第31話:影からの報せ
第31話:影からの報せ
遺跡での穏やかな日々が、数週間続いた。
ゼノスの容態は、一進一退を繰り返しながらも、記憶を完全に失うような深刻な発作は起こさなくなっていた。アリアナと仲間たちの献身的な愛が、彼の魂をこの世にしっかりと繋ぎ止めていたのだ。
そんなある日、アルバスの使い魔であるカラスが、一通の羊皮紙を携えて、再び彼らの元へ舞い降りた。それは、王都でレジスタンス活動を続けるリリアナからの、緊急の報告書だった。
アリアナが羊皮紙を広げると、そこには緊迫した言葉が並んでいた。
『お姉様、ご無事ですか。王都の状況は、もはや一刻の猶予もありません』
リリアナの、以前とは比べ物にならないほど、力強い筆跡だった。
『エルード宰相は、ヴァルカン帝国との軍事同盟を正式に締結。次の新月の夜、ヴァルカン軍を「王国の秩序を守るための援軍」と称して、王都に無抵抗で引き入れるつもりです。それは、事実上の、王国の明け渡しに他なりません』
アリアナは、その一文に、きゅっと唇を噛んだ。想像していた最悪の事態が、現実になろうとしている。
手紙は、続いていた。
『ですが、希望もあります。どこからともなく広まった「紅玉の姫君と黒衣の騎士」の歌が、民の心を繋ぎ止めています。彼らは、お姉様の帰還を信じ、待ち望んでいます。私たちの仲間も、日増しに増えています。…姫様、帰還の準備は、整いつつあります』
手紙の最後は、アルバスの追伸で締めくくられていた。
『…姫様、猶予はない。新月の夜まで、残された時間は、もう十日もない』
王都への帰還。
その言葉の響きが、遺跡の小部屋の穏やかな空気を、一瞬にして張り詰めさせた。
アリアナは、隣に座るゼノスの顔を、祈るような気持ちで見つめた。
彼の体調は安定しているとはいえ、呪いが消えたわけではない。これから始まるのは、これまでの旅とは比較にならない、国全体を巻き込む激しい戦いだ。彼のその脆い魂が、耐えられるだろうか。
彼女の葛藤を見透かしたかのように、ゼノスが静かに口を開いた。
「陛下。参りましょう。私たちの、王国へ」
その声には、一切の迷いもなかった。
「でも…!」
アリアナが反論しようとした、その時だった。
「私も戦う!」
リラが、小さな拳を握りしめて叫んだ。
「もう、アリア姉ちゃんとゼノだけに、危ない思いはさせない!私の歌が力になるって分かったんだもん!私も、二人の傍で、最後まで戦う!」
その翠の瞳は、決意の炎に燃えている。しかし、その美しい顔には、隠しきれない恐怖の色も浮かんでいた。彼女は、自らを奮い立たせるように、必死に声を張り上げているのだ。
アリアナは、そんな健気な妹のような少女の頭を、優しく撫でた。
その紅玉の瞳は、慈愛に満ちていた。
「ありがとう、リラ。あなたのその気持ちが、何より嬉しいわ」
彼女は、リラの肩を抱き寄せると、その耳元で、静かに、しかし、女王としての厳しさをもって諭した。
「でも、あなたの戦場は、ここではないの」
「え…?」
リラは、戸惑いの表情を浮かべる。
「リラ。あなたは、私たちの物語を歌い継いでちょうだい。もし、私たちに何かあっても、真実が失われないように。何が起こったのか、誰が国を愛し、誰が国を裏切ったのか、それを歌にして、未来永劫、人々に伝え続けてほしいの」
アリアナは、リラの両肩を掴み、その瞳をまっすぐに見つめた。
「それが、あなたの戦いよ。私たちにしかできない戦いがあるように、あなたにしかできない戦いがある。…分かるわね?」
リラの美しい顔が、悔しさと、そして自らの使命の重さを理解したことで、くしゃりと歪む。大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「…うん。…分かったよ、アリア姉ちゃん」
彼女は、涙を拭い、力強く頷いた。
アリアナは、そんな彼女に優しく微笑むと、今度はゼノスに向き直った。
「ゼノ。あなたも、いいのね?」
ゼノスは、深く、そして静かに頷いた。
「私は、陛下と共に在ることで初めて完成する、王国の剣。この命、とうにあなた様に捧げたものです」
彼の瞳には、アリアナへの絶対的な信頼と、そして、共に死地へ赴くことへの、揺るぎない覚悟が宿っていた。
アリアナは、大切な仲間たちの顔を見渡した。
一人は、自らの命運を、その魂の全てを、自分に預けてくれた騎士。
一人は、自分たちの物語を、未来へと繋いでくれる、希望の歌い手。
そして、その後ろには、静かに頷く、賢者と狩人の姿があった。
彼女の美しい顔に、迷いはなかった。
「行きましょう。私たちの故郷へ。…全ての決着を、つけに」
女王の決意。騎士の覚悟。そして、仲間たちの誓い。
一行は、それぞれの戦場へと向かうため、最後の準備を始めた。
王都への、最後の旅路が、今、始まろうとしていた。




