答えられない。
しばらくそうしていると陽麻里が来た。
「佳澄おはよ、どうしたの?」
「おはよ……」
陽麻里もすぐに気付いて灘のように声をかけてくれた。私は挨拶を返すだけで精一杯だった。
今まで、本当にこういう経験がないからどうしていいのかわからないし、耐性もないしもう満身創痍だ。
ほぼ一日中、灘と陽麻里とばかり話していた。放課のときに頑張って彩奈に話しかけてみたけど、ことごとく私の言葉は素通りして行った。
社会の授業でも、後ろから彩奈が声をかけてくることはなかった。尾田先生の視線は相変わらずだったけど。
灘と陽麻里には感謝している。きっと2人がいなかったら、人目もはばからず私は泣いてしまっただろう。もしそうなったら……さすがにこういうことに無頓着な私でもわかる。酷くなるか終わるか、大抵酷くなる。
今日も私は1人で帰路につく。
空は、綺麗な夕焼けだ。
今の彩奈は噴火した火山よりタチが悪いかもしれない。
私は卒業までの学校生活を想像して、また泣きそうになった。
2 採用日
無視され始めて一週間経った。
朝の登校のことは、みんな勉強するために早く学校に行くからということにした。そう言うと何の疑問も抱かずにお母さんは頷いた。
灘や野間くんと会うのが嫌な訳ではないけど、会わないように気をつけた。特に野間くんと。
だいぶ慣れて来た1人登校を終えて教室に入る前に、「私は幸せ」と呟いてスライド式のドアを開ける。運が悪いことに、彩奈と奈々美がいた。しかも、陽麻里の席を囲んでいる。
何でもないことのように私はロッカーにカバンを入れる。
席に着く前に、せめてと思って陽麻里に挨拶をした。
陽麻里はいつか彩奈に話しかけられた時のようにびくっと肩をふるわして私を見ないようにした。
「……え」
思わず私の口から声が漏れてしまった。
「田川さんやればできるじゃん」
彩奈が久しぶりに私を見ながら言った。私に向けての言葉じゃないけど……。
「う、うん」
陽麻里は彩奈の方も見ずに頷いた。
泣きそうになることはなかった。心のどこかで分かっていた。陽麻里は優しすぎて弱すぎるから。それでも、もしかしたらと思っていた。
友達になるのは案外簡単だ。きっと壊すのも簡単なんだ、同意も告知も必要ないのだから。
私は、苦笑とともに着席した。
思ってたよりも早く無視に慣れた。もしかしたら、心のどこかで幸せしかない世界なんてありえないって理解していたのかもしれない。
実際、テレビをつければ大なり小なり様々な事件が報道されている。窃盗から殺人、テロ……不幸せばかりだ。
不幸せなんてその人の捉え方次第、そういう一面もあるとは思う。でも、私のはあくまで私の意見だった。自分が傷つかないため、守るための想いだった。
今日も頑張らないと。私は、自分を鼓舞して1日を乗り切ろう。
「葛楽さん、尾田先生が下駄箱らへんで呼んでるよ」
今日を乗り越えるためのメンタルを作っていた私の鼓膜にクラスメイトの声が届いた。
「尾田先生が?」
「そうだよ」
尾田先生? なんでだろ、今日は社会の授業もないし、そこまで関わったこともない。靴でも仕舞い忘れたのかな。
疑問を抱きつつも、親切に教えてくれたクラスメイトにありがとうと言うと私は席を立った。
教室を出るまで彩奈のクスクス笑う声が聞こえてきて、気持ちが沈んだ。
尾田先生は、教室を出て左に進んで二つ教室を過ぎて突き当たりを左に曲がった先の下駄箱近くにいた。
「尾田先生、靴仕舞い忘れてましたか?」
私に気付きながらもせわしなくキョロキョロしている尾田先生に私から声をかけた。
「く、靴は大丈夫だよ」
靴じゃないならなんで呼ばれたんだろ。
「えっと……」
呼んでおきながら、何も言わない尾田先生。どうしよ。もう教室に戻ってもいいか確認しようと思ったら尾田先生が口を開いた。
「さ、最近葛楽さん。げ、元気ないけど。か、加瀬さんと何かあったの?」
目は泳いだままだった。まさか、一番最初に言ってくるのが尾田先生だとは思わなかった。尾田先生には悪いけど。
「……ありがとうございます。私は大丈夫です」
大丈夫かどうかはこれから次第だけど、今はまだ誰にも心配かけたくない。
「そ、それならいいよ。も、もし困ったことがあったら。え、遠慮なく言ってね」
舌が短いのかな。たどたどしい喋り方が私には可愛く見えた。なんでかみんなは気持ち悪がるんだけどね。
「はい。じゃあ教室に戻りますね。先生も授業のときもっとシャキッとしたほうがいいと思いますよ」
私は久しぶりに控えめに笑った。
「あ、ありがとう。そ、そうしてみるよ」
尾田先生は頭をかきながら、下を向いた。
「下向いてますよ。シャキッとしないと」
私の声で慌てて背筋を伸ばした尾田先生を見て、声を上げて笑ってしまった。
「じゃ、じゃあ僕も行くよ」
「はい。では失礼します」
笑顔のままで尾田先生に頭を下げる。尾田先生が見えなくなるまで見送ってから踵を返す。
少し進んだところで、後ろから声をかけられた。
「おはよ、葛楽さん」
残してた笑顔が強張ってしまった。極力会わないようにしてた野間くんの声だった。
「お、おはよ」
振り向いて挨拶を返した。
「あれ、灘はいないの?」
ほとんど意識しないまま灘のことを確認していた。
「ははは。今日克樹は寝坊だって」
野間くんはいつも通りだ。さすがに警戒し過ぎかもしれないと思った矢先だった。少し後ろの角の先から彩奈たちの声が聞こえて来た。
やばいと思ったけど遅かった。
慌てて、振り向くと同時に彩奈と奈々美の姿が見えた。
談笑していた2人が私と野間くんを見て固まった。
彩奈の顔からどんどん表情が無くなっていく。
「へえ、2人で何してんの」
奈々美は見るからに怯えていた。彩奈があの日以来しっかりと私を認識して声を発した。その声は敵意に満ちていた。
「付き合ってるよ」
てっきり否定してくれると思ってたのに野間くんが嘘をついた。最悪な方の嘘を。
「サイテー」
彩奈は目に涙を浮かべて、元来た道を小走りで戻っていった。
さっきまで怯えていた奈々美も私を冷めた目で見た。
「それはないよ」
私が思いがけない状況に戸惑って何も言えないうちに、奈々美は彩奈を追いかけて行ってしまった。
「おい、付き合ってるって、なんだよ」
私が野間くんに抗議しようとした瞬間、居合わせてほしくなかった人の声が聞こえた。
「克樹、おはよ」
「おはよじゃねーよ。今の何? 葛楽の加瀬さんたちとの状況わかってんの?」
灘は真っ先にそう言ってくれた。
「ごめん、克樹」
灘は野間くんから私に視線を移した。
「一応、確認。葛楽、今のほんと?」
私は強く首を振った。
「違うよ。私は野間くんと付き合ってない」
灘は私の言葉をしっかり受け止めると、野間くんを睨みつけた。
「弘樹なんか理由あったの? ああ言った」
怒っている灘と対照的に野間くんは涼しい顔をしていた。
「面白くなるかなと。ほんと悪気はなかったんだよ。ごめんね葛楽さん」
相変わらず涼しい顔のままで野間くんは私に謝った。
私は、頷くことも首を振ることもできなかった。
「お前、最悪だよ」
灘が野間くんに言った。
「ははは。ごめんって、ちょっとしたおふざけだよ」
私は野間くんに呆れてしまった。
「ありがと、もういいよ灘」
私が灘に声をかけると、灘は野間くんを睨むのをやめて私を見た。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「そっか。こいつは放っといて行こう」
灘は野間くんを一瞥すると、通り過ぎた。私は一瞬迷ったあと野間くんに頭を下げて、灘の後に続いた。
これで灘と野間くんが仲直りできなかったら、やっぱり私のせいかな。
灘に続いて教室に入ると、彩奈と奈々美の視線が突き刺さった。彩奈の表情は見れなかった。
灘に小声でありがとうと伝えて席に着いた。背後からの視線が痛い。ずっと俯いていた。陽麻里もこっちを見ようとはしなかった。
最近はずっと無視だったのに、今日ははっきりした敵意を向けられ続けて疲れてしまった。きっと敵意を向け続けている彩奈も疲れてるはずだ。
今日も授業に集中できなかった。
帰りのHRが終わって、すぐに帰ろうとした私の前に彩奈が立った。奈々美もすぐに近づいてきた。そして、陽麻里も。
「え、えっとなに?」
怖くて震える私の声も震えていた。
「なにじゃないし、朝のことほんと?」
彩奈が腕を組みながら、私に訊く。
「嘘、嘘だよ。付き合ってない」
ほんとのことを言ったけど、表情の変わらない彩奈を見て、もう付き合ってたかどうかは関係ないんだと悟った。
「言って良いこと悪いことわかるよね?」
厳密には言ったのは私じゃないんだけど、それも彩奈には関係ないんだろうな。
「ねえ、トイレ行こっか」
彩奈が私に顔を寄せて、不気味に笑った。
なにも言えないまま、私は3人にトイレに連れていかれた。
「とりあえず個室に入ろっか」
言われるがまま、私は個室に入った。扉を閉めると余計に何をされるのだろうと怖すぎてやばかった。幽霊の方がマシだ。
外でしている作業音にちょろちょろという水の音が混じってるのを聞いて、察してしまった。
「洗ってあげるねー」
彩奈の声が聞こえた。
「ご、ごめん……佳澄」
陽麻里の声が聞こえたと思ったら、上から冷たい水が降りかかってきた。
「きゃっ」
逃げようにも当たらないように気をつけるくらいしかできなくて、いつ来るかわからない水を上手く避けられなかった。諦めてしまうくらいに濡れた頃、彩奈の「ストップ」と言う声がした。
鍵をかけていなかった個室の扉を開かれて、彩奈がのぞいてきた。
「出てきて」
言われるがまま私は濡れたまま外に出た。
「びっしょびしょじゃん」
私は俯くしかできなかった。この間、何も言わずにただ見ているだけの奈々美が一番怖かった。
「全部脱いで」
「えっ」
彩奈が冷めた目を私に向ける。
「脱げって、風邪引くよ。全部脱げよ」
なんで濡らされた挙句、脱がなきゃいけないんだろう。
「い、いやだ」
「何言ってんの? 無理やり脱がすよ」
私は泣く泣く脱ぐことにした。これから何をされるのか想像もできなくて、脱ぐのに時間がかかった。スカートのファスナーをおろして、スカートが重力に従ってするっと下に落ちた。彩奈を見るとわざとらしくため息をついた。
「何してんの、下着もだよ」
「それだけはやめて。本当にごめんなさい」
私は必死に懇願した。そんなに悪いことしただろうか。
「脱げって言ってんの」
「お願いします。他のことならなんでもするから」
私の言葉を聞いて、彩奈が考えるそぶりを見せた。
急に彩奈が笑顔になった。不覚にも許してくれるのかなと思ってしまった。
「なんでもね。じゃあその格好のまま灘くんとこ行ってよ。多分あたしらに連れていかれるの見てるから教室で待ってるんじゃない」
このままトイレを出るのもいやなのに、ましてや教室に行くなんて……そもそも灘がいるとも限らないし、いたとしても見せたくないし、他の子がいても嫌だし。
「何泣いてんの。早く教室行けよ」
「お願いだから、もうやめて」
「お前が言ったんだよ。なんでもするって」
「言ったけど……」
もう彩奈が悪魔にしか見えなかった。
「有言実行どうぞ」
もう何を言っても聞き入れてくれないことはわかっていた。
諦めて一歩踏み出そうとしたけど、スカートをまだ完全に脱ぎきっていなくてつまずいた。
「だっさ。自分のくらい自分で持ってけよ」
すぐにスカートを脱ぎきって、セーラー服と合わせて手に持つとトイレを出た。
誰にも会いませんように。教室にも誰もいませんように。
私の願いは空しく、空に散った。ちらっと教室の中を見ると彩奈の言った通り灘がいた。
彩奈に押されて教室に入る。灘がゆっくり振り向いた。
「く、葛楽? なんで、どうしたんだよその格好」
灘は耳まで真っ赤になった。
「ご、ごめん。おれ帰るわ。葛楽も気をつけて」
灘はカバンを掴むと一度もこちらを見ずに教室を出て行ってしまった。
私はしゃがみこんでしまった。
彩奈が笑いながら入ってきた。
「灘くん、やば。すごい赤かったね」
彩奈はしばらく笑うと、飽きたのか急に笑いを引っ込めた。
「奈々美、陽麻里帰ろうか」
「うん」
やっと奈々美が口を開いた。ほとんど漏れた空気と言ってもいいかもしれないけど。
さっさと教室を出ていく2人を陽麻里が慌てて追っかけて出て行った。
1人残された私は、地面に両腕をついてその間に頭を埋めて静かに泣いた。
こんなの不幸せだ。どうしたって幸せなんて言えなかった。
涙も枯れてきて、喉も痛くなって、どうしたいのかもわからなくて、帰ることにした。
濡れたセーラー服とスカートを着直す。カバンを持って教室を出た。下駄箱について靴に履き替えたところで、尾田先生が近づいてきた。
「く、葛楽さん。さ、さようなら」
「さようなら……」
私の泣き顔を見た先生が目を見開いた。
「ど、どうしたの? そ、それにすごい濡れてるし」
何も言えない私を見て困ったように頭をかいた。
「と、とにかく。い、家まで送るよ」
「ありがとうございます……」
体操服もないし、両親とも家にいないし、正直このまま帰るのは辛いと思っていた私にはありがたい申し出だった。
先生に言われた通り駐車場で待っていると、先生がきた。
先生についていくと、黄色いクーパーの前で止まった。
かわいい車だな。
助手席に乗る。先生は私がシートベルトを締めたのを確認するとエンジンをかけて発進させた。
しばらく進んで、ふと、尾田先生は何も訊いてこないけど私の家を知ってるのか気になった。
「先生、私の家知ってましたか?」
「し、知らないよ。く、葛楽さんの家に行く前に。さ、先にそれ乾かしたほうがいいかなって。ぬ、濡れてるのも気にしなくていいからね」
もう少し疑うべきだったのかもしれない。でも、私は確かにと思ってしまってそれ以上追求しなかった。
尾田先生の家は一軒家だった。周りにはバス停があるくらいで、特に何もなかった。
尾田先生について家に入る。
「お邪魔します」
律儀に挨拶をした。尾田先生はさっきからいつも以上に私を見ようとしなかった。乾かすのはいいけど、どうしようと思った。家に予備があるから、そこまで乾かすことにこだわらなくても良かった。それに、着替えがない。下着なんて特にだ。私が困っていると、尾田先生が二階に上がった。
「く、葛楽さん。う、上来て」
尾田先生の声に従って二階に上がる。
上がりきって、真正面に部屋があった。それと、右に続く廊下があって右手に部屋が二つあった。
「せんせー?」
困ったなと思いながら、廊下に足を踏み出した。
一つ目の部屋を過ぎた瞬間、その一つ目の部屋から伸びてきた手に口を塞がれた。
暴れようとする私はあっけなく捕まってしまった。
何もできないまま部屋に引きずり込まれる。
近くにあったベッドに投げ飛ばされた。
鍵を閉める音と同時に、尾田先生と目が合った。
「せ、先生なんで」
「ご、ごめんね。く、葛楽さんを初めて見たときから。い、いいなって思ってて」
言いながらどんどん近づいてくる。私はとっさに近くにあった枕を投げつけた。当たり前だけど、尾田先生に当たってもびくともしなかった。
「ご、ごめんね。ほ、ほんとうにごめんね」
尾田先生はベッドから逃げようとした私を強い力で引き戻すと、馬乗りになった。
暴れようとジダバタするけど、大人の力に勝てるわけもなく疲れてしまう。
尾田先生の両手が暴れる私の首に添えられた。
「し、死んでもいい……。し、死んでもいい……」
呪文のようにつぶやく尾田先生の両手にどんどん力が加わっていく。
「うっ……」
苦しい。首を絞められるってこんな感じなんだ。実際、必死過ぎてどんな感じかわからないけど。
「せ、んせ……や……め、て。うぐっ」
ほんとにやばい、絞めてくる両手を抑えてる私の両手の感覚もなくなってきた。
「ーーーー」
ふと、あるニュースを思い出した。小学生の男の子が首を絞められたけど死んだふりをして助かった話だ。
どうせならとやってみることにした。
不自然にならないように、ちょっとずつ抑えてる両手の力を弱めていく。
尾田先生の首を絞める手も緩んできたところで、私は両腕をだらんとベッドに投げ出した。薄目で尾田先生を見る。
どうなるんだろ。どっか行ってくれないかな。苦しいけどバレないように呼吸する。
しばらく尾田先生は私を見続けると、急に立ち上がった。
「お、お風呂はいってからにしよう」
尾田先生が出て行って、感覚的に数分経ってからゆっくり上体を起こす。まだ頭がくらくらする。首を絞められた感覚も鮮明に頭に残っていた。警察に行っても良かったけど、ここがどこなのかも正直わからないし。実際何をされたわけでもない。ちゃんと警察が動いてくれる気もしなかった。警察を動かすなら大人の力を借りないといけない。
下からシャワーの音が聞こえてきて、私は決心した。極力大きな音をたてないように抜き足差し足で下に降りると、一気に走った。
すぐにバレないように靴は残した。カバンは持っていくけど。
さっきのバス停に着くと、すぐに時間を確認した。
ほっと胸をなでおろす。あと数分で来る。
尾田先生の家をちらちら見ながら待っているとバスが来た。
すぐに乗り込む。幸いにも知ってる地名もあった。
それからは、ただ無心に家に向かった。
家に着くと、ホッとしてまた涙が出てしまった。
今日は泣いてばかりだ。
「ただいま」
いつもより少し遅めの帰宅だ。
「おかえりなさい」
お母さんが出迎えに来た。私を見て、目を見開くとすぐにお風呂に入りなさいと言った。
言われた通りに私はすぐにお風呂に入る準備をした。
お風呂に入ってる間に決めた。全部お母さんに話そうと。
お風呂を出て、髪を乾かすのも後回しにしてリビングに行く。
「お母さん」
私の声で最後の盛り付けをしていたお母さんは頭だけこちらに向けた。
「どうしたの? あんなに濡れちゃって。今日雨なんて降ってたかしら」
「降ってないよ」
「いいのよ。気にしてないから、ご飯食べましょう」
私が濡らしたことを謝ろうとしてると思っているのだろう。これは想定内だ。
「違うの。お母さん、あれ彩奈にやられたの」
「何言ってるのよ。アグレッシブな友達ね。さあ、ご飯食べましょ」
「使い方違うと思う。ってそうじゃなくて、ねえお母さんちゃんと聞いてよ」
お母さんはテーブルにお皿を運んでいた手を止めて私を見た。
「今、作業中でしょ? 後にして」
私の中で何かが切れた。もうどうせならあのまま尾田先生にやられてた方が良かったかも。
私は何も言わずに、部屋に向かった。
お母さんが、ご飯はいらないのと訊いてきたけど無視した。
部屋に入るとベッドに座った。人間も所詮動物だ。むしろ頭がいいぶん野生動物より厄介だ。そんなものに襲われたと考えると、今更ながら背筋から恐怖が伝ってゾゾっとした。
もう、今日は何も考えたくない。横になった。
次の日、学校に行くとすぐに私は校長先生のもとに出向いた。昨日の経緯を全て話すと、尾田先生にも確認を取ってくれた。尾田先生は全面的に認めた。てっきり警察に引き渡すなり、辞めさせるなりしてくれると思っていた。でも、結果は自宅謹慎だった。しかもたった三ヶ月だ。
私は、その結果を担任から聞いた。
「三ヶ月って、意味わからないんですけど」
「それをぼくに言われてもね。決めたのは校長先生だし」
そんなことは知っている。私が言いたいのは、私の気持ちが全然反映されていないことだ。
「私、校長先生に言いに行きます。先生もついてきてくれませんか?」
私の申し出に先生は腕組みをして考え込んだ。
「まあ確かに、ちょっと酷いかな」
ちょっとと言うのに異議を唱えたくなるのをぐっと堪える。
「お願いします」
私は念押しした。
「わかった」
担任の了承を得て一緒に校長室に向かう。少しでもいいから尾田先生に後悔してほしかった。私は、本当に尾田先生なら助けてくれるかもと半ば本気で信じていた。
こんなことしたくないし、むしろ学校にもきたくない。
校長室の前について、先生がノックする。「どうぞ」と中から聞こえた。
先生がドアを開けて先に中に入った。私も、続いて入ってドアも閉めた。
私は、客人用だろうソファに座る前に単刀直入に切り出した。
「なんで尾田先生たった三ヶ月なんですか? しかも謹慎なんて」
校長先生はなんだそんなことかと安堵の表情を浮かべた。
「実際何かをされたのかい? 最後までだとかそういうことだよ」
校長先生は不敵に笑う。
「すごく怖かったんですよ……首も締められて、どんどん意識が闇に飲まれて行く。校長先生はそんなこと経験したこともないでしょう。死んでもいい、尾田先生はそう呟きながら私の首を締めました。本当に怖かったんです」
「それでどうかしたのかね? いたって元気じゃないか。それに、そんなことを公表するわけないだろう。そうは思わないか、大沢先生」
私じゃ埒があかないと思ったのだろう。大沢先生に話を振った。
「え、ええ。全面的に校長先生の意見に賛成です」
先生のその言葉にも大してうろたえなかった。そして、確信した。
「もういいです。失礼しました。人間って本当にどうしようもなく、救いようのないほどに残念ですね」
私は、どちらとも目も合わせず、校長室を出た。
こんなもんか。結局、みんな保身じゃないか。どうせ、生徒のためなんていう先生も偽善に過ぎないんだ。
人と痛みなんて共有はできても共感はできない。間違いなくその痛みは自分自身のものだ。
カバンだけとって、帰ろうと下駄箱に向かう。靴に履き替えて、校門をくぐる。
校門を出てすぐに私は空を見上げた。見える範囲どこまでも曇り空が広がっている。
なんとなく振り返った。これが最後かな。灘がいた。
灘も私に気がついて、気まずそうに笑んだ。
「帰りか?」
「そう」
思ってたよりも私の声は冷たかったのだろう。灘が、今度は悲しそうに笑んだ。
灘が、私の肩に手を伸ばした。当たる寸前、思わずばっと振り払ってしまった。
心臓の鼓動が早まる。ドキドキじゃないことは私が一番わかっている。
大丈夫だと思ったのに……。
「ごめん……」
うつむく私に灘の優しい声が包み込む。
「肩に、葉っぱが付いてたからさ」
肩を見ると、確かに葉っぱが付いていた。糸くずかと思ったのはナイショ。
葉っぱを払い落とすと灘に視線を戻した。
「ごめんな、お前のこと好きなのに……何していいかわかんないんだ」
灘が肩をすくめる。
「…………私も、ごめん」
灘を見てるのが辛くて、踵を返す。振り向くことなく、足を踏み出す。
「葛楽……」
灘の声が聞こえたけど、無視した。そのまま、歩き続ける。
ごめん、私もどうしていいか分からないんだよ。
灘がそれ以上声をかけて来ることも、追いかけて来ることもなかった。
卒業式まで、私はただひたすらにひっそりと過ごした。高校も地元から離れた女子校にした。きっと男子がいたら、うまく過ごせないから。
親には何も言わなかった。
加瀬たちと同じ高校に行ってるとでも思ってるだろう。
人間は結局自己中なんだ。何かあったときにまず考えるのは自分のこと。
私の中の幸せは砕け散った。
3、幸せのかけら
私はそっと目を開けた。視線の先には見慣れた天井。
嫌なこと思い出した。これまでも忘れたことなんてなかったけど。
天井を見ながら、この真上の部屋のどこかで吉河沙由里が死んだんだ。
それを知ったとき、だっさと思った。私だったら死なない。死んだところで、何が変わるわけでもない。どうせみんなすぐに忘れる。
それならいっそのこと道連れにしてやろうと思う。久しぶりに思い出した3人を殺してる場面を想像して苦笑する。
これを聞いた人は、君が強いからだとか何とか見当違いのことを言うんだろうな。
自殺なんて絶対しない。自殺をする勇気なんてない。そこにあるのは決意と悲惨な結果だけだ。
ダメだ、私らしくない。嫌なことを改めて思い出したからだと結論づける。
ゆっくり体を起こす。少し、思案する。特に意味はないけど、制服に着替えることにした。
財布だけ手に取ると外に出る。鍵をかけて、目の前の道路に出る。今は亡き吉河沙由里の死んだ部屋を一瞥する。
目的なく歩き出した。
豪士麗美と須藤麻紀にはがっかりした。あんなのいじめじゃない。ただの嫌がらせだ。あれ、こう言うのをいじめって言うのかな? わかんなくなってきた。
ちょっと立ち止まる。
空はムカつくくらいに元気だし、そこかしこに生えてる雑草は頑張って存在している。
吉河沙由里が死んだ次の日に登校したとき、豪士麗美と須藤真紀は休んでいた。私が教室に入った時にクラスメイトの誰かが「よく来れるね」と呟いた。それに同調する空気で満ちていた。私から言わせてみれば、見て見ぬフリも同罪だ。むしろ、直接攻撃される方がよっぽどマシだった。畠山の冷たい眼差しを思い出す。
「あんたらもよくそんな空気出せるよね。自分らは関係ないって顔できるよね。正直、気持ち悪い」
私は誰とも目を合わせずに席に着いた。笠原沙津希だけは、ずっとうつむいていたけど。
また、思い出してしまった。雑草を見ながら何を考えているんだろ、私は。苦笑が漏れる。
再び歩き出そうと、顔を上げたとき人の気配がして前を見る。
それが誰かわかった私は固まってしまった。
向こうも視線を感じたのか俯き加減だった頭をあげて私を見た。
相手が目を見張ったのがわかった。
「……葛楽?」
灘だった。今が高二の半ばだから、約一年半ぶりだろうか。
私は、灘から目を逸らした。
「……えっと、今、暇?」
灘の問いかけに無意識に頷いていた。まあ、暇は暇なんだし。
「じゃあ、ちょっと話さない?」
私はまた頷いた。ちらっと灘を見るとほっと胸をなでおろしていた。
「近くの公園に行こう」
灘は、元来た道を戻り出した。私は黙ったままブレザーのポッケに手を入れて灘についていく。
5分かからないぐらいを無言で歩いていると小さな公園が見えて来た。遊具も錆びた鉄棒、すべり台とブランコしかなかった。
公園に入ってすぐ右手にあるベンチに灘が座った。私は、人一人分あけて隣に座った。
しばらく無言が続く。
しびれを切らした私が先に折れた。
「なんか用?」
私の声を聞いて、ばっと灘が私を見る。
横目で見た灘は、まるで欲しかったおもちゃをカゴに入れていいと言われた子供みたいに目を輝かせていた。
「なに?」
「いや、ほっとしちゃって」
灘が照れたように頭をかく。気のせいか耳がうっすら赤みを帯びている。
「葛楽、こっち見て」
意を決したのか、灘がそんなことを言う。私はそれに応えた。
久しぶりに向かい合った。
「あのさ、まずはいろいろごめん。葛楽は思い出したくないかもだけど、卒業してから葛楽に何があったのか、わかったんだ。言い訳、に聞こえるかも知れない。でも、おれ今もおまえのこと好きだ」
私は、何も答えない。いや、なんて答えればいいのかわからない。もう人は信じたくないと思った。でも、何でか灘に言われるとこいつなら信じてもいいかなって思いそうになる。
「実はさ、今吉商におれ入ったんだけどさ、葛楽が澤女を受けるってきいて近くに行こうって……何言ってんだろ、ストーカーみたいだな」
灘が自嘲気味に笑った。
こんな私のために、灘らしいといえば灘らしいけど。
さっき見たときにすぐにどこの高校かはわかった。沢村誠と同じ制服だったから。
「いいんだ。葛楽がおれと話したくないって言うなら、もう帰るよ」
何も言わずただ見つめるだけの私に戸惑ったのか、私から視線を逸らしてうつむいた。
「……私は、もう普通に過ごせるような人間じゃない」
何か言わなきゃと思って口をついて出た言葉はこんな言葉だった。
こんなことが言いたいわけではない。
「それは、今のおまえを知ってるやつが判断することだろ。おれは今のおまえを知らないんだよ。だから、これから知りたい。よかったらLINEでも交換しない?」
すごいな灘は。でも、残念。私は、中学卒業して、その日の夜、親が寝てる隙に持てるだけの荷物を持ってこっそり今のアパートに引っ越した。
どこの高校を受けたとかも言ってない。もちろん、高校の入学祝いで買ってもらうはずだったスマホもないからLINEなんて出来ない。
「……持ってないから」
一瞬ぽかんとしたけど、すぐに何かを察したらしい。灘は、そっかと微笑んだ。
「そういえば、卒業式の次の日だったかな。学校から連絡があってさ。なんか葛楽の親がおまえを捜してるって。どこの高校かはそんときに聞いてるはずだから、もしかしたらこっち来てたかもな」
そうだったのか。学校にも訪ねてきたのだろうか? 焦るととことんバカだからそこまで頭回らなかったのかも。
ふと帰ろうかなと思った。きっとすごい叱られるだろうな。
「まあ、とにかく葛楽と久々に話せてよかった。じゃあな」
灘が立ち上がった。私は、堪えきれず灘を呼び止めた。
「……あの、さ…………さっきの、返事……き、決まったら……会いに、行く」
私は私の言葉に驚いた。灘も驚いていた。でも、すぐに微笑んだ。相変わらず優しい笑顔だ。
「わかった。待ってるよ」
灘と別れた私は、実家に帰ってみることにした。
中学卒業以来今まで、滅多に動かなかった感情が今日は動きっぱなしだ。
男の人はまだ怖い。触られそうになるとどうしても条件反射で避けてしまう。それでも、灘なら許して待ってくれそうな気がする。
まだ、人間はみんな自己中だという考えは変わらない。
私がされたこと、吉河沙由里にしたこと、今までのことは忘れずに背負っていく。それだけは曲げない。
灘と別れて、15分ほどで駅に着いた。
改札を抜けてホームに立つ。タイミングよく来た電車に乗り込む。
途中乗り換えたけど、2時間ほど電車に揺られていると地元に着いた。
最寄りの駅から徒歩10分のところに実家はある。
久しぶりだ。何だか緊張して来た。私らしくない。
大した期待を込めないことで、落ち着く。
10分はあっという間だった。一年半ぶりの家の前に立つ。表札は葛楽になっているから、大丈夫だ。
インターホンは押さないで、思い切って玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり、佳澄……佳澄!?」
家に入ると廊下の先にお母さんがいた。予想以上に早い再会だった。
玄関で固まった私に向かって、お母さんは走り寄って来た。
思わず身構える。
お母さんは、ただ私を抱きしめた。
「ごめんね、佳澄。怖かったわよね」
何を今更、そう思っていても涙は勝手に流れた。
「あの日はお菓子教室がうまくいってなくて、佳澄に当たっちゃった」
さらに強く抱きしめてきた。
「本当にごめんね」
私も、お母さんの背中に腕を回す。
「私も、ごめんなさい……迷惑かけて」
「もういいのよ。今、アパートで一人暮らししてるのよね? 今佳澄が通ってる高校で聞いてたんだけど怖くて行けなかったの。母親失格ね」
なんだ。知ってたんだ。確かに、今の反応からすると、生死がわからなかったら警察に捜索願いでも出しそうだ。
「それなら、私も娘失格だよ」
「お互い様ね」とお母さんは微笑んだ。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
お母さんは、抱擁をと解くと私の目を見た。
「入学祝いってまだ有効?」
「当たり前でしょ。お父さんが帰って来たら改めて言いなさい」
お父さんが帰って来たら、3人で夕食を食べることになった。
グラタンにチキンライス、それとポテトサラダだとお母さんは私の頬をつねった。
どれも私の好きなもの。
これからは砕け散った幸せのかけらを頑張って拾い集めていこう、私は密かに誓ったーー。
「幸せで不幸せな水曜日」の葛楽佳澄がどうしてそうなったか気になると言ってくれた方ありがとうございました。まだまだ書き足りないところもありますけど、形にできてよかったです。
少しでも満足してくれる方がいれば幸いです^^