第2話:黄昏の決意
第2話:黄昏の決意
夜の闇は、王宮の喧騒を優しく飲み込み、世界に静寂を取り戻していた。しかし、女王アリアナの執務室だけは、その恩恵を受けることなく、魔法灯の柔らかな光が書類の山を照らし続けていた。
謁見の間の華やかなドレスから、動きやすい白絹の部屋着へと着替えたアリアナの姿は、女王というよりも、少し背伸びをした美しい少女といった方がしっくりくる。まとめきれなかった緋色の髪が、疲労でわずかに傾いだ彼女の白い首筋に、はらりと流れ落ちた。その無防備な姿は、日中の完璧な女王像とはまた違う、儚くも可憐な魅力を放っていた。
「まただわ…」
小さな、吐息のような呟きが、静かな部屋に落ちる。彼女の紅玉の瞳が映しているのは、地方領主から送られてきた羊皮紙の報告書。そこには、彼女の心を抉るような言葉が並んでいた。
「どの地方も軒並み不作。まるで土地そのものが力を失っているみたい…」
まるで王国の生命力が、目に見えない何かによって吸い上げられているかのよう。原因不明の凶作と病。民の嘆きが、紙の向こうから聞こえてくる気がして、アリアナはぎゅっと唇を噛んだ。
部屋の隅、影の中に立つゼノスは、そんな彼女の全てを見守っていた。彼女がペンを走らせる微かな音、時折こぼす小さなため息、苦悩に細められる眉。その一つ一つが、彼の聴覚と視覚を支配していた。「お休みください」――その一言を進言することさえ、今の彼女の張り詰めた集中を妨げるようで、彼はただ沈黙の守護者であり続けるしかなかった。
その静寂を破ったのは、壁にかけられたタペストリーの裏から聞こえた、ほとんど音のしない気配だった。隠し扉が開き、フードを深く被った老人が姿を現す。王家に代々仕える筆頭魔術師、アルバス。かつては「白の賢者」と謳われた彼も、今の王宮では日陰者のような存在だった。
「陛下」
アルバスの声は、囁くように低い。彼はアリアナの前に進み出ると、衝撃の事実を告げた。
「これはただの不作ではございません。何者かが、王国の生命線である『マナの源流』に、微量ながらも強力な呪毒を流しております。このままでは、半年も経たずにアストライアの大地は完全に生命力を失い、死の土地と化すでしょう」
アリアナの顔から、さっと血の気が引いた。民の苦しみの原因が悪意ある者の仕業だと知り、彼女の可憐な顔立ちは、怒りと絶望に歪む。
「誰が…何のためにそんなことを…!」
打ち震える声は、かろうじて言葉の形を保っていた。
その瞬間、部屋の隅で影と化していたゼノスの気配が、一変した。穏やかな執務室の空気が、まるで真冬の刃のように凍りつく。彼の全身から放たれた静かな殺気は、王国を蝕む毒が、そのまま主君を蝕む毒であると告げていた。
翌日、緊急招集された貴族院は、重苦しい空気に満ちていた。
アリアナはマナ汚染の事実を伏せたまま、対策を議論しようと口を開いた。しかし、それを遮るように、宰相エルードが立ち上がった。
「民の苦しみは、若き女王陛下の徳が天に通じていない証拠!我々貴族院が国政を主導し、この国難を乗り越えるべきです!」
その声は、女王を憂う忠臣のそれとは程遠い、野心に満ちた扇動だった。エルード派の貴族たちが次々と同調の声を上げ、アリアナは玉座の上で完全に孤立した。
(エルード…あなただったのね…!)
彼女は、呪毒の犯人が彼であると確信した。だが、証拠がない。ここで彼を糾弾すれば、逆に混乱を招くだけ。アリアナは、悔しさに震える手をドレスの下で強く握りしめた。彼女の紅玉の瞳が、怒りの炎で赤く燃え上がる。しかし、その美しい顔は、一片の動揺も見せない氷の仮面で覆われていた。
その夜、アリアナは一人、王宮の地下深くにある禁書庫にいた。王家の者しか入れない、古文書の埃とインクの匂いが支配する場所。魔法灯の心許ない光が、彼女の孤独な影を長く伸ばしている。
通常の方法では間に合わない。彼女は最後の手段を探して、何時間も書架の間を彷徨い続けた。インクで汚れた指先が、古びた革の装訂をなぞる。そして、ついに一冊の本を見つけ出した。その表紙には、禍々しくも人を惹きつけてやまない、複雑な紋様が描かれていた。
ページをめくる彼女の唇から、言葉が漏れた。
「…アーク・マギア…禁断の魔法…。世界の理を書き換え、奇跡を具現化する力…。でも、その代償は…術者の、魂…」
その言葉は、絶望であり、同時に唯一の希望だった。
疲れ果てた体を引きずるように禁書庫から出ると、扉の前にはゼノスが微動だにせず立っていた。彼女が禁書庫に籠っている間、ずっと、ただひたすらに、そこで見守っていたのだ。彼のその無言の忠誠が、アリアナの張り詰めていた心を揺さぶる。
「陛下。どのような決断をなされようと、私の剣は常にあなた様と共にあります」
彼の揺るぎない、静かな声。それが、最後の引き金だった。アリアナの瞳から、こらえきれなかった一筋の涙が、雪の頬を伝って落ちた。彼女はそれを隠すように乱暴に顔を背けると、意を決して彼に向き直った。涙の跡が、彼女の美しさをより一層、痛ましいほどに際立たせている。
「ゼノス。私は…この国を救うため、禁断の魔法を求めます。それは、私の魂を賭ける危険な旅になるわ」
彼女の声は、微かに震えていた。だが、その瞳には、女王としての覚悟の光が宿っていた。
「それでも…あなたは、私の剣でいてくれる?」
ゼノスは、何も言わなかった。
ただ静かに、その場に片膝をつくと、彼女が差し出した小さな、震える手に、自らの額を恭しく寄せた。その甲冑越しの、確かな温もり。それが、彼の絶対的な肯定であり、永遠の誓いの全てだった。
黄昏に染まる王国の未来を背負い、二人の旅が、今、始まろうとしていた。