第1話:紅玉の女王と沈黙の騎士
第1話:紅玉の女王と沈黙の騎士
陽光は、まるでこの一室を祝福するかのように、ステンドグラスを通して七色の光の帯となり、磨き上げられた大理石の床に幻想的な模様を描き出していた。
アストライア王宮が誇る謁見の間。その荘厳な空間の全ては、玉座に座す一人の少女のために存在しているかのようだった。
若き女王、アリアナ・フォン・アストライア。
まだ十八歳という若さでありながら、彼女がそこに座すだけで、歴史の重みを持つこの広間さえもが彼女の引き立て役に甘んじる。
陽光を吸い込んで燃えるような緋色の髪。宝石の名を冠するにふさわしい、吸い込まれそうなほど深い紅玉の瞳。そして、人間離れした雪のように白い肌。その完璧すぎる造形は、熟練の職人が生涯をかけて彫り上げた最高傑作の人形のようであり、神々しさのあまり、直視することすら憚られた。
「公爵閣下のお心遣い、痛み入ります。我が国も、貴国との友好をさらに深められることを願っておりますわ」
隣国ヴァルカンからの使節である公爵が、ねっとりとした視線と共に投げかけた皮肉めいた祝いの言葉に、アリアナは完璧な微笑みで応えた。その声は鈴を転がすように愛らしく、しかしその響きには、決して侮りを許さない鋼の意志が宿っていた。公爵は一瞬たじろぎ、慌てて視線を逸らす。その圧倒的なカリスマは、彼女の美貌が決して飾りではないことを、その場にいる全ての者に知らしめていた。
その玉座の斜め後ろ、影が生み出すわずかな闇に溶け込むように、一人の騎士が佇んでいた。女王直属護衛騎士団長、ゼノス。歴戦の傷が刻まれた漆黒の甲冑は、まるで彼の沈黙を象徴しているかのよう。集まった誰もが女王の美貌に心を奪われる中、彼の視線だけは、ただ一点、主君であるアリアナの華奢な背中に注がれていた。
(今日も陛下は、陽の光そのものだ。だが、その光はあまりにも強く、そして脆い…)
ゼノスの冷静な仮面の下で、熱い思いが渦巻いていた。
(…隣国の公爵め、陛下の御前で不敬な視線を…。この王宮には、狐も狼も多すぎる。万が一のことがあれば、この場で斬り捨てるまで)
それは単なる忠誠心ではない。自らの光を汚そうとする者への、静かだが烈火の如き怒りだった。
謁見が終わると、アリアナはゼノスだけを伴って私的な執務室へと足を向けた。重厚な扉が閉まり、二人だけの空間になった瞬間、それまで彼女を覆っていた女王という名の光のヴェールが、はらりと剥がれ落ちる。
「はぁ…疲れた!」
アリアナは大きく息を吐き、玉座での完璧な姿勢が嘘のように、豪奢な椅子にどさりと身を沈めた。ピンで留められていた緋色の髪を無造作にかき乱し、その仕草はまるで気まぐれな猫のようだ。
「なんなのよ、あのキツネ目の公爵!私のドレスの刺繍の数を数えるみたいな、嫌らしい目で見てきて!本当に首を刎ねてやろうかと思ったわ!」
ぷんぷんと頬を膨らませるその姿は、先程までの威厳ある女王とは似ても似つかない、年相応の愛らしい少女そのものだった。ゼノスはそんな彼女の乱暴な言葉にも表情一つ変えず、無言でティーカップの準備を始める。その手つきは、剣を振るう時と同じく、正確無比だ。
「…何よ、あなたも何か言いなさいよ!私の愚痴を聞くのも、あなたの仕事でしょう?」
拗ねたように唇を尖らせ、アリアナがゼノスを睨めつける。その紅玉の瞳には、からかいの色が浮かんでいた。
「陛下のお言葉は、全て拝聴しております。公爵の首については、陛下が本気でお望みであれば、即座に実行に移す準備がございます」
あまりにも真面目な、そして恐ろしい返答に、アリアナは一瞬ぽかんとした後、吹き出した。
「本気で言ってるわけないでしょう!?この石頭!融通が利かないにもほどがあるわ!」
けたけたと笑う彼女の声が、静かな執務室に響く。ゼノスはそんな彼女を僅かに困惑した表情で見つめていたが、その口元がほんの少しだけ緩んでいることに、アリアナは気づいていた。
書類の山を前に、アリアナの機嫌は再び急降下する。「もう、こんなの見たくない…」と呟いた拍子に、はずみでインク瓶に肘が当たった。倒れかけたそれを、驚異的な速さでゼノスが支える。その刹那、アリアナの白魚のような指先と、ゼノスの漆黒の甲冑に覆われた手が、かすかに触れ合った。
「なっ…!」
びくっと肩を震わせ、アリアナの頬が一気に朱に染まる。「ご、ごめんなさい…」
ゼノスもまた、雷に打たれたかのように全身を硬直させていた。甲冑越しのはずなのに、彼女の指先の柔らかさと温もりが、まるで彼の心臓を直接掴んだかのように感じられたのだ。
(陛下のお手に触れてしまった…!不敬だ…!万死に値する…!しかし、なぜだ、この胸の高鳴りは…!?)
彼の内心は、警報と甘い鐘の音が入り乱れて鳴り響いていた。
「…お怪我は、ございませんか、陛下」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
そんな緊迫した空気を破ったのは、控えめなノックの音だった。
「陛下、宰相のエルードでございます。ご様子を伺いに参りました」
宰相エルードが、穏やかな笑みを浮かべて入室してきた。しかし、その細められた目の奥は、部屋の僅かな乱れと、二人の間の不自然な空気を値踏みするように光っている。
「陛下、ご無理なさらないでください。国事は我々臣下にお任せを。…特に、ゼノス騎士団長。貴殿は先日のゴブリン討伐の任務で、多くの部下を失ったと聞く。そのような心の傷を抱えたままでは、陛下の護衛という大任、些か重すぎるのでは?」
エルードは、アリアナを気遣うふりをしながら、巧みにゼノスの過去の傷を抉り、その資格を問う。
ゼノスの表情が、一瞬だけ、凍りついた。
アリアナは即座に女王の仮面を被り直し、その紅玉の瞳に氷のような光を宿した。
「宰相の心遣い、感謝するわ。けれど、私の剣はゼノスただ一人。彼の過去がどうであれ、彼以上に信頼できる騎士は、この国にはいないの」
きっぱりとしたその声には、一切の揺らぎもなかった。エルードは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの笑みに戻り、「それは失礼いたしました」と深く頭を下げて去っていった。
宰相が去った後、部屋には再び静寂が訪れた。
アリアナは窓辺に立ち、夕闇に染まり始めた王都を見下ろす。その小さな背中は、この広大な王国全ての重圧を一人で背負っているようで、ひどく儚げに見えた。
「…この国を…守れるのかしら、私に…」
か細い、誰にも聞かせるつもりのない呟き。
それを、ゼノスは聞き逃さなかった。彼は無言で彼女の隣に並び立つ。そして、窓の外の王都ではなく、窓ガラスに映るアリアナの愁いを帯びた美しい横顔を、ただじっと見つめていた。
アリアナは彼の視線に気づいていたが、何も言わなかった。
言葉はいらない。ただ、彼が傍にいる。それだけで、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じていた。
ゼノスは、胸元の甲冑の下、肌に直接触れるように下げている古い紅玉のペンダントを、無意識に、しかし強く握りしめていた。
(必ず、お守りいたします。この命に代えても。…あの日、あなた様からこの光をいただいた時から、私の全ては、あなた様のためにあるのですから)
夕暮れの光が、窓辺に立つ二人の影を長く、そして一つに重ねていた。
王国の黄昏は、まだ始まったばかりだった。