前編 わが家の時計は止まったまま
数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。
拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。
「あの日」から、わが家の時計は止まったままだ。
窓の外では、王都の魔法学院へと向かう若者たちが、自慢の魔力を輝かせながら笑い合っている。けれど、この静まり返った侯爵邸の奥座敷に、その光が届くことはない。
兄様――エドワード・フォン・アストレア。
かつて「アストレアの再来」と謳われ、五歳にして高位魔術を操った神童。そして、現侯爵家の正統なる後継者。
彼は今、ただの「壊れた人形」として、薄暗い部屋で本をめくるだけの日々を送っている。
物語の始まりは、十二年前の誘拐事件だった。
犯人は隣国の刺客か、あるいは没落を企む政敵か。動機はどうあれ、一週間後に救出された兄様の胸には、禍々しい漆黒の紋様が刻まれていた。
「魔術の核への呪詛」
それが、大陸最高の治癒術師が下した診断だった。
魔力は存在する。しかし、それを行使しようとすると、核に絡みついた「呪い」が牙を剥き、猛烈な激痛と共に魔力を霧散させてしまう。
魔術師にとって、それは死よりも残酷な宣告だった。
「リリア、無理をしなくていいんだよ。お前は、お前の人生を歩みなさい」
車椅子に座り、青白い顔で微笑む兄様の声は、いつだって優しい。でも、私は知っている。彼が夜中、動かなくなった指先を見つめて、声を殺して泣いているのを。
かつて彼の手のひらで踊っていた、あの美しい黄金の炎を、彼自身が一番忘れられずにいることを。
「いいえ、兄様。私は次期当主のスペア(予備)ではありません。兄様を、元の場所へ戻すための杖になるんです」
私は、アストレア侯爵家の「無能な令嬢」として振る舞いながら、地下の書庫に潜り込む毎日を始めた。
世間は私を笑う。
「兄が廃人になり、妹は書物に埋もれて現実逃避か」と。
父様さえも、私に期待することをやめ、他家から養子を迎える準備を進めている。
だが、彼らは知らない。
私が十二年かけて積み上げたのは、既存の「魔術」ではない。
呪いを呪いとして上書きし、回路を再構築する――『魔導工学』と『古代言語』の融合だ。
ΔΨ=∮ Γz−af(z) dz
(※現代魔術の定石を無視した、因果律への干渉計算。私はこの数式を、血を吐くような思いで導き出した。)
兄様の核に触れるためには、まず私自身の魔力を「無」に近づける必要がある。
毒を制するには、より純度の高い、しかし無害な溶媒が必要なのだ。
「見つけた……。これだ」
古ぼけた羊皮紙に記された、失われた術式。
【理の剥離】。
それは、魂に刻まれた情報を物理的に分離し、再定義する禁術。
その日は、義兄となるはずの養子が屋敷にやってくる前夜だった。
私は兄様の部屋の扉を叩いた。
「リリア? こんな夜更けにどうしたんだい」
「兄様、少しだけ……熱くなるかもしれません」
私は兄様の胸元に手を置いた。
驚きに目を見開く兄様を無視して、私は蓄えてきた全魔力を、指先一点に集中させる。
「リリア、やめろ! 呪いの反動はお前にまで及ぶ!」
「いいえ、及ばせません。私が……その呪いごと、兄様の運命を買い取ります」
視界が白く染まる。
兄様の胸の奥で、黒い鎖が悲鳴を上げた。
呪詛が私の腕を伝い、肌を焼く。熱い。痛い。意識が飛びそうになる。
けれど、私は笑った。
(ああ、ようやく。ようやく触れられた。兄様の、本当の輝きに)
私は解析した数式を、直接脳内で展開する。
呪いの正体は「拒絶」だった。ならば、その拒絶を「肯定」へと反転させるだけだ。
「――『全事象、再定義』!!」
ドォォォォン!! と。
窓ガラスがすべて割れるほどの衝撃波が、侯爵邸を揺らした。
翌朝。
養子縁組の儀式のために集まった親族たちの前で、奇跡は起きた。
広間に現れたのは、車椅子を捨て、背筋を伸ばして歩く一人の青年。
その周囲には、かつて王都を熱狂させた、あの黄金の魔力がオーラとなって渦巻いていた。
「おはようございます、父上。そして皆様。……少々、寝坊が過ぎたようです」
静まり返る会場。
父の震える手から、ワイングラスが落ちて砕ける。
「エ、エドワード……? 魔法が、戻ったのか……?」
「ええ。最高の魔術師が、私の呪いを解いてくれました」
兄様は、列の後ろでボロボロの格好をして立っている私を振り返り、優しく、誇らしげに微笑んだ。
「私の誇る、世界最高の妹です」
その瞬間、私を「無能」と蔑んでいた親族たちの顔が、驚愕と恐怖に染まる。
私はただ、静かにカーテシーを捧げた。
(ざまあみろ、なんて。そんな下品なことは言いませんわ。……でも、少しだけ、すっきりしましたけれど)
兄様の復帰は、王国中に激震を走らせた。
「呪いを解く魔術」など、この世には存在しないはずだったからだ。
私の元には、王立研究所や魔術師団から、山のような招待状が届くようになった。
けれど、私の答えは決まっている。
「私はただの、兄の助手ですので」
そう言いながら、私は今日も兄様の隣で、新しい術式の研究に耽る。
かつて奪われた一週間を、これからの何十年という時間で塗り替えるために。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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