第五羽 遺言
娘――夏萌を家族に迎えたわが家は、生活が一変した。
出産前から「親学級」に通い、親になることへの心構えや、子どもを迎えてからの生活について、頭では分かっていたつもりだが……実際は想像の上を遥かに超える大変さだ。
大変ではあるのだが、小さな夏萌のふにゃりとした微笑みを見ると、石になりかけた心身の疲労もバラバラと砕け消えた。
仕事で半日以上家を空ける僕ですら、赤ちゃんのいる暮らしに振り回される。四六時中、側にいる妻の苦労は、言わずもがなだろう。
お義母さんが妻をフォローしてくれているのは、本当に有難かった。
友樹と詩織さんのことを、忘れた訳ではなかった。
僕がもし――独身であれば、もし内海を隔てた地方都市に転勤になっていなければ、行方不明の友人の捜索を他人任せになどしなかったろう。
飛んで行って、僕自身も捜索隊に加わったに違いない。こんな形で友樹と別れるなんて、納得できるはずがない。
しかし――僕には守るものがある。新しい家族を得て、精一杯の日々に追われている妻を独り残して、日常を離れる訳にはいかなかった。
半年が経った時、詩織さんから久しぶりにメールが来た。
仕事で近くまで来るので、直接会いたい、という。
彼女の仕事は薬剤師なので、地方出張とは考えにくい。とにかく口実を作って会いたいということなのだろう。
それを裏付けるように、彼女は僕のスケジュールに合わせて、やって来た。
駅前のカフェに着くと、既に詩織さんがいた。
僕の姿を認めると、わざわざ立ち上がって頭を下げた。肩までの長い黒髪がサラサラと揺れた。
「お待たせしました。お久しぶりです」
「ご無沙汰しています。お時間作っていただいて、すみません」
詩織さんは、記憶の中より細く見えた。
白いブラウスに淡いグレーのカーディガン。シンプルな装いは、カジュアルビジネスの延長のようなテイストだ。理知的な彼女の雰囲気に似合っているな、と思った。
運ばれて来たコーヒーに口を付けてから、彼女は本題に入った。
友樹の両親が、彼が住んでいたアパートを引き上げたのだと言う。
「私は……待っていたかったんですけど――」
状況から、彼の生存を望めない可能性が濃厚だ。どちらにしても苦しい決断だったに違いない。
「それで、持ち物を片付けていたら、これが」
カップを端によけて、テーブルの上にホールケーキが入るくらいの小さな箱を置いた。
貰い物の煎餅なんかが入っているような、深緑色の化粧箱だ。
「……開けても?」
「はい」
沈黙に促され、蓋を開ける。そこには、一冊のクリアファイルと、ハードカバーの書籍、それらの上に白い封筒が乗っていた。
『惇へ』
封筒に、友樹の下手くそな文字がある。
「――中は」
「いいえ。見ていません」
彼女の言う通り、封筒には糊付けがされ、開封された形跡はない。
一度彼女を見てから、僕は封を切った。
『惇へ。この手紙をお前が読んでいるということは、俺は戻っていないのだろう。』
ドキリとした。詩織さんに、ばか正直な自分の表情が伝わるのが怖い。
『さっき、お前にメールした。俺はヤツラと話をつけに行く。真也の話を覚えているか? ヤツラの狙いは、俺達だけじゃない。恐らく、俺達が大切にしている人を奪う気だ。』
「――惇さん……?」
動揺が顔に表れたのだろう。詩織さんまでが、明らかに不安気に問いかけてきた。
『俺は、詩織を守る。もし俺が消え、彼女が息災に暮らしているのなら、それは俺の目論見が成功したということだ。』
焦って書いたのか、後半は文字が乱れている。この手紙を書いて、箱をしまい込んで、急いで部屋を出たに違いない。
『カラスの寿命は、野生で10年。長くても15年だ。あと六年、逃げ延びろ。お前がヤツラに見つからないことを祈っている。黒い山伏に気を付けろよ、惇。』
「――山伏?」
「え?」
「あ……いや」
思わず溢れた呟きに、敏感に反応する詩織さん。僕は慌てて否定する。けれど、何だ――山伏って?
「何が、何て書いてあるんですか?」
そうか。友樹はしくじったんじゃなかったんだ。
自分の身を、命を呈して、彼女を守ったんだ。
目の前で必死に真相を探している彼女に、僕は正直に話すことにした。
もう僕達の前に帰ることがないのなら――友樹のプライドを傷付けることにはならないだろう。アイツにしたって、彼女がいつまでも訳の分からない呪縛に囚われることのないように、僕にこの手紙を託したんじゃないだろうか。
冷めたコーヒーを流し込み、僕は詩織さんを真っ直ぐに見た。
それから、十年近く前の忌まわしい――そして愚かしい出来事から今までのことを全て白状した。
30分後、僕は独りで温かいコーヒーを飲んでいた。
お代わりした濃茶の液体は、肩の荷が降りた脱力感に染みていく。
正面にいた詩織さんは、帰っていった。
僕の話を聞き終わると、狐に摘ままれたような、泣き笑いを往き来するような――そして少し怒っているような表情で、僕宛の手紙を読んだ。
『実家の父から、地元に戻って来いと言われているんです。――決心が付きました』
詩織さんは、本心の掴めない真顔で答えると、スッと立ち上がり、綺麗に一礼して去って行った。
別れの挨拶も、はなむけの言葉もなく、書類を届けに来た事務員が用事を終えて自分の席に戻るような、無機質な姿だった。
――これで良かったんだよな、友樹?
テーブルの上に残された小箱と手紙。
箱の中身に手を伸ばす。ハードカバーの書籍は、カラスの生態についての専門書だ。所々、付箋や赤ラインが引かれているのは、真面目な友樹らしい。
クリアファイルには、プリントアウトされた資料が差し込まれている。カラスの情報だけではない。僕達の母校――高校の略歴。隣の寺の系譜。それから、彼が消えた山道を含む地図。インターネットで検索した地図がプリントアウトされ、赤い×印が書き込まれている。山奥の、林道の果てから更に2kmくらい奥に卍の地図記号があり、そこに×が重なっていた。
友樹は、ここに話をつけに行ったに違いない。
――ピコリン
スマホが鳴る。見ると、妻からメールが入っていた。
『あなた、帰りにドラッグストアに寄ってくれる? なっちゃんの紙オムツとトイレットペーパーを買ってきて』
日常が呼んでいる。
『了解』
短く返し、カップを空ける。友樹の遺言を小箱に戻し、それを小脇に抱えてカフェを出た。




