第3話:二人だけの旅立ち
第3話:二人だけの旅立ち
窓の外が瑠璃色に染まり始める、夜明け前の静寂。アリアナは執務室の硬い椅子に座り、目の前に置かれた二通の羊皮紙を静かに見つめていた。
一つは、国王の印が押された公式の勅命。
女王アリアナは、マナの源流を浄化する王家の儀式のため、王家の谷に長期にわたり籠る、と。そして、その間の国政は、摂政として宰相エルードに一任する、と。
(エルード…あなたに国を預けるなど、毒蛇に我が子を預けるようなものよ)
アリアナは内心で毒づいた。しかし、これしか道はなかった。あの狡猾な狐を表舞台に引きずり出さなければ、その牙を折ることもできない。
(許して、民よ。私が必ず、あなたの光を取り戻しに戻ってくるから)
もう一通は、彼女の繊細な筆跡で書かれた、小さな手紙。宛名は、従妹のリリアナ。
彼女は、これから始まる長い偽りの始まりを前に、静かに、そして深く、息を吸い込んだ。
夜が明けると、アリアナの「儀式」への出発が、王宮全体に厳かに宣言された。
儀式用の簡素だが気品のある純白のドレスを身に纏い、アリアナは貴族たちの前に立つ。その美しい顔には、旅の無事を祈るための、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
その傍らには、騎士団長の正装に身を包んだゼノスが、いつもと変わらぬ沈黙で控えていた。
宰相エルードは、芝居がかった仕草でアリアナの前にひざまずき、涙ながらに叫んだ。
「陛下、どうか御身をお大切に。このエルード、命に代えましても、陛下がお戻りになるまで王国をお守りいたします!」
その完璧な忠臣ぶりに、貴族たちの中から感動のため息すら漏れた。
アリアナは、その茶番を氷のように冷たい瞳で見下ろしながら、一瞬だけ、傍らに立つゼノスに視線を送った。ゼノスもまた、アリアナの瞳に宿る怒りと決意を読み取り、静かに頷く。言葉はいらない。「あの狐を、必ず討つ」――二人の間には、沈黙の誓いが交わされていた。
やがて、アリアナ(実際には、彼女の侍女が身代わりを務めている)を乗せた公式の豪奢な馬車が、騎士たちに護衛され、「王家の谷」へと向かって、華々しく出発していった。
その夜。
王宮が、偽りの儀式の成功を祈る静けさに包まれる頃、アリアナは自室で、粗末だが動きやすい旅装束へと、その身を替えていた。
彼女は、人目を忍び、従妹リリアナの部屋を訪れた。
まだ十五歳。少女の面影が濃い従妹は、これから起こることを理解できずに、不安げな瞳でアリアナを見上げている。
「リリアナ」
アリアナは彼女の冷たい手を、自らの両手で強く握った。
「私は病の療養に行くのではありません。エルードの陰謀を暴き、国を救うための旅に出るのです。あなたは、私の代わりにこの王都で『目』となり『耳』となって。私が信頼する者たちと連絡を取り、エルードの動きを監視してちょうだい」
その言葉は、あまりにも重い密命だった。リリアナの顔が恐怖と重圧に青ざめていく。
「お姉様…私なんかに、そんな大役は…」
大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
アリアナは、そんな彼女を優しく抱きしめた。その温もりは、女王のものではなく、ただの姉のものだった。
「あなたならできるわ。あなたは私と同じ、アストライアの血を引く者なのだから。信じているわ、リリアナ」
その言葉は、リリアナの心に、小さな、しかし確かな勇気の火を灯した。
アリアナは、王宮の裏手にある、打ち捨てられた古い通用口へと向かった。そこは、事前にゼノスと打ち合わせていた、合流地点だった。
扉を開けると、そこには、既に旅装束に着替えたゼノスが、馬を二頭引き、夜の闇に溶け込むように、静かに待っていた。
二人はフードを目深に被ると、夜陰に紛れて、王都の城門を目指した。
雑踏の中、衛兵に呼び止められるという、ひやりとする場面もあった。しかし、ゼノスがわざとらしく銀貨の入った革袋を地面に落とし、衛兵がそれに気を取られた一瞬の隙に、二人は人混みの中へとその姿を消した。
無事に城門を抜け、王都を見下ろす丘の上で二人は足を止めた。
眼下には、無数の灯りがまたたく、美しくも今は偽りの平和に眠る故郷が広がっている。風がアリアナのフードをさらい、緋色の髪が月明かりにきらめいた。
「…さようなら、私の王国」
その声は、決意に満ちていた。
「必ず、あなたの光を取り戻しに戻ってくるわ」
ゼノスは、そんな彼女の美しい横顔を見つめ、心の中でだけ誓った。
(ええ、必ず。この剣にかけて)
二人は、もう振り返らなかった。
ただ、これから始まる長く過酷な旅路の先にある、かすかな希望だけを見つめて。
北へと向かう闇の中へ、確かな一歩を踏み出した。