鈴野凛子の様子がおかしい
最近、友人である鈴野凛子の様子がおかしい。
「旭、今日も一緒に帰ろう?」
つかず離れずな距離だった幼馴染みに妙に執着するようになった。
「見た目に興味があるだけなら、旭に近寄らないで」
ただ見守っていた幼馴染みの人間関係に、口を出すようになった。
「あの子、気に入らない」
たとえ許容できない相手だとしても言わなかった言葉を、本人に聞かせるみたいにもらすようになった。
最近、友人である鈴野凛子の様子がおかしい。
視線の先、肩を並べて歩く幼馴染みとあの子の姿に目を細め、心からの笑顔でこう言うのだ。
「私、乙女ゲームのライバルなの」
放課後。クラスメイトたちは各々足早に、あるいはマイペースに、部活だ帰宅だバイトだ遊びだと教室から姿を消していった。
残されたのは本日の日直である自分と相棒。
日誌のコメント書き込み欄に適当に感想を書いて、相棒、もとい凛子に日誌を渡した頃には教室にいるのは二人だけになっていた。
逆座りした椅子の背もたれを抱っこしながら、正しく座って机にむかい生真面目にも細かい文字で感想を書き連ねる凛子を眺める。
そうしながら、今朝がた登校時に隣に並んで歩いていた凛子の様子を思い出していた。
仲睦まじく、とまではいかないもののそれなりの親しさを持った距離で歩く彼とあの子。珍しく笑みを見せる彼。朗らかに笑うあの子。
数メートル先を行くその二人を視界にとらえて、どこかほっとしたように、眩しいものでも見るかのように、目を細めた凛子からこぼれた言葉は呟くようだったけれど、きっとこちらに聞かせるために吐き出されたものだ。
その時は何も汲み取ることができずついスルーしてしまったのだけど。
あれの反応を今してしまってもいいだろうか。
「ね、凛子」
「何? すばる」
ちらともこちらを見ず文字を綴る凛子。
開けっぱなしの窓からゆるく風が入ってきた。
「あの言葉の意味はどういうことかな」
長く綺麗な髪がさらさらと遊ばれているのに見とれながら、乙女ゲームのライバルって、と付け足すとその動きが一瞬止まった。
かと思えば、なにごともなかったかのようにゆったりと動きだす。見上げた黒い瞳がこちらを射貫いた。
「そのままの意味。乙女ゲームのライバルよ」
「意味が分からないな」
間髪なく返したそれは想定内の返事だったのか。だろうね、とおかしそうにくすくすと笑う声が響いた。
凛子が乙女ゲームのライバル。それだけを聞いてもどういった意味なのか見当がつかない。
けれどその言葉に、なんの意味ももたせていないということは無いだろう。凛子は無駄に人を悩ませる言葉遊びをして笑うような人間じゃない。むしろ、言葉遊びに悩むようなタイプだ。
一つ、予感めいたものはあった。
ある時からのらしくない行動。一見意味のわからない言葉。
これらは繋がっているのではないか。
「……つまり、それは、今までのことと関係があると」
それが何を指すのか理解したらしい凛子はくすくす笑いを控えて、苦笑する形で肯定を表した。
最近、友人である鈴野凛子の様子がおかしい。
それは、凛子自身、意識した上での行動だった。
くるり。凛子が持つシャーペンが軽快に一回転する。そのまま続けられた二回転めは失敗に終わり、からからと机の上を転がった。それを目で追う。ぴたりと止まったシャーペンに深い嘆息が落とされた。
いったい何のため息だろうかと落ちた視線を持ち上げて、ぎょっとした。存外近い場所に凛子の顔があったのだ。瞳が弧を描く。
凛子はぐっと身を寄せ机にのりだしていた。
口もとを両手で覆って、さながら内緒話を楽しむ子供みたいににんまりと楽しげな笑みを浮かべていた。
そして。
「私ね、転生者なの」
そう、囁やきを落とす。
「転生者」
「そう、転生者」
「オンライン小説とかによくある?」
「そうそう」
耳に入った言葉が脳を巡り尽くす前につられるようにして復唱してしまったその単語に凛子はこっくりと頷いた。
その顔はしてやったりと実に満足げだ。告げられた意味を咀嚼しきれないこちらの様子を予想通りだと笑っている。
「ねぇ、すばる。この世界はね、とある乙女ゲームの世界なの」
ふっ、と窓枠から見える空へと目をそらし、凛子は続ける。
「全世の『私』は乙女ゲーマーで、その乙女ゲームも大好きなものの一つだった。乙女ゲームってファンタジックなものから中世、近世風とか、和風、中華風に、ミステリなもの、果てはホラー混じりなものとか色々とあるんだけど、そのゲームはいたって普通な現代学園ものでね」
こちらに語りかけているはずの声が、どこか、遠い。
淡々と紡がれる言葉は、自棄になっているようにも思える。
信じられないことだろうと。
信じることはないだろうと。
だからこそ冷静に吐き出されていた。
「それで、私は……『鈴野凛子』は水城旭を攻略する際にでてくるライバルキャラなの」
まぁ、ライバルっていうより当て馬って言う方があってるかもしれないんだけど。
そう凛子は笑う。おかしそうに。愉快そうに。
「旭は攻略対象の一人で、あの子はヒロイン」
「……ふむ、それで?」
続きを促す相槌は、少し予想外だったようだ。
見開かれた瞳はすぐさま瞬きとともに消え、ほのかに喜色を滲ませた凛子の眼差しが再びこちらへとかえってくる。
そうしてさきほどとは違いはずむような楽しげな声が教室に満ちた。
「乙女ゲームあるあるなんだけど、基本的に乙女ゲームの攻略対象って何かしら悩みとかトラウマとか闇とか抱えてる場合があるのね。まあ旭にももれなく色々と事情があって、『鈴野凛子』は幼馴染みだったからその事情を知ってて、彼のことを大切に思っていたから守りたいと思ってたのよ」
「大切? それって恋愛感情?」
「単なる友愛。いや、もしかしたら家族愛かもしれないね。小さい頃からの付き合いなわけだし」
「本当に?」
「本当だってば。少なくともプレイしてた『私』はそう感じていたよ。それでね、『鈴野凛子』はいつだって旭を守っていたの。また旭の心が傷付くことのないように。そのために、まわりを牽制したりして」
「当然、それはヒロインちゃんにも当てはまって、って?」
「そう」
「あー、つまり、そういうイベントなわけね。お邪魔無視なライバルを乗り越えて攻略対象とラブラブに、っつうシナリオだったと」
その言い方がおかしかったのか、一瞬目を丸くした凛子はぷっと吹き出した。
なんでそんなこと分かるの?と笑う凛子。
姉の影響で乙女ゲームとか少女漫画についてちょっとは知識あるんでー、と答えたら、あーすばるのお姉さんの影響かぁと納得がいったように何度も頷かれた。凛子にそんな反応をされる我が姉は、まあ所謂……ってやつである。
聞いていようがいまいが萌語りを垂れ流す姉。時としてうっとうしいことこの上ないが乙女ゲームのくだりについてやそのあたりの説明を更に詳しく聞く手間が省けたので今このときは感謝しないこともない。
「じゃあ、すばるにもある程度予想できたかな。旭のルートだとね、『鈴野凛子』は最初、ヒロインも他の有象無象の女子たちと一緒だと警戒するの。だけど、イベントをこなしていくうちに少しずつヒロインを認めるようになってね、旭もヒロインに気を許しているのを知ってからはヒロインに旭を託すようになるの。いつまでもこのままじゃいけないのは分かってた。だから、旭のことをお願いします……って。それからはむしろ応援キャラだね。今度はヒロインに協力しながら旭を遠くから見守って」
「ほうほう。つまり、今までのアレはそのライバルバージョンだったと」
「そしてこれからは応援キャラバージョンですよ」
頑張らなくっちゃ、と両手で拳を作る凛子。
応援してるよ、と言えば、あなたも手伝ってねときた。
しっかり巻き込むつもりらしい。
本当はあの子……『ヒロインちゃん』とも友達になりたかった、これで仲良くなれるかもしれない、と凛子は上機嫌に笑っている。
「まあ、概容は分かったけど、それにしたって、急に態度が変わりすぎだ。凛子」
一緒に帰ろう。と、彼の行動を制限するようなことは今までなかった。
近付かないで、とまわりを牽制することもなかった。
人を下に見る言葉を吐き出すこともなかった。
凛子の急な変化に周囲が不思議がるほど、それは不自然なものだった。今なら分かる。そのらしくない諸々の言動が全てイベントのためだったのだと。
そんな理由だったなんて分かるわけがないこちらは、ただただ心配だった。
どうした、と聞いても、なんでもない、と返ってくるたび歯がゆい気持ちにさせられたのだ。
文句の一つ、言ったっていいだろう。
おでこをぺしっと軽くはたかれた凛子は唇を尖らせてバツが悪そうに視線を泳がせる。
「しょうがないでしょ。あの子のことを初めて見た時にようやく色々と思い出したんだから。他のルートに行くならまだしも旭を攻略するなら今までの私じゃなくて『鈴野凛子』が必要なんだからさ。自分でも不自然だよなぁとか思いながらやってたよ」
それならそれとしても、やっぱり相談の一つ、理由の一つでも話して欲しかった。
じとりと非難めいた視線をくれてやれば、凛子はわざとらしく乾いた笑い声をあげた。
夕日が教室にさしこみ、あたりは赤く色づいている。
「それにしてもさぁ」
「ん?」
「すばるは、信じてるんだよね。私の話」
ふと、真面目な顔で凛子が問う。
あれだけその話を聞いてやったのに。
「何を今さら」
「だって、流石にバカにされると思ってて」
そう思いながらも、話してくれたことなのだ。
信じないはずがないだろう。
荒唐無稽だとしても、事実は小説よりも奇なりなんて言葉もあるのだ。それが凛子に降りかかったとして、何もおかしいことではない。
「んなもん、するわけがない」
それにだ。凛子のことは何があっても信じたいから信じる。
「……信じてくれて、嬉しい。聞いてくれてありがとう、すばる」
そう言って泣きそうになりながら微笑む凛子を信じるのは、当たり前だ。
凛子的にも色々と溜めているのは負担になっていたのだろう。
さっさと日誌を片付けてともに下校する頃には、心なしかすっきりとした顔をしていた。凛子と学校を背にして歩き出す。太陽はずいぶんと落ち、空は赤から紺へと移ろっていた。
「ねぇねぇ凛子」
別れるまでの道のりを勉強のことだとか友人のことだとかを話しながら進む。
それらの話題が止んだ一瞬。
改めて名前を呼んで足をとめる。つられたように足をとめた凛子はこちらを見上げて首をかしげた。
「凛子はさ、よかったの?」
「え?」
脈絡もなく唐突な問いかけ。しかし凛子は正しく理解したようだ。
これは、さっきの話の続きだと。
見開かれた瞳は狼狽えるように揺れている。胸元に寄せられた手がぎゅっと握りしめられた。
「考えてもみなよ。凛子は彼のシナリオを知っていた。なら、凛子がヒロインの代わりをしてもいいじゃないか。彼の闇をどうやって溶かせばいいか。それ知っていたのなら多少過程は違っていても結果はそこまで外れない。ある程度の望んだ未来が手に入る。そうは思わなかった?」
そのことは、凛子の話を聞いたときに思い浮かんだことだ。
特に捻ることもせずに浮かぶのだ。凛子にだって、それを考え選ぶことができただろう。むしろ、選べばよかった。
なのに選んだのはライバルだ。
「お、もわないわけでもなかったけど、ほら、別に私はその『結果』に付属する関係は望んでなかったわけだし、第一本当にそれで旭を救えるか分からないし」
「凛子」
何かを誤魔化すように早口に捲し立てられる言葉を制止する。
びくりと凛子の肩が跳ねた。
「ねー、凛子。流石に凛子と彼ほどとまではいかないけど、こっちだって凛子とそれなりに過ごしてきた仲なんだよ。気付いてないわけないでしょー」
できるだけ優しく、子どもに言い聞かせるみたいに凛子に笑いかける。
けれど逃がさない。
今にも泣きそうに潤み始めた瞳をしっかりとつかまえる。
「気付いてって、何が……」
「往生際が悪い」
多分、無意識なんだろう。
聞きたくないとでも言うように、凛子の足が一歩下がる。
その腕を捕まえて、じっと瞳をのぞきこんで、
「凛子のことを見ていれば分かるよ。彼のこと、好きなんじゃないの?」
そう、告げた。
沈黙が訪れる。凛子は動かない。
けれどその瞳は複雑な色に染まって揺れ動いている。
凛子は気付いていなかった。いや、気付いていても、知らないふりをしていたかったのかもしれない。彼に関するあれこれを知っていたというのなら、己自信が傷付く未来が来ることも分かっていたのだから。傷付かないための予防線。
それをこうして突き付けられ今、その感情を無視することができなくなった。
そして、認めたのだろう。
「――好き、だった」
小さくもらされたのは、確かに恋の吐息だった。
複雑な色味を見せた瞳は今はひどく澄んでいる。
結ばれることなどないのだと、吐露された恋心は過去形だった。
噛み締めるようにじっとしているのは認めた瞬間終わった恋を消化するためだろう。
凛子は傷付いている。無視することもできたそれを無理矢理引き出しておいて、少しだけ後ろめたくも思う。なんて自分勝手なんだろうか。
でも、それでいい。
自覚せず想いをくすぶり続けるぐらいなら、いっそ傷付いて、その痛みとともに前に進んでほしい。
いずれ痛みを忘れるほど、別の誰かを想えるように。
再び訪れる沈黙。
ほどなくして少し大袈裟なほど大きくため息を吐いて、凛子が微笑んだ。
「あー……にしてもなんで分かったのかなぁ」
「そりゃ、いつも見てますから」
普段の笑顔と困った様子にいつも通り冗談まじりに軽い口調で笑ってみせれば、私そんなに分かりやすく見てたかなぁと恥ずかしそうに呟く凛子。そうじゃなくて、と出そうになった言葉を飲み込んで、その頭にぽんぽんと触れた。
大人しくそれを受け入れる凛子は、「私ね」と語りだした。
「旭の傷が少しでも癒えるように今まで一応色々とやってきたんだ。でも何やってもだめでね。あとは時間にまかせてみようって、そう思って見守ってきた。でも、あの子を初めて見たときに気付いたの。思い出したの。思い知ったの。私じゃだめだったんだなって」
凛子のことだ。できうる限り手を尽くして、その度に癒えることのない彼の傷に凛子自身が傷付いていただろう。
けれどすべて報われなかった。
そのときの凛子の嘆きはどれほどだろう。
「きっと、あの子の真似事をしたとして、旭の闇を溶かせたとしても、旭の本当の気持ちまでは手に入らないだろうなって直感的に思ったんだ。だって私はあくまでも私で、あの子にはなりえないから。エンディングの旭の幸せそうな姿は、あの子にしか作り出せない。だからね、決めたの。あの子が旭のルートに入ってくれたから……旭を好きになってくれたから、私は私の出来ることをしようって。お邪魔なライバルにも、協力する友人キャラにもなろうって」
瞳を伏せるのと同時に、まなじりから雫がこぼれた。
「私が旭を幸せにできないのなら、旭が幸せになるためのお手伝いを精一杯してやるんだ」
きっと本当は、誰よりもその手で彼を幸せにしてやりたかっただろうに。凛子は笑顔を浮かべるのだ。彼の幸せを願う笑顔を。凛子自身それが一番幸せなのだと言いたげな笑顔を。
「凛子が手伝うなら彼の幸せは絶対だね。でも」
彼の幸せを凛子が願うことも、それを手伝うことも凛子がそう決めたのなら異論はない。
けれどそれが凛子の幸せなんて、少しだけ悲しい。
凛子には一方的に捧げる惜しみない愛情だけで満足して欲しくない。その笑顔に納得がいかない。
「でも、それじゃあさ、誰が凛子を幸せにするんだろうね」
さぁ? なんて笑ってとぼけている凛子には彼に与える愛情と同等のものを、また別の誰から与えられるべきだ。
こんなにも愛情深い凛子が愛されないなんて間違っていると思うのだ。
凛子も誰かに愛されて、そして幸せを感じてほしい。
そして叶うなら。
「なんならさ、俺がしてあげようか。凛子のことを幸せに」
凛子に愛を捧げる役は俺がつとめたい。
これでも凛子の自覚したくなかった気持ちに気付けるほどには凛子に片思いし続けてきたのだから、その権利を主張してもいいだろう。
きょとんとこちらを見上げる凛子に、これでもかと愛をこめて見つめてやる。
「え?」と凛子の口からもれた。
「というか、俺が凛子のこと幸せにしてあげたいだけなんだけどね」
彼を想う凛子の笑顔と同じものをつくればその頬は面白いくらい赤くなった。
自分の恋心に気付かないふりをしていたが、凛子は決して鈍くない。
友人だと思っていた相手からのこんな言葉と視線の意味を正しく汲み取り理解して言葉が出なくなるくらいには。
頬を真っ赤に染め上げて一人狼狽える姿が可愛くてついつい笑い声がもれてしまった。
「さっき言ったでしょ。『いつも見てますから』」
最近、友人である鈴野凛子の様子がおかしい。
彼絡みで急に不自然になった言動は収まったものの、今度はこちらに対する言動が不自然になった。
笑いかければ目をそらされ、話しかければびくつかれ、隣り合う距離も心なしか以前より微妙な隙間をあけられて。手に触れでもしたら、全力で逃げられる。
あからさまなそれにまわりはなにごとかとにやにやしながら俺に聞いてくる。
最近、友人、兼、片思いの相手である鈴野凛子の様子がおかしい。
目をそらしなが、びくつきながら、隙間を作りながら、逃げながら。
それでも俺のそばにいてくれる凛子の頬はこの頃よく赤く染まっている。
今まで見ることのなかったその変化に密かに喜びながら、彼とあの子を優しく見守る凛子を今日も俺は見つめてやるのだ。