第一羽 発端
熟れた柿の実のような夕陽だ。
校舎裏の校庭から続く雑木林は、200m程緩やかな下り坂になっていて、唐突に隣の寺の境内に繋がっている。
80年前に高校が創設された当時、創設者が寺の住職を兼ねていた名残で、両施設間の境界は酷く曖昧なまま現在に至る。
「ちゃんと埋めたのか、惇?」
縦にも横にも幅を取る、真也が坂の上から僕を見下ろしている。
柔道部の巨漢は、僕の制服の上着を頭からマントのように被って、頭上からの攻撃を凌いでいた。
「仲間を呼んでる。早く行くぞ!」
真也の背後から、長身の眼鏡顔が叫ぶ。その声に重なって、攻撃を仕掛けてくる黒い影――「カラス」が十数羽、怒号のように声を荒らげながら木々の間を飛び交っている。
眼鏡顔の友樹は長い枯れ枝を振り回し、不吉な生き物を追い払っていた。
羽を持つものに害なすことなど至難の業だが、わが身を守るための防御には僅かに有効らしい。
「埋めた! 早く帰ろうよ!」
嫌な役目だ。ジャンケン運のなさが恨めしい。
足場の悪い笹藪を大股に上り、真也から外套を奪うと僕達は走り出した。
部活動が終わり、生徒の消えた校庭を駆け抜ける。ターゲットがクリアに捕らえられるようになり、カラスの群れは四方八方から急降下や低飛行を繰り返す。
風切り羽の鋭く夜気を裂く音に、何度も背筋がヒヤリとした。校門を潜る頃には薄暮が味方して、黒い殺意から逃げおおせた。
-*-*-*-
週末を挟んだ月曜日、僕達の悪行は全校集会の場で暴かれた。といっても、明らかになったのは行為の一端で、肝心の犯人はバレていなかった。
「そりゃそうさ。誰も見ていないことを確認しただろ」
昼休みの教室の隅。友樹が得意気に眼鏡をクィと持ち上げて、僕と真也を見下ろした。
『カラスの雛が落ちている!』
頬を紅潮させて、教室に駆け込んで来たのは真也だった。彼は、柔道部恒例の地獄ランニングの最中、笹藪の中でもがいている小さな塊に気付いたのだと、興奮気味に報告した。
その日、放課後の教室には、たまたま僕と友樹の二人しか残っていなかった。
僕達は、単純な好奇心で「その物体」を観察しに行った。
柔道部の練習を終えたばかりの真也に案内されて、校庭をぐるりと回る。暮れていく夕闇の下、野球部とサッカー部が、道具を片付けている。制服とジャージの奇妙なトリオは、いそいそと雑木林の中、笹藪を掻き分けた。
その周辺に不穏な気配が流れた。
――ギャギャギャギャ!
けたたましく、威嚇とも警戒ともつかない鳴き声が降ってきた。
「親だ」
友樹が斜め後ろの梢を一瞥する。
「それで……肝心の雛はどこだよ?」
僕の問いに、先頭を歩いていた真也がふと立ち止まる。
「ええと、ほら!」
指差した先に、クヌギの老木がある。その太い幹から分かれた枝の付け根辺りに、細かい枝を器用に編み込んで作られた丸い塊が見えた。鳥の巣だ。
木の根元から二メートルくらい離れた笹藪が、不自然に揺れている。風もないのにガサガサ、ワサワサと動いていた。
一歩踏み出すと、更に親鳥達が狂ったように騒ぎ立てた。
そこに、我が子がいることを知っているのだ。知っているが、ヒトのように拾い上げる手を持たず、猛禽類のように掴み上げる脚力を持たない、ましてや嘴で摘まみ上げることも能わない身体では見守ることしかできなかったのだろう。
――グガァ……
まだ上手に鳴けない雛は、掻き分けた笹藪の中で僕達を認めると、怯えたような、戸惑ったような声を漏らした。
「巣に戻してやろうか」
丸い瞳を覗き込んで、真也がヒョイと摘まみ上げた。
「――痛っ! コイツっ!」
自分を掴む彼の指を、雛は鋭くついばんだ。幼いとはいえ、本能が防御のための攻撃を促したのだろう。
しかし真也はつつかれた拍子に、掴み上げた雛を地面に放り投げてしまった。運悪く、クッションになる笹葉の上ではなく、雛はクヌギの根元に叩きつけられた。
柔らかい雛の身体が、不自然な方向にグニャリと曲がったまま、小刻みに震えている。それは痙攣に見えた。
「やべぇ……」
右手を押さえた真也は、表情を強張らせた。
「まだ生きているのか?」
いつの間にか隣まで来た友樹がジッと雛を観察している。生きていた雛よりも、今、死に瀕している様子の方に関心があるようで、ドキリとした。
「アイツ……アイツが悪いんだよ! 助けてやろうと思ったのに」
「わざとじゃないのは、分かってるよ」
動揺を隠せない真也を、僕はフォローした。
「――どうせ」
友樹が呟く。
「どうせ、遅かれ早かれ死ぬ運命だろ」
眼鏡の奥の瞳が冷たい。吐き捨てるように発せられた言葉に感情の抑揚がなく、思わずゾクリとした。
高校に入ってから知り合って、特別親しくなった訳ではないが――友樹も真也も、ごく普通にバカを言い合ったり、笑い話をしたりする程度には仲がいい。クラスの大半と、広く程々の深さで付き合ってきたけれど――実際の所、「友樹」という人間、「真也」という人間を、僕はどれだけ知っているのだろうか。
冷静でちょっと笑いのツボがズレている、友樹。
お人好しで、少し鈍感な真也。
僕の中の緩い認識は、もしかしたら彼らが被っている表面の皮しか見えていないのではないか。
「……怖いのか、惇?」
僕の視線に気が付いた友樹は、口の端で薄く嘲った。
「き、気味悪いだろ。死体なんて」
内心の動揺――雛の死ではなく、目の前のクラスメイトに得体のしれなさを感じたこと――を、気取られないように、憤慨した声色を立てた。
「どうしよう、あれ……」
事態を生み出した真也は、まだ震えた声で途方に暮れている。
「このまま放置しても構わないけど――」
この場の主導権を握った友樹が、僕らの背後をチラと見遣る。
つられて振り返ると、雑木林の入り口辺りの木々に、黒い親鳥達が七、八羽見えた。威嚇せずに、こちらを静観しているのが、かえって不気味だ。
「埋めよう! アイツらの目の届かない所に、埋めようよ!」
悲鳴に近い細い声で、真也が訴えた。確かに、死体を晒すのは良くない気がする。――というより、僕自身、自分が関わった忌まわしい事件の証拠隠滅を図りたかったのかも知れない。
「よし、ジャンケンだ」
徐に、友樹が断言した。そして、僕はチョキを出し――負けた。
-*-*-*-
晩春の夕陽が嫌いになったのは、雛を埋めた日のせいだ。
嫌い、というよりは苦手というのが正解だ。
クヌギの木の根元から摘まみ上げた雛は、まだ温かかった。
クタリとぬいぐるみのように柔らかく、動きのない「それ」は、今しがたまで命があったことを僅かに示すように赤い液体を数滴、滴らせた。
「内臓が破裂してるんだよ」
友樹の冷静な解説に虫酸が走る。嫌悪の源を、指先の物体に集中させて、僕は笹藪の坂を下る。
隣の寺が見えるくらい――逆に言えば、校舎がすっかり見えなくなる位置まで進み、湿り気のある下土を小石と木の枝を使って、何とか雛を覆う深さまで掘った。土をかけて、盛り上がった小塚の上に小石を立てた。墓石のつもりだ。
――ごおおぉぉ……ん
タイミング良く、寺の鐘が鳴った。驚いて顔を上げると、寺の向こうの山際に朱色の光が滲んでいた。
熟れた柿のような、線香花火の最後のタネのような哀しい色だ。
「おおい、惇、まだかー?」
しびれを切らした真也の声が呼ぶ。
しばし残照に見入っていた僕は、衝かれたように空寒さが甦り、その場を離れた。瞼の裏に、雛が垂らした体液と寺の向こうの夕陽の色が重なり、強烈な印象として焼き付いた。
それ以来、僕は夕陽が苦手になった。ことにあの季節――晩春の宵闇に滲む深茜色の光は、不安と後悔を掻き立てる。
あれから五年以上経ち、成人を迎えた現在となっても……。