第一話 耳と尻尾の残る少女
朝靄がまだ村の屋根を包むころ、リリィは小さくあくびをした。
窓の外には、猫獣人たちの集落――森の奥に築かれた木造の家々が並んでいる。柔らかな陽光が枝の隙間からこぼれ、石畳を金色に染めていた。
リリィの家は猫獣人の名家「フェルナード家」。代々、森の守り手として生きてきた一族だ。
兄たちはすでに立派な人の姿をしており、獣人の証である耳や尻尾は消えている。十歳を過ぎれば完全な人型になる――それが猫族の“成長の証”だった。
けれど、リリィだけは違っていた。
十八になった今も、絹のように柔らかい白銀の耳が頭の上に揺れ、腰のあたりからはふわりと長い尻尾がのぞいている。
その姿は、愛らしくもあり、少しだけ特別だった。
鏡の前に立つリリィは、くすんだ金色の瞳を細めて自分を見つめる。
長いまつげの下、頬のあたりにはほんのりとした桜色が差している。
淡いクリーム色の髪は腰まで伸び、光を浴びると毛並みのように柔らかく輝く。
村の誰もが「リリィは可愛い」と言った。けれど、本人は少しだけ胸の奥が痛んでいた。
――どうして私だけ、耳と尻尾が消えないの?
家族は優しかった。母も父も兄たちも、リリィを一度も責めたことはない。
むしろその小さな耳を撫でて、「リリィのままでいい」と笑ってくれた。
それでも、彼女の心にはほんのわずかな“罪悪感”があった。
みんなと違う自分。いつまでも“子どもの姿”を残す自分。
それが、家族の誇りに少しでも影を落としていないか――そう思うたびに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
その日、リリィは森の薬草を摘みに出かけていた。
猫族は嗅覚と聴覚に優れており、森の中で迷うことはない。
けれどその森の奥には、誰も近づかぬ“黒豹族の領地”があると聞く。
猫獣人よりもはるかに上位の獣人――闇の森を統べる存在。
小さいころ、父がよく言っていた。
「黒豹族には気をつけなさい。あの者たちは強く、美しいが、同時に危険でもある」
それを思い出して、リリィは少しだけ耳を伏せた。
葉を揺らす風の音。小鳥の声。遠くで鹿の群れが跳ねる音。
いつもと同じ森の気配――けれど、どこか胸騒ぎがした。
夕方。
家に戻ると、玄関先で父が珍しく真剣な顔をしていた。
「リリィ、少し話がある」
家の中には母と兄たちもそろっていた。
テーブルの上には、黒い封蝋で閉じられた一通の文が置かれている。
「……黒豹族からの手紙だ」
父の言葉に、リリィは目を見開いた。
黒豹族――森の最奥に棲む最上位の獣人一族。
彼らは高い魔力と力を持ち、他の獣人とはほとんど交わらない。
その黒豹族が、なぜ猫族の家に?
父は静かに文を開き、読み上げた。
「フェルナード家の末娘、リリィ殿との縁談を望む――。
黒豹族当主、カイン=ノアールより」
部屋の空気が止まった。
母が小さく息をのむ。兄たちは顔を見合わせる。
「縁談……? まさか、黒豹族と?」
リリィの声は震えていた。
父は頷く。
「そうだ。しかも、黒豹族の長――カイン殿本人からの申し出だ」
耳がぴくりと動いた。黒豹族の長。その名をリリィはどこかで聞いた気がした。
けれど、思い出せない。
「リリィ、心当たりはない? あなたがまだ小さかったころ、森で出会った誰かとか」
母がそっと尋ねる。
リリィは首を傾げた。
――十年前。
幼い頃、森の奥で迷子になったことがある。
そのとき、黒い獣が現れて、泣いていた自分を導いてくれた。
とても大きくて、金の瞳が美しくて……。でも、怖くはなかった。
その黒豹が、もしかして――。
「まさか……あのときの……?」
胸の奥が熱くなる。
あの黒豹が人の姿をとることができるのなら。
あの優しい声の持ち主が、族長カインなら――。
十年前のあの日、確かに“約束”をした気がする。
「大きくなったら、また会おう」
彼の声が、耳の奥で蘇る。
まさか、それを覚えていたのだろうか。
十年の時を越えて、彼は約束を果たしに来たのか。
リリィは尻尾を小さく揺らしながら、胸に手を当てた。
怖い。でも、心が少しだけ高鳴っている。
その夜、月の光が静かに窓辺を照らしていた。
リリィは眠れず、白い耳をぴくぴくと動かした。
黒豹族。族長カイン。
――どんな人なのだろう。
「もし、本当にあの黒豹さんだったら……」
呟く声は、夜風に溶けていった。
尻尾が揺れる。頬が熱くなる。
十年前の記憶が、やわらかく胸をくすぐった。
そして、次の日。
黒豹族の使者がフェルナード家を訪れる。
リリィとカイン――二人の運命が、再び交わる日が来ようとしていた。




