最終羽 終局
詩織さんとは、それきりだった。
僕は相変わらず転勤族なので、それから三度、北へ東へと引っ越した。
夏萌が小学校に上がるのを機に、僕達は中古のマンションを購入した。同居ではなかったが、妻の両親が住む町に定住することを決めた。経済的理由もあったが、仕事に復帰したいという妻の希望を叶えるためでもあった。家事と育児の両立に、彼女のご両親が積極的なサポートを提供してくれた。
新しい春。僕は、電車で三時間離れた隣県に単身赴任することになった。
『カラスの寿命は15年』――あの出来事から16年目だ。それに友樹が残してくれた専門書によると、カラスが子どもを産むようになるには生後三年以降とのこと。あの親ガラス達が三歳だったとしても、もう19歳。もはや生きてはいまい。
僕は――僕達家族は、逃げ切ったのだ。
『パパ、夏萌が遊園地に行きたいって聞かないの』
妻からの定期メールが届く。毎日、何もなくても報告を兼ねて、必ずメールを交わす。カラスの脅威が消えたとはいえ、側にいられない不安は拭えない。愛情と安否の確認、一石二鳥の便利な日課だ。
娘の誕生日が近づいている。当日、僕は出張で九州にいることが決定している。プレゼントを宅急便で手配済みだが、申し訳ない気持ちで一杯だ。
『寂しい思いさせてるもんな。いいよ、夏休みに入ったら、みんなで行こうか』
誕生日は過ぎてしまうが、それでも夏萌は大喜びだった。
『パパ、だいすき。はやく、あいたいよ』
二日後、クマのキャラクターが赤いハートを抱き締めたデザインのポストカードが、単身赴任先のアパートに配達されていた。
たどたどしい娘の文字をなぞり、僕は手帳に挟んでカバンに入れた。
疲れも寂しさも、このラブレターがあれば吹き飛ばせる気がする。どんなサプリもエナジードリンクも、これに敵うものはない。
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「――子どもは元気だなぁ」
久しぶりに来た遊園地に、体力の衰えを感じる。
冷夏と言われる今年の夏だが、流石に七月下旬ともなれば暑さに拍車がかかるというものだ。
「やぁね、パパ。今からそんな台詞」
カフェテリアのパラソルの下で、アイスコーヒーに癒される。
「観覧車、パパと乗るー!」
キャラクターの耳が付いた帽子を被った夏萌は、クリームを頬に付けた笑顔で僕の腕を引いた。
「ほらほら、ご指名よ、パパ」
娘のクリームを拭きながら、妻はクスクスと笑う。
……はぁ。これが家族サービスというものか。
『娘なんて、あっという間におませになってな、パパ臭い、とか平気で言うんだぞ』
職場の課長が嘆いていたっけ。彼のお嬢さんは、確か十歳だ。……おいおい、あと三年もすれば、夏萌もそんなこと言い出すのか?
「よーし、パパとデートするか?」
「うんっ!」
妻が呆れたように笑う。
愚痴を言うのは贅沢だ。まだ僕と二人でデート紛いの時間を過ごそうとしてくれるのだ。可愛い時間を堪能しなければ!
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シロップが溶け込むように、青空が茜色に移ろいゆく。
小一時間、行列に並んだ僕は、再び体力の限界を感じていた。
観覧車の向かい側、一方の夏萌はまだまだ元気が衰えない。遠くなる地上を見下ろし、キャアキャアとはしゃいでいる。
『普段、あなたと離れているから、夕べは興奮しちゃって大変だったのよ』
観覧車の列に並んでいた時、妻がそっと耳打ちした。その言葉に発奮したんだ、パパは。
「あー、オボーサンだぁー」
「オボーサン?」
地上を覗き込んでいた夏萌が、奇妙なことを言う。
「オボーサンも、夏休みかなぁ?」
――そんな訳ない。って言うか、ここは遊園地だぞ。托鉢僧だって、場違い甚だしい。
「あー、ママ見つけたぁ! ママー!」
聞こえないよ、ここからじゃ。……という大人の突っ込みは飲み込んで。
ダルい身体を、ヨイショと起こして、娘に並ぶ。
「ママは?」
「あそこー!」
観覧車を見上げる妻が見えた。両手をブンブン振る夏萌に気付いて、彼女も手を振っている。
「パパも!」
促されて、僕も手を振った。ひきつった苦笑い。遠目だから、妻にはバレないか。
待ち時間の十分の一程度の空中散歩を終えて、僕達は地上に降り立った。
ドラマチックな夕景を楽しもうと、家族連れよりカップルが増え、一段と観覧車の前の行列は伸びている。
「パパ、大丈夫だった? 高い所、苦手でしょ」
妻が、我慢していた恐怖を呼び起こす。
「うわ、止めろよ、忘れた振りしていたんだぞ」
「あら、ごめんね。なっちゃん、楽しかった?」
「うんっ! ママ、おしっこー」
「はいはい。パパ、これ持っててくれる?」
せがまれて買ったキャラクターのぬいぐるみが入ったビニール袋を受け取る。
「……はいはい」
手を繋いでトイレに向かう二人の姿を眺めながら、空いたベンチに身を預ける。
……明日は、昼まで充電だな。
貯めていた有給を使って、連休を貰って良かった。
世のお父さんは、偉いよ。日々の仕事の合間に家族サービスして、また職場という戦場に赴くのだ。
いや、それを言うなら、母親はもっと偉いんだ。しかも妻のような仕事を持つ女性は、プライベートな時間なんて皆無に等しい。
身を以て実感する。僕は、もっと妻を労らなくちゃいけないんだ。
「――あなた! 夏萌、戻ってる?」
妻への感謝に浸っていた僕は、その彼女の緊迫した声で現実に引き戻された。
「えっ? 一緒にトイレに行っただろ」
「夏萌が先に済ませたから、待っててって言ったんだけど、出てきたらいないのよ!」
泣きそうな声で訴える。高所酔いでダルい、なんて言ってられない。僕も急いで立ち上がる。
真夏の宵がゆっくりと訪れる。アトラクションの幾つかには、電飾が灯り始めていた。
その前を、黒い影が過った気がした。
「――『オボーサン』……」
「……えっ?」
不意に、脳内で散らばっていた不吉な記憶が重なり合って――鎖を描く。
「言ってたんだ……夏萌、『オボーサン』がいる、って」
「ああ……それ、山伏だわ。最近、家の近所で見たって言うのよ」
妻は、こんな時に何を言ってるんだ、と言わんばかりに苛立ったように答えた。
その瞬間、ザァ……ッと音を立てて全身から血の気が引くのを感じた。
「もう一度、トイレの辺りを探してくれ! 僕は、迷子センターに放送してもらうから!」
「ごめんなさい……」
「探そう! まずは、探すんだ!」
涙ぐむ妻を送り出した僕は、目の前がグルグルと回り、絶望的な吐き気に襲われていた。
僕達は――僕は、逃げ切ったのではなかったのか?
暮れていく夏の夕空。園内のやたらと明るい音楽さえ、空寒い。まるで、破滅へのファンファーレだ。
「なつめーー!!」
叫びながら、走り出していた。
迷子センターの高い屋根の向こうに、真っ赤に熟れた夕陽が沈む。
『……三人目。大切なものを奪われる哀しみを、思い知るがいい』
恨めしいしゃがれ声が、耳を掠めた。
振り向くと――赤い光に照らされた中に、黒い羽を広げた山伏が立っている。その腕の中に、クタリと力なく目を閉じた夏萌が抱かれていた。
山伏と見えた相手は、よく見ると、顔の中央に鼻の代わりに黒い嘴が付いている。感情の失せた真っ黒な丸い瞳が僕を見ている。烏天狗だった。
「頼む! その子を返してくれ! 僕が悪かった! 命を奪うなら、僕を――僕を連れて行ってくれ! その子は、まだ七つなんだ!」
アスファルトに土下座する。汗とも涙とも付かぬ体液がボタボタと流れた。
『七つ……ほぅ、それは丁度良い』
懇願虚しく、バサーッと音がした。顔を上げると、ヒラヒラ……ただカラスの羽が一枚、舞い落ちているだけだ。
そこには、黒い山伏も、娘の姿もなかった。
【了】
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
「酉年記念作品」として投稿させていただきましたが、のっけからカラスの雛を殺してしまうという残念なお話です。ごめんなさい、トリさん。
●『七つの子』
『七つの子』作詞 野口雨情
♪烏 なぜ啼くの
烏は山に
可愛七つの
子があるからよ
可愛 可愛と
烏は啼くの
可愛 可愛と
啼くんだよ
山の古巣へ
行って見て御覧
丸い眼をした
いい子だよ
童謡『七つの子』です。
この歌詞の中に『七つの子がある』と出てきますが、七歳のカラスは、もはや成鳥で『子ども』とは言えないそうです。
本文中にも書きましたが、カラスは三年くらいでペアを作り、子どもを産むそうです。
では、七羽子どもを産むのかというと、カラスはだいたい二、三羽くらいしか産まず、その中でも強い個体一羽くらいしか成鳥になれないらしいのです。
『七つの子』は、この童謡の作詞者、野口雨情が七つの頃に母親と別れたので恋慕を込めたという説、野口雨情の子どもが七歳の頃に作られたからという説があるそうです。
しかし、真相は分からないそうです。
●神格化されたカラス
個人的に、カラスという鳥は嫌いではありません。
日本書紀や古事記に登場する「八咫烏」や、北欧神話の最高神オーディーンが連れている「フギンとムニン」でも知られるように、古くから神の使いとされています。
おそらく、鳥類でも無類の賢さ故、特別視されてきたのでしょう。
今回は、烏天狗様を登場させました。
主人公達が死なせてしまったカラスの雛は、烏天狗様とご縁のある一族だった、というオチでした。
●凄いぞ、カラス
最近のカラス研究では、「直接危害を加えられていない子世代が、親世代に危害を加えた者を敵として認識し、警戒・攻撃する」という報告があるそうです。
つまり、親カラスが危険な者の特徴を子ども達に教えている、ということらしいです。
凄いですね、カラス!
この報告記事を読んで、世代を越えたカラスの復讐劇、というストーリーを思いついた訳ですが、烏天狗様を登場させたことで、世代とか寿命とかは関係なくなりました(笑)。
烏天狗様は、不老不死らしいです。
あとがき、というか補足的なことを書かせていただきました。
拙作と併せて、お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
酉年の2017年が、皆様にトリまして、幸多き年になりますよう、お祈り申し上げます。




