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第4話:偽りの名と素顔の夜

第4話:偽りの名と素顔の夜

王都の喧騒を後にして数日。アリアナとゼノスは、深く静かな森の中で最初の夜を迎えていた。昼間の張り詰めた緊張が嘘のように、辺りを支配するのは、草むらで鳴く虫の声と、木々の葉を揺らす風の音だけ。心許ない焚き火の光が、二人の若い顔をぼんやりと照らし出していた。


女王アリアナにとって、この世界は発見と戸惑いの連続だった。

「も、もう!どうしてつかないのよ!」

薪を拾おうとして、あつらえたばかりの旅装束の裾を泥で汚し、今度は火打ち石を相手に奮闘している。小さな白い手が、むきになって石を打ち付けるたびに赤く染まっていく。その必死な形相は、玉座で見せる威厳とはかけ離れた、ただの意地っ張りな美少女そのものだった。


ゼノスは、そんな彼女の様子を黙って見ていた。だが、彼女が「いった…」と小さく声をあげて指を擦りむいたのを見て、ついに沈黙を破った。彼は無言で彼女の傍らに膝をつくと、その小さな手から火打ち石を、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと取り上げた。そして、驚くほど手慣れた様子で火花を散らし、あっという間に頼もしい炎を熾してみせた。


「…別に、あなたに頼んだわけじゃないんだからね」

アリアナはぷいっと顔をそむけるが、その耳はほんのりと赤く染まっていた。ゼノスは構わず、手早く携帯食の干し肉と石のように硬いパンを準備し、彼女の前に差し出した。


焚き火を挟んで向かい合い、ぎこちない沈黙の食事が始まる。パチパチと薪がはぜる音が、やけに大きく聞こえた。


「…何よ、このパン。石ころみたいに硬いわ。お肉も塩辛いだけ。王宮の食事とは大違いね」

アリアナが不満げに口火を切った。

「携帯食料としては、これが最上級のものです。腐敗せず、栄養価も高い」

ゼノスは、いつもの調子で事実だけを述べる。


「そういうことを言ってるんじゃないのよ、この石頭!」

アリアनाはそう言い返したが、その声にはいつもの張りがなかった。彼女はうつむき、その紅玉の瞳を不安げに揺らす。やがて、ぽつりと、か細い声が漏れた。

「…怖いのよ、ゼノス。私、本当に国を救えるのかしら。エルードは今頃、私の悪口を吹聴して、民の心を掴んでいるかもしれない。私がここにいる間に、全てが手遅れになったら…」

その声は涙で震えていた。


ゼノスは言葉を失った。戦場で敵を千人斬ることはできても、涙に濡れる十八歳の少女を慰める術を、彼は知らない。何か言わなければ。その一心で彼の思考は空転する。

(陛下が、泣いていらっしゃる…。なんとお声をかければいいのだ。頑張ってください?無責任だ。大丈夫です?根拠がない。私がついています?それは、あまりに…あまりに当然のことだ。…くそ、私は、剣としては一流でも、一人の男としては、何の役にも立たないのか…!)


激しい葛藤の末、彼が取った行動は、自分の分のなけなしの水袋を、黙ってアリアナの前に差し出すことだった。それが、彼にできる精一杯の、不器用な優しさだった。


アリアナはゆっくりと顔を上げた。涙で潤んだ瞳が、差し出された水袋と、ゼノスの苦悩が滲む真剣な顔を交互に見る。そして、彼のあまりの不器用さに、こらえきれずに、ふっと息が漏れた。

「…ぷっ…ふふっ、ありがとう。本当に、あなたって面白いわね」

その笑顔は、花が綻ぶように可憐で、焚き火の光を受けてきらきらと輝いていた。


アリアナが毛布にくるまって眠りについた後、ゼノスは少し離れた場所で夜の見張りに立っていた。彼の意識は、森の闇と、眠る主君の穏やかな寝息に、針のように鋭く集中していた。


不意に、背後で微かな衣擦れの音がした。眠ったはずのアリアナが、静かに起き上がって彼の隣にやってくる。

「…眠れないの」

そう呟く彼女の声は、夜の空気に溶けてしまいそうなくらい、静かだった。

「ねぇ、ゼノス。この旅の間は、私のことを『陛下』と呼ぶのはやめて。…『アリア』と呼んで。あなたのことも、私は『ゼノ』と呼ぶわ。ここでは、私たちはただの旅仲間よ」


「そ、それはあまりに不敬です!私にはとても…!」

ゼノスの全身を、かつてない衝撃が襲った。彼女を、その御名を、呼び捨てに?彼の忠誠心が、その言葉を拒絶して叫び声を上げる。


アリアナは、そんな彼を見て、悪戯っぽく微笑んだ。その笑みは、星の光より魅惑的だった。

「これも『女王命令』よ、ゼノ。…答えなさい、私の剣」


ゼノスはしばらく押し黙り、唇を固く結んだ。激しい葛藤が、彼の内側で嵐のように吹き荒れる。やがて、意を決したように、彼は掠れた声で、しかしはっきりと呟いた。


「…御意。…アリア…様」


最後の最後に「様」をつけてしまうあたりに、彼の最後の抵抗と、どうしようもない生真面目さが滲んでいた。

アリアナは彼の答えに満足そうに微笑むと、「ありがとう、ゼノ」と囁いた。


偽りの名で呼び合うことで、二人の心の距離は、物理的なそれよりも、ずっと近くに感じられた。

焚き火の光が、並んで夜空を見上げる二人の横顔を照らしている。ゼノスは、隣にいる少女の存在を、その温もりを、今までになく強く感じていた。守らねばならない。ただの主君としてではなく、かけがえのない一人の少女、「アリア」を。

彼の心に、新たな、そしてより個人的な誓いが刻まれた。


この静かな夜が、これから訪れる嵐の前の、束の間の安らぎであることを、二人はまだ知らない。

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