第六話「独顧問団第一弾、日本に派遣される」
ドイツ軍のエースパイロットが来日します。ドイツ軍のエースパイロット保有率はぬぁぁぁ…世界一ィィィーッ!!露助やヤンキーがなんぼのもんじゃッ!!
―日本海軍は着々と戦力を増強していた。早期の国産電探の実用化に血眼になって取り組んだ結果とドイツの技術援助により、39年の春に入って探索用レーダーの開発に成功。順次、各艦に装備される事となった。米国に`日本は海軍主体の戦力増強に切り替え始めた`と認知されるほどの急激な海軍の増強政策は遥の手引きによる物。
彼女は米内光政の手引きで`陛下`と面会し、陸軍の悪行を多少の誇張も交えて説明。
陸軍が国の意向を無視して独断で戦争を煽った事を知った今上天皇陛下(この時代では昭和天皇)は瞬間湯沸かし器のごとく激怒。「朕自ら陸軍省を近衛師団を率いて殴りこみをかける!!」と息巻くが、米内海軍大臣がこれをなだめた。協議の結果、直ちに陸軍の最高責任者らが呼びつけられ、激怒した天皇陛下からこれでもかというほどの叱責を受けた。次いで、陸軍の不埒な悪行は直ちに海軍お抱えの記者を通して、各新聞社に流され、一般国民の不信を煽った。その結果、天皇と国民の信頼を失った陸軍は国民党への配慮と称して、支那からの転進を決定。その結果、日中戦争は事実上の敗北(一時の戦闘で勝っていても、屈服させることは不可能であり、未来の米軍が戦後の紛争で踏んだ轍を避けるため)決定的となり、天皇陛下が中国国民党に陳謝(陸軍の暴走という意味で)するという事態に発展。近代化以降、敗北をしなかった日本の栄光に`泥`を塗った陸軍の政治的発言力は急激に低下。その年の内の帝国議会で余分な陸軍予算の削減が取り決められた。そして日本の発展の障害となる治安維持法と特高警察は廃止(日本の戦後の発展には必要のない存在との情報を得たリベラル派の工作によるもの)とされ、様々な事件を引き起こした罪と称し、上層部全員が海軍による粛清を受け、死体が野ざらしにされるという有様に成り果てた。一般構成員も通常警察への帰属が決められ、全員が2階級降格に処された。それに対して前途洋々となったのが帝国海軍であった。削減された陸軍の予算が海軍に回される事となり、潤沢な資金を手に入れた海軍は自らが主導権を握る形で`空軍`の創立を提案。海軍基地航空隊と陸軍航空隊を統合する形で42年を目処に準備が開始された(実際には海軍航空隊が陸軍航空隊を取り込む。暫定的に陸軍航空隊は海軍航空隊に編入される)これにより準備のための委員会が発足したのだが、日本には空軍に関するノウハウが全く無い。そこで同盟締結には格っていないもの(御前会議でドイツとの明確な同盟を結ぶことが日本の破滅を告げると知っていた海軍の策略)、比較的良好な関係を保っていたドイツに顧問団の派遣を依頼。戦争準備を進めていたもの、計画の完遂のための時間を欲したヒトラーの命により、日本への空軍軍人の顧問団の派遣決定が成され、日本側(米内光政海軍大臣自ら手紙でドイツ空軍に要望の手紙を送った)の要望に答える形で要員の派遣が行われた。
主なパイロットは以下の通り。
・アドルフ・ガーランド中尉(史実で後に戦闘機隊総監になるエース。第44戦闘団の司令官としても有名)
・ハンス・ヨアヒム・マルセイユ少尉(ご存知アフリカの星`黄色の14`此頃は志願したての若造)
・オスカー=ハインリヒ・ベール(これまた後々のエースパイロット。史実では此頃は輸送機のパイロットだが、日本からの極秘情報により国家元帥命令で早めに戦闘機に転向。通称のハインツ・ベーアで有名な人)
・ゲルハルト・バルクホルン少尉(史実での東部戦線の2大エースの一人。此頃はまだ新米少尉)
・エーリヒ・ハルトマン少尉(これまた東部戦線エースパイロット。史実では40年に志願するが、日本からの情報によりパイロットとして勧誘された)
・ハンス・ウルリッヒ・ルーデル少尉(急降下爆撃機の名手。ソ連最大の敵とも言われる)
この5人は未来の歴史で名高いエースパイロットとして名が轟く名搭乗員であり、日本……というより帝国海軍が欲した逸材を読んだ感が強い。この顧問団は日本の国内では『ガランド顧問団』.と呼ばれ、新聞などでも取り上げられ、一般人からも歓迎を持って迎えられた。彼等は39年の夏に航空技術者・整備士などを引き連れて来日。日本にドイツ空軍の
編隊空戦の戦術や戦略を伝授していった。彼等史実で獅子奮迅の活躍を演じたエースパイロット達は飛行特性の違う日本機に戸惑いを見せたが、直ぐ様乗りこなすという柔軟性を見せた。海軍で当時配備が始まっていた一二試艦上戦闘機乙型を「ドイツ機より機動性がいいし、火力も高いが、高速での操縦性に難がある」と評し、来日翌日の模擬空戦では海軍の支那事変の撃墜王達の乗る一二試艦上戦闘機乙型を同種の機体での編隊空戦術で圧倒。巴戦重視の海軍航空隊を意気消沈させてしまった。その大敗北は大手新聞社が『我が荒鷲達、独顧問団に完敗ス!!』と一面で報じるほどの惨めな物だったが、パイロットの一人のガーランド中尉がインタビューで「個々の操縦技術は我がドイツ軍の平均レベルを凌駕している。我々も一対一では危なかった。日本軍はドックファイトでは世界トップレベルだろう」とフォローしたおかげでどうにか海軍航空隊の面目は保たれた。これ以降
ガーランド中尉の講義や未来から持ち込まれた`資料`を基に、編隊空戦のドクトリンと
戦術を研究・実践していく事が陸海軍航空隊の共通事項として位置付けられた。
彼等は各航空会社の研究開発中の機体や配備開始段階の航空機(例・当時最新鋭のキ43)も見て回ったが、キ43はこれでもかと酷評された。対して当時陸軍航空隊へ配備予定(空軍の第一次主力機としても選定された)で、設計段階であったキ44の思想を重戦用兵思想の理に適っていると賞賛。設計主任の糸川 英夫技師に顧問団の技術者達が助言して設計のさらなる改善に成功。キ44の存在を知っていた海軍が陸軍に機関砲技術を与えていたのも幸いし、この機体は史実よりも重武装機に仕上がる目処がたった。ここに独顧問団の恩恵の第一弾が始まったのである。
艦政本部は将来の次期主力空母の模索を初めていた。戦時量産型の改飛龍型や建造中の空母(後の翔鶴型)のさらに次世代となり、今後20年間において最も旧型となる赤城や加賀の代価となるものだ。岬中佐の持ち込んだ「アングルド・デッキ」の情報を基に設計の取りまとめが始められた。船体の基になった三面図は史実の悲運の最後を遂げた`大鳳`に米軍の戦後第一世代空母「フォレスタル級」の要素を組み合わせた物で、インフラや技術の発展を感味し、46年~53年を建造の目処とする模索が始まった。この超長期の開発計画は`G14`計画と名付けられ、日本海軍航空母艦の頂点に経つ物としての意味合いを持って艦政本部で伝えられるようになる。
「オイ、今度の航空母艦……スゴイぞ。10年以上先を念頭においた空母だって?」
「ああ。たぶん50年代に造るつもりだ。俺達いい年になってるぜ?」
「違いねえ。でもこれが実現すれば我が海軍は空母の歴史に金字塔を打ち立てる」
「その頃には俺、結婚できてると思うか」
「無理だな」
などの冗談が艦政本部で交わされたとか。海軍の未来は前途洋々となるのか、それとも敗北の屈辱が待っているのか?全ては日本軍の意識改革に掛かっている。そしてドイツでは破局が近づきつつあった。ドイツ第三帝国総統「アドルフ・ヒトラー」の野望はじっくりと熟成されていく。
「見ておれジョンブルにヤンキーのアングロサクソン共と、ロスケの二等種族め……我がゲルマンの恐ろしさを思い知らせてくれる……」
ドイツを復興させた政治家として名声を得た彼の内なる野望が顕現する日は足音を立てて近づきつつあった。ドイツは戦争への道をひた走っていった。時に1939年の夏の熱い日である