皆森羽雪の場合
午後三時四十五分、四階の窓際。
あたしの目が捉えるのは──たった一人。
窓を開ければ、心地良い初夏の風。
あたしのスカーフを巻き込んで、教室にふわりと吹き込む。
誰もいなくなった教室。
校庭からは、部活で走り回る人達が見える。
うだる様な暑さの中、彼らは元気にボールを追い掛けていた。
きらきらと光る汗を撒き散らしながら。
あたしはサッカーが好きな訳じゃない。
ルールも詳しくないし、テレビ中継も特別見たりしない。
でも、毎日この時間、あたしはここから校庭を見ている。
いつからだったろう。
きっかけは多分、些細なこと。
あの日あたしは、教室にノートを忘れた。
「あっ」
その日の帰り、自転車置き場であたしは小さく声を上げた。
「なーに、どしたの羽雪?」
サドルに跨りながら、友達の菜摘がこちらを向く。
「英語のノート、教室に忘れた」
自転車の上げたストッパーを戻して、カゴからバッグを取り出した。
「ごめん、取りに戻るから、先に帰ってて」
「もー仕方ないなあ」
ぶつくさ言いながら自転車を漕ぎ出す菜摘を見送って、あたしは教室に戻った。
教室は四階。
こんな時、エレベーターでもあればいいのにと心底思ったりする。
ほとんど誰もいない校舎は、昼間のそれとは違って、驚くほど静かだ。
僅かに差し込む柔い光が、階段の踊場を照らす。
あたしはこの時間帯が、割と嫌いじゃない。
たまにはいいか。
気持ちゆっくりと、歩みを進めてみた。
教室に着くと、案の定誰もいなかった。
時計を見れば、三時四十五分。
最後の授業が終わってから、そんなには経っていない。
「皆、帰るの早いな…」
あたしも似た様なものだけど。
独り言が寂しかったので、最後の一言は飲み込んだ。
あたしの席は、窓際の前から四番目。
後ろから二番目。
中途半端。
どうせだったら、一番後ろがよかった。
ごそごそと机の中を漁る。
なかなか見つからない。
置き勉している教科書達が、だばだばと床に散乱した。
「あー、もう……」
拾おうとして諦める。
椅子に座って、ぼんやりと教室の時計を眺めた。
何で、学校の時計は白くて丸くて無機質なんだろうか。
もっと可愛いのにしたらいいのに。
そんなことを考えて、只、ぼんやりとしていた。
「何してんの」
急に声を掛けられて、驚いて振り向く。
ドアの前には見知ったクラスメイトの河崎くんがいた。
汗だくの白いTシャツで、やっぱり汗だくの顔を拭っていた。
「……ああ、英語のノート忘れちゃって」
「……で、それ?」
彼の視線の先には、散乱したままの教科書達。
心無し、彼は笑っていた。
拭い切れなかった汗が、きらきらと光る。
「河崎くん、部活でもやってんの?」
「そう、サッカー。そこから見えるでしょ」
言われて窓の外に目をやる。
ほんとだ。
暑そうだなあ。
けれど、気持ちよさそうにも見えた。
「拾うの手伝うよ」
がさがさと散乱した教科書達を彼はかき集め始めた。
いい人だな。
「ありがとね」
重い腰を上げて、あたしも一緒になって拾う。
間近で彼を見たのは、初めてだった。
柔らかそうなほんのりと茶色がかった髪。
日に焼けて健康そうな肌。
人懐っこそうな顔立ち。
「……顔、可愛いんだね」
よくよく見たことなんてなかったけれど。
思わず、口をついて出た言葉に、彼は顔を上げて笑った。
何だか、ほんとに可愛かった。
「サッカーしてる時は、多分、格好いいよ」
可愛いはまずかったのだろうか。
少し、反省した。
英語のノートだけ手に取り、拾い集めた教科書を机に仕舞う。
「俺もそれ、取りに来たんだ。明日、小テストだもんな」
やだなー何て言いながら、彼も自分の机からノートを取り出すのをぼんやりと眺める。
自習なんてするんだ。
何かいつもクラスの中心でわいわいやってるから……意外。
「暇なの?」
もう一度汗を拭って、ふいに彼はそう言う。
「んーまあ、忙しくはないけどね」
帰宅部だし、明日が小テストって言っても、帰ってすぐに勉強する訳でもない。
そう考えると、わざわざ部活中にノートを取りに来た彼は、あたしより大分真面目なのかもしれない。
「じゃあさ、そっから見てなよ。俺、格好いいから」
「自分で言っちゃうんだ」
「言っちゃうよ」
笑いながら、彼は部活に戻って行った。
それからあたしは、毎日ここから河崎くんを見ている。
特別、親しい訳でも無い。
たまに、挨拶する程度。
只、前よりは話す様になった。
携帯番号も、メールアドレスも知らない。
あの時の笑った顔が、何となく目に焼きついて、離れない。
彼はボールを追い掛ける。
うだる様な暑さの中、彼は校庭を走り回る。
あの時の可愛いと思った気持ちが、何となく別のものに変化して行く。
そんな気がした。
校庭に、集合の笛が鳴り響く。
部員達が駆け足で集まって行く中、彼がこちらを向いた。
一瞬、目が合う。
彼は軽くあたしに手を振って、それから笑った。
ああ、そうか。
そういうことか。
あたしも笑って、手を振り返した。
午後三時四十五分。
あたしは多分、君だけを見てる。




