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第5話:忘れられた民

第5話:忘れられた民

旅を始めてから、ひと月が過ぎようとしていた。

王都から遠く離れたその土地は、もはやアリアナが知る、緑豊かなアストライアの姿ではなかった。


街道は荒れ果て、打ち捨てられた荷馬車が、風雨に晒されて静かに朽ちていく。畑は枯れ、大地は乾ききって、まるで巨大な傷跡のように無残にひび割れている。マナの汚染は、人々の心さえも蝕むのか、すれ違う民の瞳には、何の光も宿っていなかった。


アリアナは、その光景の全てを、自らの紅玉の瞳に焼き付けていた。

(これが…私の国の姿…?王宮で見ていた報告書の、冷たい数字の裏には、こんなにも多くの人々の乾いたため息があったというの…?)

女王としての自分の認識の甘さを、彼女は骨身にしみて感じていた。その美しい顔は、民の苦しみを自らの痛みとして感じるかのように、青白く曇っている。


そんなある日、二人は、地図の上では豊かな農村として記されているはずの、名もなき村に辿り着いた。

しかし、彼らを迎えたのは、収穫を祝う陽気な声ではなく、死が支配する沈黙だった。


村の集会所となっている粗末な小屋では、何人もの病人が、力なく横たわっていた。その中で、アリアナは高熱にうなされる小さな少女を見つけ、思わず足を止めた。痩せこけ、苦しそうな呼吸を繰り返している。その小さな、苦しむ姿が、かつて病に伏した幼いリリアナの面影と重なり、アリアナの心を強く揺さぶった。


「大丈夫、私が治してあげる…!」

「アリア」という偽りの身分も忘れ、彼女は思わず少女の傍らに駆け寄っていた。その声は、女王のものではなく、必死な姉のものであった。アリアナはなけなしの魔力を振り絞り、癒しの魔法を試みる。彼女の白魚のような手のひらから、淡い紅玉色の光が放たれる。


だが、汚染された大地は、彼女の優しい魔法さえも拒絶した。光は弱々しく揺らめくだけで、少女の熱は少しも下がらない。アリアナは何度も、何度も魔法を試みるが、やがて自らの魔力が底を突き、光は儚く消えた。そして、彼女自身もまた、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


「…どうして…?」

掠れた声が、彼女の唇から漏れた。

「私は女王なのに…一人の民も…この小さな命一つさえ、救うことができないなんて…!」

その瞬間、彼女の中で何かが決壊した。アリアナは、美しい顔を悔しさと涙でくしゃくしゃに歪ませ、子供のように声を上げて泣き出した。女王の威厳も、気高さも、今はどこにもなかった。


ゼノスは、そんな彼女の傍らに静かに立った。村人たちの冷たい視線や、少女の母親の絶望した表情から、その小さな背中を庇うように。彼は、慰めの言葉を探す代わりに、ただ彼女の傍らに在ることを選んだ。


(あなたが光であるならば、その光が曇る時、その闇を斬り払い、再び輝かせるのが私の役目。…たとえ、この身が闇に飲まれようとも)


彼はアリアナの前に片膝をつくと、彼女の涙で濡れた手を、自らの革手袋に包まれた大きな手で、そっと、しかし力強く握った。そして、初めて、彼女の目を見てはっきりと告げた。


「…アリア。今は、泣いてください。あなたのその涙は、あなたがこの国の痛みをその身に背負っている証拠。決して、無力などではない」

彼の声は、不器用だが、揺るぎない真実の響きを持っていた。

「…そして、涙が枯れた時、再び立ち上がってください。あなたの剣は、常にここにあります」


アリアナは、ゼノスの言葉と、彼の手から伝わる確かな温もりに、嗚咽を止めて顔を上げた。彼の真摯な瞳の中には、絶対的な信頼と、そして彼女が今まで気づかなかった深い優しさが、静かな湖のように広がっていた。


彼女は、涙を拭うと、握られたゼノスの手を、今度は自ら強く握り返した。

「…ありがとう、ゼノ。…ええ、そうね。私は、泣いているだけではいられない。この子を、この村を、私の国を救うために、私は進まなければ」


アリアナは立ち上がった。彼女の顔にはもう涙はなく、そこには悲しみを乗り越えた、より強く、そして慈愛に満ちた真の女王の顔があった。


二人は、村人たちの複雑な視線を背に、再び歩き出す。

彼らの背負うものはさらに重くなった。しかし、その絆は、かつてないほど強く結ばれていく。この村での三日間は、アリアナの心に、決して消えない傷と、そして女王としての、本当の覚悟を刻み込んだのだった。

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