第二話 黒豹の長、森に現る
朝から森はざわめいていた。
木々の上を渡る風が、どこか落ち着かない。
猫獣人たちが暮らすフェルナード家の前では、珍しく衛兵たちが整列していた。
「黒豹族の使者がもうすぐ到着するらしい」
兄のレオンが低く言うと、リリィの尻尾がぴんと立った。
「……本当に来るんだね」
緊張と不安とが入り混じった声。
母がそっとリリィの肩を抱く。
「大丈夫よ、リリィ。無理に決めなくてもいいの。まずはお話を聞くだけだから」
だが、リリィの胸は高鳴っていた。
十年前、森で出会った黒い影――。
もし彼が本当に“カイン”という名を持つ黒豹族の長だとしたら。
もう一度、あの黄金の瞳に会えるのだろうか。
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昼を過ぎたころ、森の奥の道に気配が走った。
鳥たちが一斉に飛び立つ。風がぴたりと止む。
そして――黒が現れた。
木漏れ日の中を歩むのは、一人の男。
漆黒の髪が陽にきらめき、歩くたびに長い外套の裾が静かに揺れる。
獣人とは思えぬほど整った顔立ち。
だがその瞳は、確かに“獣の光”を宿していた。
金色に輝く双眸――まさに、あの日の黒豹の瞳。
フェルナード家の門前で、父が深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、黒豹族長カイン殿」
男――カインはわずかに頷いた。
「久しいな、フェルナード殿。森の加護は変わらぬようだ」
低く響く声。その一言だけで場の空気が張りつめる。
リリィは遠くからその姿を見つめ、息を呑んだ。
――あの人、やっぱり……。
十年前、森で出会った黒豹。
幼い彼女を抱き上げ、「泣くな、小さな猫」と笑ったあの声。
目の前の男の声と、重なった。
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晩餐の席が設けられ、カインはフェルナード家の者たちと向かい合った。
黒豹族の長らしく、立ち居振る舞いは静かで品がある。
だが、どこかに鋭い野性が潜んでいた。
「我が一族とフェルナード家は、古くからの縁を持つ。
十年前、我はこの森で……一人の子猫を助けた」
リリィの耳がぴくんと動く。
「その子に約束をした。“大きくなったら、必ず迎えに行く”と」
ざわめく家族たち。
カインの金の瞳が、ゆっくりとリリィを捉えた。
「――その約束を果たしに来た」
空気が止まった。
リリィは、喉が詰まって声を出せなかった。
「……私を……?」
カインは微かに笑んだ。その笑みは冷たくも優しい。
「十年前のおまえは、小さな手で我の毛を掴んで離さなかった。
“また会おう”と泣きながら言った。――忘れるはずがない」
リリィの胸が熱くなる。
あの日、暗い森の中で光のように現れた黒豹。
温かくて、力強くて、優しかった。
けれど今、彼は――。
恐ろしいほどに美しく、近寄りがたい存在となっている。
「リリィ」
カインが彼女の名を呼ぶ。
それだけで、耳がぴくりと動き、尻尾がふるえた。
「おまえはその耳と尻尾を恥じていると聞いた」
「……!」
リリィの頬が赤く染まる。誰がそんなことを。
「だが、我にとってはそれが何よりの証。
あの日の“小さな猫”が、今もこの森に生きている証だ」
その言葉に、リリィの目が揺れた。
カインの声は低く、どこか温かい。
けれど、その奥には“獣の執着”のようなものが潜んでいた。
「……あなたは、十年間も覚えていたのですか?」
「忘れられるものか。
あの日、約束した。――我の花嫁として迎えると」
リリィは息を呑む。
まさか、あの子どものやり取りを“約束”と受け取っていたなんて。
「ま、待ってください。私は……そんなつもりじゃ……」
「構わぬ」
カインは静かに立ち上がった。
「これから知ればよい。我の想いも、おまえの心も」
黄金の瞳が、月光を受けて光る。
その視線に射抜かれ、リリィは一歩も動けなかった。
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夜更け。
部屋に戻ったリリィは、ベッドの上で尻尾を丸めて座り込んでいた。
頭の中は、カインの姿でいっぱいだった。
――冷たいのに、どこか懐かしい。
――怖いのに、目を離せない。
胸の奥が、どうしようもなくざわめいていた。
そのとき、窓の外から風が吹き込む。
ふと目を上げると、月の下に黒い影がいた。
木の枝の上に立つカイン。
金の瞳が、まっすぐにリリィを見つめていた。
「……眠れぬか、リリィ」
「カ、カイン様……?」
「おまえが泣かぬよう、見張っているだけだ」
月の光が、彼の黒髪を淡く照らす。
その姿はまるで夜そのもの。
リリィは胸の鼓動を抑えられなかった。
黒豹の長と猫耳の娘――。
夜の静寂の中で、二人の距離は少しずつ、けれど確かに近づいていた。




