ノロウイルスくん、君はいつもそうだ
最初に君と話したのは、僕達が海の幸を食べた時だった。
僕達はそれまで、生まれてから一度も、生の二枚貝というものを食べたことがなかった。
僕達の、僕達という組織の統括が、皆のためにその二枚貝、いわゆる生牡蠣を買ってきて、食べたんだったよね。
あれは美味しかったらしい。ポン酢も良かったけれど、塩とレモン汁とタバスコを混ぜ合わせた合わせ調味料に漬けて食べるのが良かったそうだ。タバスコが牡蠣に使うことを想定して作られた香辛料だということを痛感したんだってさ。味を感じる部門の人達から聞いたよ。
そんな折にだ。君はいつからともどこからともなく、僕達の中に紛れ込んでいたよね。当たり前のようにそこにいるものだから気付くのに時間がかかったけれど、君は僕達一人一人と比べても異常に体が小さかったし、なんか刺々しい見た目をしていたし、すぐに異物だということはわかった。
そこからはもう大変さ。君はある程度、食物が歩む『道』を先へ先へと進んで行っていたから知らないだろうけれど、その『道』の最初のほうの部分なんてもう慌ただしくてね。すぐに、そこよりも入り口のほうに近い側にあった全ての食物を、僕達は一生懸命、追い返していたんだよ?意味があったのかどうかはわからないけれど。
それでその後は、僕達も必死に熱を出そうとしたりして、体のどこかにはいるであろう君達が不利になる環境を作った。『道』からも、なるべく僕達の中に物が入ってこないようにし続けた。マニュアル通りにね。
僕達はマニュアル通りにしか動けない。
必ずしも合理的に働くとは限らない。
自己免疫疾患ほどではないにしろ、本当に僕達にとってはいい迷惑だったんだよ?
ねえ、ノロウイルスくん。
君はさ、今言った話を覚えているかい?
今のは1年前の話だよ。
それで今年になって、今度は多少加熱した牡蠣を少しだけ食べて、それでどうして君がまた、僕達のところに来ると言うんだい?
思い出のままが良かったよ。
正直、君の顔は二度と見たくなかった。
言うまでもなく、君の顔は覚えていたさ。
僕達も、君に二度と会わないように祈るばかりではない。君が次に来た時に備えて、武器を用意してはいた。
だけれどそれは所詮、悪い思いが少し悪い思いに変わるだけのことだ。君の所為で、僕達の予定も何もかもが狂ったんだ。
君はいつか、冗談めかしてこんなことを言ったね。
『お前と俺は、赤い糸で結ばれている』………
冗談じゃない。
何が赤い糸だ。それが黒い糸だろうと白い糸だろうと青い糸だろうと、そんなのは本当に御免だよ。
君はね、悪質極まりないんだ。
いないほうが良いんだ。
死んだほうが良いんだ。
でも。
僕は馬鹿だ。
僕は愚かだ。
そんな君に、恋をしてしまったのだから……
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お前らはさあ、異物を異物だからという理由だけで十把一絡げに嫌悪するけどさあ、一体全体、どうしてそんなに排他的なんだ?」
僕と向き合う彼は、へらへらと笑いながら言う。
「ちょっとその辺の奴らの体内に入り込んで、居候させてもらうだけじゃねえか」
「抜かせ。ある程度居候したらその人の体を爆裂させて、殺してしまうだろうに。何が居候だ、立派な殺人鬼だよ君は」
「かっかっか。バレたか」
悪びれず、ノロウイルスくんは答える。
「でもよぉ、おや?妙だなあ。そんな殺人鬼である俺の存在を、どうしてお前はお仲間さんどもに警告しないんだぁ?」
「それは……」
「おいおいどうしたよ、耳が赤らんでるぜ?」
「黙れ。今すぐにでも、僕は君の存在を仲間に知らせても良いんだぞ?君がこうしてのんびりと喋っていられるのは、誰のお陰だと思っている?立場を弁えろ」
「いやいや、それを言うなら、俺は今すぐお前の体の中に入り込んで、寄生してやっても良いんだぜ?立場を弁えるのはどっちだかな」
「僕はここで死んでも構わない。僕が死ねば、すぐに他の奴らが来てそれを全体に知らせる。所詮は37兆人のうちの一人だ。変わりはいくらでもいる」
「そうかそうか。俺にはお前が、別の理由で俺に殺されても良いと思っているように見えてならないんだがな」
「何を…」
……と。
彼は急に、恍惚とした笑みを浮かべて。
「お前、俺のこと好きなんだろ?」
「っ!!!」
妖艶な声で、僕にそう言った。
訳がわからない。
何故。
何故、気付かれている?
「いやいや、わかりやすいんだよなお前は。前に来た時、俺を異物として発見したのもお前だった。それはお前が、俺のことが気になってジロジロ見ていたからだろう?やらしいなあ」
「……」
戯言を、と言い返せない。
悲しいくらいに図星なのだ。
「いやあ、俺も俺で相当に勘が良いよな。俺とお前は男同士だってのに、そういう視線に気付くなんてな。かはっ」
「…黙れ」
「おーう、どうしたよ?顔が赤いぞー?」
「………!!!」
苦し紛れだった。
図星を突かれたこと、自分の恋心を見透かされたこと……とにかく、僕はどうにかして、この状況を打開したかった。
「緊急事態!ウイルスが体内に侵入した!」
僕は、無線機に叫ぶ。
「うおっと、そう熱くなるなよ〜」
それに対して彼は…ノロウイルスくんは、僕の前から走り去って行った。逃亡を図ろうというのだろう。
「奴は現在逃亡中!貯蓄槽の方に逃げた!」
貯蓄槽。養分を貯蓄したり、毒物を分解したり、一部の消化液を作ったりする万能の器官だ。
そっちに行かれるのはまずい。
「了解。お前は無事なのか?」
「ああ。無事だ」
無線の先の、駆除係の人員と問答する。
とにかく僕はひとしきり、免疫系の器官に連絡を終えて、自分は避難することを勧められた。
彼奴の駆除は、駆除係の連中がやってくれる。
僕の仕事ではない。僕の仕事は、物資を各区域に届けて回るだけだ。僕は、彼の駆除には加担しない……
「………」
うん。僕は馬鹿だ。
愚か者だ。
何をしに行くという訳でもなく、彼の、ノロウイルスくんの後を追いかけるために、駆け出してしまったのだから。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おい、ここは危ないぞ!避難しろ!」
駆除係の連中が、僕に呼びかける。
その向こうには、既に他の人員に寄生して増殖し始めた、ノロウイルスくんが見えた。
「僕も戦う」
「はあ?お前は運搬係だろ!下がってろ!」
「腕に覚えはある方だよ」
「ちょっと…!」
駆除係の制止を振り切って、僕は彼の前に立つ。
「ノロウイルスくん。君を殺す」
言いながら、その辺で拾ってきた槍を構える僕に対して、彼はへらへらと笑みを浮かべながら言う。
「かっかっか。何て熱烈な野郎だ」
彼は、人質を捕るかのように僕と同じ運搬係の女の子の体内に入り込み、完全に寄生していた。
だが、人質が何だと言うのだ。
「ふんっ!」
「うおっ」
寄生されている運搬係の女の子には一切構わず、躊躇も容赦も無く、僕は槍を繰り出した。
「仕方ない、かかれ!」
駆除係の面子も、僕の後に続く。
運搬係である僕が先陣を切ったという、何とも異様な状況ではあるが、居合わせた全員でノロウイルスくんに飛びかかった。
「おっと!危ねえ危ねえ」
しかし彼は冷静に、寄生している運搬係の女の子の体を爆裂させて、通りかかった別の人を目がけて飛んで行ってしまう。
言い忘れていたが、駆除係の連中は僕達のような運搬係に『下がっていろ』などと言うけれども、この世界においてそれに従う運搬係はいない。
だから僕に限らず、他にも運搬係の奴らが普通に来ているのだ、この場には。
「けへへ!そんなのろまな動きでこの俺を捉えられると思うなよ?駆除係の皆さんよお!」
「……囲め!囲んでしまえばこっちのものだ!」
駆除係のうちの一人がそう言う。
駆除係の連中は、僕のように武器を使って戦う訳では無い。武器など必要とせず、自らの体内に異物を取り込むのだ。
元々、ウイルスというのは僕達の中に入り込むことで寄生してくる病原体であるが、駆除係の連中の体内に入り込んでしまうのは、だから自殺行為なのである。
つまり、ノロウイルスくんは駆除係の連中をすぐには攻撃できない。攻撃するとしたら、もっと沢山の細ぼ…人員に寄生しまくって繁殖しまくってからだが、今はまだその段階にはない。
「おい!言い間違いには気を付けろ!」
「すまん」
余裕をこいてはいるが、このノロウイルスくんは今、普通にピンチなのである。
「だから、のろまだって言ってんだよ!」
ピンチであった筈だ。
誤算…と言う程に想定外でもなかったのだが、問題は彼が、白血…ゲフンゲフン、駆除係の連中よりも足が速かったという点にある。
「くそっ…!囲みきれない!」
囲んでしまえばこちらのもの。
しかし、囲めなかった。
「回り込め!なるべく移動させるな!」
「おお怖。俺をこの場に食い止めて、キラーTの連中の到着を待とうってか?怖いねぇ…お前らみーんな、自分達はどうなっても構わないって顔してやがる」
逃げ回りながら、しかして余裕の態度を崩さないノロウイルスくんは、相変わらず訳のわからないことを言っているが。
「ノロウイルスくん、一つ良いかい?」
僕はそこで、彼に話しかける。
「あん?何だよ、運搬係の兄ちゃん」
走りながら、彼は首だけ振り返って答えた。
「駆除係の彼らや、キラーTの連中に殺されるのは痛いぞ。とても苦しいぞ。いずれにせよ、この生体の免疫力は決して弱くない。君はいずれ必ず駆除され、駆逐され、排除されるに決まっているんだ。だから一つ提案しよう」
僕は、ありったけの気力を振り絞って言う。
赤面しながら、然るに穏やかな表情で。
「僕に殺されてくれないかい?」
「……はっ」
無理な事かも知れない。
僕が今持っているのは、槍の一本だけだ。
槍の名前はIgX。この槍は一刺しすれば相手と同化して相手を無力化するのだが、その反面使い捨てで、ただの一本では心許ない。ノロウイルスくんは今や、何十体、何百体という数にまで分裂しているというのに、こんな得物だけで全滅させることは不可能だ。
だが……
「なるほどねえ。それが、あんたが運搬係でありながら、俺と戦いに来た理由か。けっけっけ、熱烈だね」
白状しよう。
告白しよう。
僕は、彼のうちの一体でも自分の手で殺すことができれば、それで良かったのだ。
それは彼に対する、あるいは彼に恋してしまった自分に対する、決別のためであり。
そして、彼に対する……恋の告白のためであった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「なあ、運搬係の兄ちゃん。一つ、クイズを出してやろう」
駆除係の連中が他のノロウイルスくん達を相手している中で、そのうちの一体、僕の手にした槍に腕を貫かれたノロウイルスくんが言う。
「何だい?『良いぜ、やれよ』と言ったのに、どうして僕の攻撃を腕でガードしたのでしょうかというクイズかい?」
「違えよ。それは今こうして、お前にクイズを出すための時間稼ぎじゃねえかよ、馬鹿野郎」
僕は、ノロウイルスくんの胸を狙って突いた。そうすれば、彼の中にある核がすぐに槍と同化して、彼が早く絶命するからだ。なるべく苦痛を与えたくなかった。
彼も観念したかのように『良いぜ、やれよ』なんて言うものだから、てっきり大人しく胸を刺させてくれるのかと思って突いた僕だったが、しかし彼は素早く腕を差し出してきて、僕の槍をガードしたのだった。
彼の腕は槍に貫かれ、そこから少しずつ、彼の全身に同化が広がり始めてはいるものの、まだ彼の核までは槍と同化していないようで、彼は喋り続けている。
「俺は何故、あの時お前に寄生しなかったと思う?」
「…あの時、とは?」
「ほら、お前が俺に図星を突かれて、お仲間さんに俺の存在を報せた時だよ。あの時俺は逃げたが、よくよく考えてもみろよ、お前がお仲間さんを呼んだ瞬間、俺はお前に襲いかかって寄生してやっても良かったんだぜ?」
「それがクイズか」
言われてみれば、確かにそれもそうだった。
というより、そうでなければおかしい。ノロウイルスくんは、『もし仲間を呼んだら、その瞬間お前を殺すぞ』という風な脅しをすることで場の拮抗を保とうとしていた筈だし、冷静になって思い返してみれば、あの時の僕はあまりに躍起になるあまり、あまりにも愚かなことに、もはやノロウイルスくんにここで殺されてしまってもあまり構わない、いやむしろそうしてくれなければあまりにもあんまりだというくらいの勢いで、他の皆に警報を出した。
あの時は僕も冷静ではなかったから自覚できなかったけれど、今は思い出せる。あの時、ノロウイルスくんが逃げ出したあの時、僕の胸の裡に生じた拍子抜けのような違和感を。
「さあ……何でだろうね。脅しっていうのは、実際にはやらないことを言うからこそ意味がある…みたいな?」
「何だよその戯言は。理由になってるか?それ」
「それなら……君のことだから、どうせアレだろう、その時の気分で、何となく逃げたくなったからっていうオチだろう」
「気分屋なのは否定しねえが、俺の風評も大概悪いな。そんな身も蓋も無い問答を、最後の最期にするような奴だと思われてんのかよ、俺は。そろそろ当ててくれや、もうすぐ死んじまう」
「そう言えば、『死んじまう』と『死んぢまう』は、どちらのほうがより厳密に正しい綴りなんだろうね?」
「いいから早く答えろや」
「うーん、じゃあ何だろうね。君が本当は、僕を大切に思ってくれていたってことなのかな?あはは」
「かかか。冗談きついぜ」
「だよね」
「ま、正解だけどな」
「……え?」
え?
「なあ、運搬係の兄ちゃん。前に俺の分身がここに来た時、お前にこう言ったらしいな。『俺とお前は、赤い糸で結ばれている』と。あれは決して、全てが冗談や皮肉のつもりだった訳じゃあねえんだぜ?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「お前はやっぱり馬鹿だよ。もしくは鈍感と言うべきか」
「い、一体、何を」
「なんでお前の片想いだと勘違いしてたんだ?」
まさか。
馬鹿な。
そんな、そんなことが。
こんな……こんな……!
「お、思わせぶりな発言をして、僕を揶揄おうっていうつもりなんだろう!?君はまだ、はっきりとは言っていない!僕が、僕のことが……す、好きだとか、僕に、こっ、恋を……とか、そんなことは一言も言って…!」
………!
………嗚呼。
「……ノロウイルス、くん?」
彼からの返事は、二度と無かった。
彼はもう既に、核まで槍と同化して、絶命していた。
「…!!!」
僕は振り返った。
彼はふざけた性格の男だ。あんなことを言っておいて、別に僕のことが好きだったということを明言した訳ではないぜ、何を勘違いしているんだプークスクスとかっていう展開もあり得る。だから、本当に彼の真意はわからない。
これで終われるものか。せめて、駆除係の連中が今相手している他のノロウイルスくん達に、訊いてみなければ……
「どうして……どうしてだよ……」
しかし、悲しい哉。僕が振り返った時、そこにはもう既に、ノロウイルスくんも駆除係の連中も、生き残っている者は一人もいなかった。
まさかこれでノロウイルスくんが全滅したという訳ではなかろうが、僕達が話し合っている間に、彼らの中で生きている者達は、戦いながらどこか遠くへ移動してしまっていたらしい。
「くそ…!くそ…!」
こんな、こんな終わり方があるのか?
こんな幕引きがあって良いのか?
こんな、こんな……生殺しで。
僕も寿命が近いから、再会も望めないというのに。
これで、終わるのか?
「ノロウイルスくん、君はいつもそうだ」
僕は、動かなくなった、物言わぬ彼の顔に触れて言う。
「君はいつも、死と生の絶望を与えてくれる」
(終)