第十一話「中島飛行機の悲願、新史にて成就」
この話はジェット機開発の話です。
‐後の枢軸国のジェット戦闘機開発は史実よりも驚異的なスピードで進んだ。ドイツと日本の双方が早期に国運を賭けて艦船以上の予算を立てて血みどろの努力を重ね、双方の最精鋭技術陣に英国内部の親独・親日派が流したジェットエンジンの開発データと日本が極秘に保有している実用段階のエンジン「ダーウェント」及びその発展形「ニーン」の開発データが合わさった結果、38年から4年後の1942年には第5次試作エンジン(耐久能力が重視された。母体は史実でのユンカース ユモ 004であり、日本名はネ‐20改)とその搭載を前提の機体が完成した。日本とドイツが共通事項で開発したため、ユンカース ユモ 004以上のエンジンの実用化も44年までには間に合う事が判明。各種外国企業から品質管理などの概念を学習し、工業力を上げつつある日本はこの機体を対超重爆撃機用乙戦(ジェットで戦闘機との空戦が可能になるには対米開戦が差し迫った45年初頭に登場する、さらなる次世代機を待つ必要があった)として採用を内定した。(40年の東京五輪は日本が開催を撤回しなかったのと、なんとか春に和平が成立した事で中国も参加して開催され、日本の成長のカンフル剤の役目を果たした)夏の量産型の完成の報に軍部は狂喜し、極秘裏に初飛行が行われた。
「ついに我が帝国はジェット機を手に入れた……!!」
初飛行の様子を観覧していた中島飛行機の創業者「中島知久平」は史実で大日本帝国の存続中に成し遂げられなかった(彼もこの頃には史実の敗戦は耳にしていたので余計に感動したとか。他には彼自らの悲願に向けて、Z飛行機の実現に向けて研究を重ねている)日本純正のジェット機の量産が成就した事に感涙していた。この機体は同年に発足した空軍向けで、キ201`火龍`と名付けられ、同年の秋から量産が開始された。(レシプロ機の次世代機より1年早い完成であった)
この火龍は技術的熟成度を重視した結果、翼下懸架方式のエンジンなどの黎明期らしい特徴を残した機体であった。しかし当時の日本機中最強と言える火力と零戦より遙かに強力な装甲を備えた機体であったのが乙戦装備部隊の兵士たちに、ドックファイトが出来ない以外はおおむね好評を持って迎えられた。ここまで来るには数多の失敗と犠牲を伴ったのは言うまでもないが、新史(軍がこの世界の歴史を
遥が持ち込んだ史実の歴史の経緯と区別するために用いている用語)において日本がジェット機の開発国の一角に食い込む最初の一ページとして刻まれた。この火龍は同時期のナチスにおけるメッサーシュミット Me262と共に第一級軍事機密(米国などに対抗機を作られるのを避けるため)に数年ほど指定され、戦争開始後の46年に次世代機の配備が開始されたのを機に『猛鷲`火龍`戦闘機隊 神州犯す醜翼に挑む我等が決戦機隊』として、機密指定解除と同時に国民に派手に寛伝され、有名となったとか。
当時の整備兵は戦後にこう語る。「アレは整備に手のかかる奴だったが、初めて整備要領が明確に出された点では評価できる」と。火龍は日本にとってエポックメーキングとなったのだ。