第9話:辺境の街メルク
第9話:辺境の街メルク
ヴァルカン軍の斥候部隊を退けたものの、二人の消耗は激しかった。
ゼノスの肩の傷は幸い浅かったが、アリアナが魔力をほとんど使い果たしてしまったため、しばらくはまともな戦闘を避けねばならない。
二人は、身を隠し、情報を集めるため、最も近くにあった辺境の街メルクへと向かった。
メルクは、かつて交易の中継地として栄えた街だと聞いていた。しかし、二人が目にしたのは、その面影もない、寂れた光景だった。
石畳の道はひび割れ、家々の壁は色褪せている。市場には活気がなく、道行く人々の顔は、一様に暗く、うつむきがちだった。
「…ひどいわ。王都に届いていた報告書とは、まるで違う…」
アリアナは、フードの奥で、悲しげに呟いた。彼女の美しい顔が、街を覆う淀んだ空気に、翳っていくように見えた。
ゼノスは、そんな彼女の様子を気遣いながらも、鋭い視線で周囲を観察していた。
この街は、何かがおかしい。
人々は、よそ者である二人を、ただ遠巻きに見ているだけではない。その視線には、恐怖と、そして諦めが、深く染み付いている。まるで、街全体が、見えざる何かに支配されているかのようだった。
二人は、まず宿を探すことにした。
一番大きな通りにあった、一軒の宿屋の扉を開ける。中は薄暗く、埃と安酒の匂いがした。
「泊まりかい?」
カウンターの奥から、やる気のない、太った主人が顔を出す。
ゼノスが銀貨を数枚差し出すと、主人は、彼の屈強な体つきと、傍らに立つアリアナの、フードを被っていても隠しきれない気品に、一瞬だけ警戒の色を見せたが、すぐに興味を失ったように、汚れた指で鍵を指し示した。
部屋は、粗末なベッドと、壊れかけた椅子が一つあるだけの、狭い部屋だった。
アリアナは、ため息をつくと、ベッドに腰を下ろした。長旅の疲れが、どっと押し寄せてくる。
「少し、休むわ。ゼノ、あなたも…」
彼女が言いかけた時だった。
コン、コン。
部屋の扉を、控えめにノックする音がした。
ゼノスは、無言で剣の柄に手をやり、アリアナの前に立つ。
「誰だ」
彼の低い声には、鋭い警戒が宿っている。
「…あの、旅の方。少し、お話が…」
扉の向こうから聞こえてきたのは、か細い、少女の声だった。
ゼノスは、アリアナと視線を交わし、ゆっくりと扉を開ける。
そこに立っていたのは、ボロボロの服を着た、一人の痩せた少女だった。年の頃は、十三、四といったところか。亜麻色の髪は奔放に跳ね、大きな翠の瞳が、おびえたように二人を見上げている。
しかし、その瞳の奥には、恐怖だけではない、強い好奇心と、そして、どんな汚れも覆い隠せない、非凡な美しさの片鱗が、確かに輝いていた。
「あなたたち、よそ者だね?」
少女は、問いかけた。
「この街には、長居しない方がいい。特に…あなたみたいに綺麗なお姉さんはね」
彼女の視線は、アリアナに向けられていた。
「どういう意味かしら?」
アリアナが、静かに問い返す。
少女は、周囲を気にするように、素早くあたりを見回すと、声を潜めて言った。
「この街は、代官様に逆らうと、消されちゃうんだ。…私みたいにね」
その言葉は、この街に渦巻く、深い闇の存在を、はっきりと示していた。
そして、この名もなき盗賊少女との出会いが、アリアナとゼノスの運命を、再び大きく揺り動かすことになる。
嵐を呼ぶ風は、もう、すぐそこまで迫っていた。




