第七話「大日本帝国の改革」
日本の国力増強その一です。
―日本は治安維持法を廃止した。共産主義者達はこの知らせに安堵したもの、それはつかの間の事に過ぎなかった。廃止された特高に変わる組織として、より防諜を強化した「公安警察」が直ぐ様創立され、特高警察の資産をそっくりそのまま受け継いだ上で公務が開始された(人員は新たに選抜された)。任務は防諜や政治犯の取り締まり。その為、共産主義者達は恐怖の対象が特高から公安に変わっただけだとボヤいた。公安は共産主義撲滅のための極秘計画「レッドパージ」(史実のアメリカの対日政策に肖った)を発足後すぐに実行。日本各地に潜む共産主義者達は公職についていれば成果を摂取した上で旧特高の保有した施設を流用した収容所に放りこんだ。`リスト`の効果もあり、成果は上々。共産主義者は根こそぎ収容所行きになり、ソ連に情報が渡る可能性はグンと減った。そして、国内を粉糾させたのは蒋介石の講和条件。
彼は『興和したければ首相ではなく、国家元首たる天皇陛下にお越しいただく必要がある』と通告。もちろん陸軍や海軍右派は『陛下を呼びつけるとは何たる無礼なッ!!』と怒り狂ったが、日本の首相は力のない存在なのは確か。この話を聞いた陛下は「国民党との戦争を終わらすためには朕が頭を下げればいいのだろう?これで彼等が満足し、戦争が終わるのなら楽なものだ」と国民の犠牲を憂慮する発言をし、海軍の護衛で中国に赴く事となった。
陛下の行動により、国民党との講和に道筋をつけた日本は全力で来るべき対米戦の準備に全力で取り掛かった。39年夏以降、情報を元に軍の正式小銃を既に旧型に分類される38式歩兵銃からの更新に、米国で造られたU.S.M1カービンを生産ライセンスと技術者ごと買収。ドイツ製工業機械による国産化が行われた。制式名称はカービンM1短小銃”。
小銃はこれで統一。拳銃との弾薬規格の統一に向けて、ボロボロになったメンツを取り戻すべく陸軍は必死に動いた。空軍の設立の際には「何故ゆえに陸軍から戦力を奪うのだ!!」と文句が出たが、陸軍の中では有能な今村均からかつての陸軍の長老「上原勇作」元帥が「防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかない」と言っていたのを聞き出した海軍はこのネタを基に「空軍の設立は上原元帥閣下のご意志なのだぞ!!」と詰め寄り、脅して認めさせた。そして戦車・自動車産業の育成のためにドイツから四号戦車とキューベルワーゲンを輸入。Ⅳ号戦車を基に次期主力戦車のあるべき姿を模索。因みに輸入の際に行われた模擬戦では日本国産の最新鋭、九七式中戦車「チハ」をブリキのごとく粉砕。来日したドイツ陸軍の戦車兵達は「九七式はブリキだぜ、フゥハハハァ――ッ!」と言わんばかりに日本戦車を嘲笑。精神論に凝り固まる陸軍上層部を関東大震災のごとく震撼させた。すべてはブレーンを得た海軍の思惑通りに事は進んだ。自動車産業の育成のためフェルディナント・ポルシェ博士を日本に招聘する、艦船の主砲レベルの大砲を戦車に乗っけるための研究。道路の舗装化と高速道路建設、弾丸列車計画を戦後の新幹線計画を基に手直しした「真・新幹線計画」の研究開始などインフラ・ライフライン整備が全力で進められた。その主導を行ったのが史実より一年早く総理大臣となった米内光政。
(これは近衛前総理が心労により退任し、国内の事情により陸軍出身者を総理にするわけには行かなかったために陛下が選んだのが米内だった)
因みに内閣の顔ぶれは史実より大分リベラル派が多く、なんと外務大臣は後の総理である、吉田茂である。(メタ情報による人選)。陛下の行動の成果もあり、米国も史実ほど日本を嫌っておらず、高オクタン燃料が入手可能であった。そこで「東京で車の需要が増えたため」との名目でありったけの車用燃料と航空燃料を輸入。限界まで買い込んだ。
国内工業能力の増強もドイツ製工業機械とアメリカ式生産方式の導入が四大財閥を中心に行われ、日中戦争に終わりの兆しが見えた事によって史実よりは大分ましな状況が生まれた。しかし長らく行われた戦争により、国民の暮らしは決して楽とは言いがたいものだ。
それは軍人であっても例外ではない。
岬中佐や遥ほどの地位であっても、洋食に使う肉類は軍事物資に割り当てられるため、一週間に一度しか手に入れられない贅沢品。そのため割とヘルシーな食事風景があった。
「ヘルシーだなぁ……まっ、元の時代の高カロリーな料理で生活習慣病になる事を考えればマシか。おかげで視力も上がったし」
彼女は元の世界にいたときは視力0.7で、多少近眼が進んでいた。しかしこの時代で暮らしている内に視力が飛躍的に回復。その気になれば搭乗員に志願できる、視力2.5にまで(日本の搭乗員の基準では一般的に良いとされる1.0は弱視とされていた。増員のためには
緩和を行なわくてはならない)上昇していた。まさにタイムスリップ様様である。
「じいちゃんはどこに所属する事になったの?」
「ウム、今度は連合艦隊で新設された「情報参謀」に抜擢されて、長門に乗り込む事になった。お前のほうはどうだ?」
「小澤中将閣下の第一航空艦隊の赤城に乗り込んで航空参謀になる。それで暫定的に大尉に昇進するみたい」
「ずるいぞそれ……。俺なんて大尉に昇進するのに何年もかかったのに」
(未来の情報を元に連合艦隊の各艦隊の参謀は各分野別に分業化が行われ、会議から半年後に各種参謀職が新設された)
そう。当時の日本の昇進速度は遅く、アメリカのような抜擢人事は無かったが、歴史に変化が生じつつあるこの世界では抜擢人事が行われるようになったのだ。(米国への対抗意識もある)
海軍実戦部隊の顔ぶれも多少は変化し、史実通りに山本五十六が連合艦隊司令長官を拝命した他は変化が生じた。連合艦隊参謀長は山口多聞。第二艦隊司令長官は南雲忠一、第一航空艦隊司令長官は史実通りに小沢治三郎だが、参謀長は猛将の誉高い角田覚治となった。
他は商戦護衛艦隊も新設された。旧陸軍航空隊と統合し、空軍設立までの暫定措置の統合航空隊司令長官は史実でラバウル航空隊の司令長官の塚原二四三。その副官は草鹿任一という陣容。陸軍は参謀総長に今村均が抜擢された。海軍に操られ、陸軍中枢も入れ替わった。強行かつ無能な人材が大半であったため(有能だとされる将官を探すほうが難しい)に中枢にいなかった栗林忠道や牛島満、中川州男などの有能な人材が中枢に抜擢された。左遷されたのは板垣征四郎などの関東軍の人材や東条の派閥。関東軍の中で左遷を免れたのは海軍へ情報を渡し、立場を安定させた石原莞爾くらいのものだった。今や完全に陸軍は海軍と新設予定の空軍の下に位置されていた。後に(1951年頃)、ある元強硬派の退役軍人が戦後の書で「我が陸軍は完全に河童共の傀儡に乗っ取られていた。せっかく中国と戦争起こしたのに全てがパーだ」と憤慨するが、まさにその通りであった。
そして中島飛行機は三九年の暮れについに新型航空機を完成させる。その名は鍾馗。ドイツ軍人や技術者の手助け、海軍の機関砲技術の提供により完成したキ44である。武装も史実のような貧弱なものでなく、20㎜機関砲装備である。エンジンが史実同様ハ41である以外は史実より優秀となり、零戦以上に「戦線に貢献した名機」として名を残す事になる。
-この時期より、日本はF情報を基に国内改革に乗り出し、史実の戦後に近い社会形態へ変えていった。F情報で「日本人でも欧米を凌駕する文化が生み出せる」事に自信を持った日本政府は「文化奨励」を掲げ、史実の戦後で花開く文化と職業の数々を奨励、史実より早く漫画家などの職業が華の職業となった。(遥が漫画好きであったためもあるが)スポーツも職業化が推し進められ、既に連盟があった野球は「日本プロ野球機構」へ早期に移行。サッカーも日本サッカー協会として組織再編、1940年には53年後に設立されるはずの日本プロサッカーリーグが設立された。同年の東京オリンピックに合わせ、サッカー場の建設と完成のラッシュが起こった。そして遥が軍人となったのをきっかけに女性軍人が増加したのを契機に女性に高等教育を受けさせる必要性から、国は高等教育機関に女性教育の門戸を開かせた。その結果、女学校の一部が女子大学へ変わったり、大学や高等学校が男女共学化された。これは軍人に必要な知識を身につける以前に、教養が備わってないと困るという、軍部の現実的問題もある。こうして軍部が率先して男女平等化を推し進めた事は国民にいい見本となり、40年代中盤頃には旧史戦後よりもある意味では平等な社会が現るに至り、日本は旧史の政治的植民地として存続し、米国の忠犬として振る舞うより「アジアの盟主」として米国を英国と共に叩きのめすという選択を取ったのである。
陸軍にとっては航空隊を取られ、発言力も無きに等しくなった屈辱の日々ですが、日本全体で考えればいい方向です。