夜恋
駅のホームに立つたび、彼女は夜の匂いを思い出す。電車の軋む音と、遠くで鳴る踏切の単調な響きが混ざり合い、湿った空気に溶け込んでいく。東京の夜はいつも少し冷たくて、少し寂しい。彼女の名前は美咲。28歳で、出版社の編集者として働く平凡な女性だ。でも、彼女の心には、夜にだけ蘇る記憶があった。
彼と出会ったのは3年前の秋だった。会社の飲み会が終わり、終電を逃した美咲は仕方なくタクシー乗り場に向かっていた。雨が降り始め、傘を持たない彼女はコンビニの軒下で立ち尽くしていた。その時、隣に立った男が何気なく傘を差し出した。
「これ、使ってください。俺、すぐそこに住んでるんで」
男はそう言って笑った。背が高く、少し無精ひげの生えた顔に、どこか優しげな目があった。
美咲は一瞬躊躇したが、冷たい雨に耐えきれず、その傘を受け取った。
「ありがとう。でも、悪いから...名前だけでも教えてください。返すときに困るから」「悠斗。佐藤悠斗。返す必要はないよ。夜ってさ、ちょっとした親切が似合う時間だろ?」その言葉に、美咲はなぜか胸が温かくなった。
翌日、彼女は傘を返す口実で彼に連絡を取った。
それが、二人の始まりだった。
付き合い始めてからの悠斗は、夜が好きだった。仕事が終わるとよく美咲を誘い、街を歩いた。ネオンが反射する濡れたアスファルト、深夜のコンビニから漏れる蛍光灯の光、時折聞こえる遠くの車の音一一夜のすべてが、彼には特別だった。
「昼間ってさ、忙しすぎて見えないものが多い。
でも夜は違う。静かで、本当のことが見える気がする」
彼はそう言って、美咲の手を握った。その手は大きくて、少し荒れていた。建築現場で働く悠斗の手は、彼の生き方をそのまま映しているようだった。一方、美咲は言葉を扱う仕事に就きながら、自分の気持ちをうまく伝えられないでいた。でも、悠斗といると、それが不思議と気にならなかった。
ある夜、二人は隅田川沿いを歩いていた。川面に映る灯りが揺れ、風が冷たく頬を撫でた。美咲が何気なく言った。
「悠斗って、私のことちゃんと見てくれてるよね。私、いつも見られてる感じがする」「当たり前だろ。好きな女が何考えてるか、気にならないわけないじゃん」
その言葉に、美咲は顔を赤らめた。夜の闇が、彼女の照れを優しく隠してくれた。
でも、幸せはいつまでも続かない。付き合って
2年が過ぎた頃、悠斗の仕事が忙しくなり、二人の時間が減っていった。美咲は編集者として締め切りに追われ、悠斗は現場で遅くまで働く。
すれ違いが増え、会話は減った。
ある晩、美咲は我慢できずに電話をかけた。
「最近、全然会えてないよ。悠斗、私のこと
まだ好き?」
電話の向こうで、悠斗は少し間を置いて答えた。
「好きだよ。変わらない。でも、今はちょっと...
疲れてるだけだ」
その「だけだ」が、美咲には重く響いた。夜が深まるにつれ、二人の間に冷たい空気が流れ始めた。
そして、決定的な夜が来た。美咲が悠斗のアパートを訪ねると、彼は見知らぬ女性と一緒にいた。驚いた美咲に、悠斗は慌てて言った。
「違うんだ、ただの友達で一一」「夜に友達って、何?悠斗、私のこと見ててくれるんじゃなかったの?」涙が溢れ、美咲は走り出した。雨が降っていた。傘も持たず、彼女はただ走った。夜の街が、彼女の心を冷たく包んだ。
それから半年が過ぎた。あの夜以来、悠斗とは一度も会っていない。美咲は仕事に没頭し、夜を忘れようとした。でも、心のどこかで、彼の笑顔が消えなかった。
ある日、仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、ふと見覚えのある傘を見つけた。黒い、シンプルなビニール傘。あの日、悠斗が貸してくれたものと同じだった。手に取った瞬間、涙がこぼれた。
その夜、美咲は勇気を出して悠斗にメッセージを送った。
「傘、ありがとう。あの夜のこと、忘れられない
よ」
返信はすぐに来た。
「俺もだよ。会いたい」
駅のホームで待つ美咲の前に、悠斗が現れた。
少しやつれて見えたけれど、あの優しげな目は変わっていなかった。二人は言葉少なに、ただ並んで歩き出した。夜の街が、再び二人を包み込んだ。