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第一章⑤

佐々木の愚痴は、他と比べて数が多かった。

「俺がネットで買ったものとか、俺宛ての手紙とかを、家族が勝手に見るんだよ」

それに対して皆川は「うちはプライバシーが完璧に守られているな」と返した。

「見られて困るもので買ってるのかい?」と工藤が茶々を入れると「そうじゃないけどさ」と佐々木は溜息を吐いた。「なんていうかさ、そう、プライバシーだよ。皆川の言う通り。勝手に見られたりすると、内臓を覗きこまれてるような不快感があってさ。うちのマンションの老害が主張するのとはちょっと違う、本当の俺のプライバシーよ」

「まぁ、勝手に見られるのは少し嫌かもね」

工藤が同調した。

「学校関連のものでも、俺に渡して欲しいんだけどなぁ。開封済みの渡されても、踏みにじられた感が拭えねぇわ」

それ以外にも度々零される佐々木の愚痴に、朝倉は反応しなかったが、工藤と皆川はしっかりと返事をしていた。「暑い」という佐々木の愚痴は百回を超したかもしれない。それに関しては、工藤も皆川もある程度の賛同は示していた。

しかし、いざ勉強するときは、西王谷高校の生徒らしく、一言も話さずにシャーペンを握りしめ続けた。暫く集中する、と決めて、一時間以上、図書室からはシャーペンの書く音しか聞こえなかったことなどざらだった。

因みに、朝倉に現代文嫌いを克服させるために「意味が分かると怖い話」が用いられたのは、あの日が最後だった。というのも、あの日の帰り道に「実は怖いの苦手なんだよね」と朝倉が告白したからだ。

他に人のいない、室温の低い図書室での怖い話。男子たちが配慮してくれたのだろう、それ以来「意味が分かると怖い話」が言及されることはなかった。

ところが、その結果、『日常』の何が怖かったのかを知る機会がなくなってしまった。議題に上げるタイミングが無かったのだ。

『日常』の答えだけは気になる朝倉だったが、工藤も佐々木もあの話を忘れてしまったかのように勉強会に参加するため、朝倉も『日常』の話をするのを留めていた。怖い話が苦手、と自ら言っておきながらその話題を出すのは、恥ずかしくて出来なかった。

それ以外に、休憩時間中に日本文学史の知識に絡めた会話をすることがあり、朝倉はそれを楽しみにもしていた。

好きな文学作品を言って、それに関する話をする。工藤の好みを知ることだって出来るし、それを繰り返すことで、文学における主義の変遷や作者の代表作などの知識のアウトプットにも、実際のところ役立っていた。

ある日のこと、工藤が椅子の背もたれに寄りかかりながら、両手を頭の後ろで組んで小さく零した。「夏目漱石の『こころ』とか、あれ正直、あんまり分からないんだよね。何が面白いんだろう」

そう言って、工藤は視線を空中に漂わせた。『こころ』の表紙でも思い浮かべているのかもしれない。あるいは、日本人なら誰でも思い浮かべることのできる、夏目漱石のあの白黒写真か。

「親友を自殺に追い込んだ『先生』の話だろ?」

佐々木が聞く。

「うん。なんていうか、あんまり心に響かなかったんだよな。あれ以外にも『吾輩は猫である』とか色んなの読んだことあるけど、一度も琴線に触れるようなことがなかったね」

話を聞く限り、前に言っていた工藤の「エンタメ小説好き」は、どうやら「純文学嫌い」を背後に持つようだ。そして『こころ』に対して、珍しく批判的であることが窺えた。

しかし、これぞ文学だ。

そもそも文学が「虚学」であるために、「秒」という国際単位に因る陸上競技の百メートル走などとは違って、文学には絶対のスタンダードなど当然存在しない。故に、十人十色の判断基準が存在しているのだ。

「面白ければそれで良い」を基準とし、逆に「面白くない」と見なそうものなら価値を一切認めないタイプに、工藤は該当するようだ。このような「面白い」「面白くない」のブラックアンドホワイトなタイプを持ち合わせる者を説得するのは非常に難しいだろう。

ところが、工藤の批判精神を知っても、朝倉はうっとりとしていた。何でもかんでも受け入れてしまう中途半端な優しさよりも、自分自身の意見を持っている方が魅力的に思えたからだ。

朝倉自身も、その実、「夏目漱石の『こころ』がどのようにして他の文学作品と一線を画しているのか分析せよ」という課題が出されれば戸惑う生徒の一人だ。深いことを言うだけの文学分析に終始するだろう。

それでも、『こころ』を「面白くない」とは思わなかった。中学三年生の時に授業で初めて読み、先生が隠し続けていた悲しい過去を知って、しんみりした気持ちになったのだ。

「皆川くんは?好きな文学小説とかはある?」

会話の流れで、朝倉は皆川に尋ねた。

「僕の印象に残っている文学作品は・・・・・・」皆川がとつとつと話し始めた。「森鴎外の『高瀬舟』とかかな。『こころ』よりはこっちの方が面白いと思った。でもまぁ、『こころ』も名作だと思うけどな」

『高瀬舟』は、安楽死をテーマにした、森鴎外の作品だ。

「それ中学生の時にやったよ」

朝倉はそう言って、中学生当時の事を思い返した。

黒縁眼鏡にセミロングの黒髪。スカートの丈の長さから下着の色まで、一つの校則も反せずに送った中学生時代。一から十まで真面目だった。真面目腐っていた。ファッションなど、女の子らしさなど、自分とは無縁のものと決めつけていた。

中学三年生の最後でも、変わらなかった。春休みに入る直前は、進学先の高校も定まって全員がお気楽モードだったというのに。

軽い化粧をしてスカート丈を短くする生徒。ワックスをつけたり携帯を持ち込んだりする生徒。生徒の性別を問わず、小石ほどの大きさにギュッと抑え込まれたスポンジが、その手が離れた途端に手を押し返すように瞬時に反発するように、校則を意識する必要のなくなった三年生は自由の翼を獲得し、好き勝手に振る舞っていた。

それをとやかく言う教員も、これまたおかしな話だが、あまりいなかった。「全員の進学先が無事に決まってよかった」「今更注意したところで」という安堵と怠惰が心の中にあったのだろう。

そのような雰囲気にも流されずに、朝倉は校則を遵守し続けたのだ。誰に言われたからではない。何を罰せられるかではない。単純に、守らなければならないルールが存在し、それを他の人間が遵守していないところで、自分もそのルールを破って良いという大義名分にはならない、と信じていただけだ。

唯一ルールを破った時と言えば、三泊四日の修学旅行ぐらいか。あの時は消灯時刻を過ぎてもずっと話し込んでいた。一度は他の宿泊班メンバーに注意しながらも、最終的には朝倉も会話に加わり、時折見回りに来る先生を欺いた。

修学旅行時の平均睡眠時間は一日三時間ほどだった。ところが、不思議と日中に眠たくはならなかった。勿論、修学旅行が終わり帰宅した後に十五時間ほど寝続けたのだが。

今では考えられない様だった中学生時代、当時の国語の授業で扱ったのが『高瀬舟』だった。主人公は、たしか喜助といったか。

「賛否両論っていうか、はっきりしない終わり方だったよね」

「でも、考えさせられる話だった」

皆川にそう言われた朝倉は、確かにそうだ、と頷いた。

確か、誰かが刃物で自殺を図って、失敗したのだ。突き刺さった刃物を抜けば死ねるものを、そんな力もなく苦しみだけが続いていた。そこに主人公の喜助がやって来たため、刃物を抜いて楽にしてくれ、と頼んだのだ。しかし、刃物を抜いたまさにその瞬間を目撃され、喜助は殺人犯として扱われてしまう。

主人公の喜助は、確かに自殺に手を貸した。現代でいう自殺幇助だ。しかし、自殺志願者を楽にしてあげるつもりだったのだ。

具体的な描写を朝倉は覚えていなかった。しかし『高瀬舟』の授業によって、安楽死の在り方を学んだため、朧気な輪郭は覚えていたのだ。

「じゃあ、問題」佐々木が話題を掻っ攫うかのように大きな声を出した。「森鴎外のドイツ三部作と言えば?」

応えると変に反応されそうなので、朝倉は黙った。既に解答は頭の中で出来上がっている。それも、漢字表記で、だ。画数も止め跳ね払いもばっちりで、減点されないはずだ。

「えーっと」と工藤が答える。「『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の三つ」

「正解」

「じゃあ森鴎外の浪漫詩といえば?」

今度は話を聞いていた皆川が出題した。

「えーっと」佐々木が意気揚々と答えようとしたが、世に言うTOT現象か、答えが出かかっているのにそれを取り出すことが出来ないようだった。「『若菜集』じゃなくって、『智恵子抄』でもなくって、やばい、何だっけ。あ、でも言わないで」

『於母影』だよ、と朝倉は心の中で言った。しかし、それを言うと「『言わないで』って言ったのに」と佐々木に睨まれそうだったので、やめておいた。

「ダメだ、完全に度忘れしてるわ」

「言っていい?」と工藤が名乗り出た。

「・・・無理だ、どうぞ」

「『於母影』じゃない?」

「そうだ!それだよ!」

工藤と皆川は笑っているが、佐々木は悔やんでも悔やみきれないという風に顔を歪めた。歯をギシギシと噛んでいて、頭に血が上っているようだった。

朝倉はついていけず、ただ呆れていた。

たかがクイズなのに。

しかし、客観的に考えてみると、佐々木の無念も分からないわけではなかった。

自分の想い人である朝倉。あまり手ごたえはない。その朝倉が、好意を抱いているかどうか分からないが、少なくとも尊敬している工藤。

佐々木からすると、そのように映るのだろう。さすれば、せめて学問ででは工藤に勝利したい、と渇望するのかもしれない。そしてその後、恋愛ででも勝利するといった筋書きか。

佐々木がそのように考えているのであれば、朝倉からすると、それはただの嘲笑ものだ。佐々木が工藤に勝利したところで、それはあくまで「学問」というジャンルでの勝利、だ。「恋愛」の話になれば一秒と経たずに工藤へ行く。そして二年生の定期テストの点数を見れば、学問においても勝利は有り得ないと予想出来る。

このことを佐々木にそれとなく知ってほしいのだが、一歩間違えれば赤面ものの自意識過剰と捉えられてしまう。いや、プライドの高い佐々木は溢れる好意を必死に隠して「俺はお前の事なんかなんとも思っていない。工藤をライバル視する理由は、単純に学問で工藤に勝ちたいからだ。お前は一切関与していないのに、自意識過剰も病気レベルだぞ」と早口で捲し立てられそうだ。口角に白い泡を浮かべて。

「『若菜集』は島崎藤村だね、自然主義の」

皆川が指摘する。

「分かってるよ、ただ字数が少ないやつが混同しちゃうんだよ」と佐々木がムキになって言い返した。

「『智恵子抄』は、誰のだっけ?」

工藤がそう聞いたので、朝倉は佐々木よりも先に「高村光太郎じゃない?口語自由詩の確立に貢献した一人」と教えてあげた。

「そして、口語自由詩と言ったら、『智恵子抄』の高村光太郎と、えーっと、『月に吠える』の萩原朔太郎か」

工藤が言った。全て正しい。

今のように、一つの知識を出すとそれに関わる別の知識を出して、そしてそれから関連する知識を、といった具合に、一つの知識から様々な知識へ枝分かれしていくのだ。その結果、「十分休憩しよう」という提案だったのが、一時間を超すことになってしまうことが何度もあった。

いわば、休憩の雑談さえも知識の畑だった。全て、大学受験で必要な知識だ。

工藤、皆川、佐々木という三人と知り合えて、朝倉は本当に良かった、と思っている。だからこそ、佐々木からの愛情など、排斥しなければならないのだ。

縺れてしまうから。

理由はそれだけだ。

これが工藤からの想いであればどれほど良かったか。

男女混合のグループ内でカップルが誕生するなど問題ないはずだ。ただ、そのグループの中で三角関係が生じてしまうと、根本から関係が壊れてしまう。朝倉としてはなんとしてでも、佐々木に諦めて欲しかった。良い友人としての関係を、継続したかったのだ。

夏休みという長期休暇は、朝倉にとっては、神経の磨り減る期間だった。一日の全てが休みなので、当然佐々木からのデートの誘いが絶えなかった。それも「勉強教えてあげるから」という上から目線のオファーばかりなので、これはうんざりだった。

何が面倒かと言うと、佐々木からのNILEに、全て律儀に返信しなければならないということだった。無視しても良いのだが、それはそれで、友人として、失礼な気がする。佐々木の恋人になるつもりはさらさらないが、友人としてなら全く問題ない人物だ。これで佐々木との交友関係が断たれてしまっては、ひいては工藤とも皆川とも気まずくなってしまうだろう。

朝倉は苦肉の策として、佐々木からのメッセージには「一日に一回だけ」というルールを定めて、返信するようにしていた。そのメッセージに、佐々木は一時間と経たずに返信を入れてきた。が、朝倉は一度でも返信をしたら、その日は全てをスルーしていた。

勿論、工藤ともNILEのやり取りをしていた。内容は主に勉強の事だったが、時折「今何してるの?」「好きな芸能人は?」といったプライベートに関する質問を朝倉は挟んだ。それらを含む全てのメッセージに、工藤は数時間おきに返信してくれた。その時、朝倉は、一時間と経たずに返信を入れる番になった。

NILEのやり取りを嫌う男子は多いらしい。「男子 脈ありサイン」と調べると「NILEが律儀に返ってくる」という文章を度々見かけた。

工藤くんも、私を好きなんじゃないか。

水を沸かすと次第に泡が浮かんでくるように、工藤とやり取りを続ければその分、朝倉の心の中にそういう考えがポツポツと浮かんだ。

現に、工藤からは、どっちつかずのメッセージを送られたことがある。「これからも仲良くしよう」だけなら、少しだけドキッとするだけで済んだだろうが、「大学生になっても一緒にいようね」というメッセージを受け取った時は、その刹那、朝倉はその画面をスクリーンショットして、いつでも拝められるようにした。

楽しい会話。盛り上がった会話。ふざけた会話。

いつ見返しても良いようにスクショした画像が、スマホのデータ容量の残りを減らし続ける。朝倉はそれらを時折見返すが、その都度「私のことが好きなのかな」と疑問に思う。それが夜であれば、なおさらだった。


八月の中旬になり、夏休みの残りが十数日になった。この日も、朝倉は工藤たちと図書室で勉強していた。

工藤は、背もたれに寄りかかりながら、東都大学に次ぐ国立大学・双京(そうきょう)大学の赤本を左手で持って読み進めている。本を片手で持ち上げている様なので、工藤の顔は反対に座る朝倉からは見えなかった。

背もたれに寄りかかりながら、とはつまり、一切の書き込みをせずに、ということだ。現代文ででさえ、筆者の主張と思われるキーセンテンスや逆説の接続詞などのキーワードに横線を書き込んだり円で囲ったりなどをするのに、英語長文で書き込みをせずにスラスラと呼んでいくその優雅な様は、朝倉に「この人は東都大学に行くんだ」と強く実感させた。それは、言い換えれば「私とは違う」という物哀しいものでもあった。志望先も違うし、そもそも生き物としてのステージが異なるようだった。

工藤の隣には佐々木が座っていた。テーブルの上に英単語帳と古文単語帳を並べて、五十単語ずつという具合に設定しているのだろうか、定期的に交換して読んでいる。既に暗記はし終えている単語の復習だろう。

朝倉の隣に座る皆川は他と違って読書に耽っていた。背表紙を確認したところ、読んでいる本は、いつかの時に話した、夏目漱石の『こころ』だった。

「それ、面白いか?」

一休み、という風に赤本をテーブルに置いた工藤が、文庫本に目を落とす皆川に尋ねた。

「悪くはないね」

「皆川くんって、純文学が好きなの?」

朝倉がそう聞くと「そうだなぁ」と皆川は左手で顎をさすった。「一通りしか経験できないはずの人生を、本を読めば無数に経験することが出来るからね」

「でも、それならエンタメ小説でも可能だろう?」

工藤がそう反論した。二人の言っていることは至極真っ当だった。

「そうだけど、そっちは非現実的だろう」皆川は栞を挟んで本をパタンと閉じた。言語学者のような雰囲気が漂っている。「純文学の良さは、やっぱりリアリティにあると思う」

「『先生』が実は親友を自殺に追い込んだ人で、その事実を当人の遺書から知る。現実的なのか、それ?殺人事件に巻き込まれると同程度にない事だと思うけどね」

純文学嫌いの工藤はそう言って、胸を張って堂々と皆川の反論を待った。朝倉と佐々木は自然と手を止めて、彼らの熱い議論に耳を傾けていた。

皆川は「逆にさ」とテーブルに身を乗り出した。「春樹は純文学の何が嫌なのさ」

「大嫌いだね」

そう言って、幼馴染の皆川のみならず佐々木と朝倉にも分かるように、工藤は純文学嫌いの原因を説明した。

中学生の時の国語の教員に帰することが出来るという。工藤はそもそもその教員を好んでいなかったが、国語の成績は悪くはなかったそうだ。

ある日、読書感想文の宿題が出されたため、工藤はお気に入りのミステリー小説をベースにした。そして、文章の中で「純文学よりも一層親しみやすい」「エンタメ小説も十分読むに値するし、純文学至上主義的観念は捨て去るべき」と、あたかも大学生の分析レポートのように書き上げたという。

これが、純文学至上主義の国語教師に反発する形になってしまい、赤字で多数コメントを書かれたそうだ。それらは、純文学を理解しない工藤を子馬鹿にする内容だったそうだ。

「でも、あいつ『こころ』が純文学の最高峰、とか言っておきながら、何が良いのか、何が他と違っているのか、そういう詳細は一切説明しないんだよ」工藤の言葉には熱がこもっていた。「だから、何も分かってないくせに『自分は純文学を読みます。エンタメ小説は読みません』ってマウント取るのに辟易して、純文学そのものも嫌いになったね」

なるほど、ない話ではない、と思った。「他人には理解できないものが理解できる」というステータスに憧れを抱く人間はある程度いる。霊感などは、その最たる例だろう。純文学もまた「他の人間とは違う」という満足感を与えてくれるものなのかもしれない。そう捉えてしまった、偽りのカッコよさに魅せられた人間は、全員がそうとは言わないが、確かに存在するのだろう。

「それは知らなかったな。あの先生がそういうタイプだったのか。じゃあ、ほら」皆川は『こころ』から栞を抜いて工藤に渡した。「これ、僕のだからさ。読んでみなよ」

「いや読んだことあるよ。中三の時にやっただろう?そのうえでつまらないって言ってるんだ」

「それでも内容は忘れてるだろう。今改めて読んでみると面白いかもしれないからさ。自宅にもう一冊『こころ』あるから、それあげるよ」

皆川に押し付けられた形で、工藤は本を受け取った。

「絶対に読了しろよ」と皆川は念を押した。

「分かった分かった」

工藤は呆れ顔で返した。

そのやりとりを見ていた佐々木は「これ絶対途中でほっぽりだすパターンでしょ」とふざけて茶々を入れた。

「大丈夫。約束は守るから。最後まで、頑張って、読んでみるよ。頑張って、ね。そして酷評レポートを添えてあげよう」

工藤はバッグに『こころ』をしまった。

ラッキーだ。

朝倉はガッツポーズしたい思いに駆られた。

これは、NILEでの話のタネになる。

「『こころ』読んでる?どんな感じ?」と質問すれば、向こうも色んなコメントをしてくれるだろう。

「予想以上に楽しめたよ」というプラスのコメント。

「やっぱり純文学は分からないや」というマイナスのコメント。

どちらが来ても朝倉には対処が可能だった。

プラスのコメントが来れば、朝倉もプラスのコメントを、マイナスのコメントが来たら、朝倉もマイナスのコメントを返せば良いだけだ。

分かりやすく言えば掛け算だ。プラスとプラスを掛ければプラスに、マイナスとマイナスを掛けてもプラスに。プラスとマイナスが掛け合わされることを回避すれば、少なくとも関係は良好になる、というものだ。

好みのみならず嫌いなものでも、その考えが一致すれば、人は仲良くなれる、という理論である。

バランス理論っていうんだっけ。

工藤を落とすために、恋愛に活用できる心理学のテクニックはあらかた調べてあったのだ。

工藤と皆川の議論は、意見の対立こそあれ、極めて論理的に進められた。「実際に読んでみる」という解決策まで出されたのだ。皆川が協力を申し出て、工藤も承諾している。心残りはないだろう。

再び、全員が無言で勉強する空間となった。

しかし、皆川と工藤のやり取りで、朝倉は『こころ』が気になっていた。中三の、国語の授業。

工藤も『こころ』を読むみたいだし、自分ももう一度読んでみたい。

そんなことを考えると、途端に集中出来なくなってしまった。ことあるごとにKのことが浮かび、恋愛の縺れについて考えてしまった。

良くない、と朝倉は思い、全員に「気分転換に、ちょっと校庭へ出ない?」と誘った。こういう時は、全員を巻き込んでリラックスするに限る。

「えぇー、暑くないかな」

皆川が嫌そうな顔をしたが、「十分涼んだでしょ」と朝倉は強引に誘った。

「確かに体温が大分下がったし、行こうぜ」

佐々木は乗り気で、とりあえず全員が校庭に出た。充分に涼んでいたので、陽の光を浴びても汗が噴き出すことはなかった。

校庭の端には、校舎に寄り添う形で桜の大樹が植えられていた。緑葉いっぱいの大樹は、夏とあって本来なら毛虫が怖いが、校舎のすぐ近くということもあって、毛虫対策は十分すぎるほどにされている、と聞いたことがある。

朝倉たちは校庭に出てすぐ左に曲がり、左手に校舎の壁を見ながら桜の大樹の元へ歩いていった。

「そういえば四人で写真とか撮ったことなかったからさ、撮ろうよ」

朝倉は皆に声を掛けた。

「オーケー、誰のスマホで撮る?」

男子たちは、あまりそういう経験がないのだろう、オロオロと二の足を踏んでいた。ので、朝倉はスマホのカメラアプリを開き、インカメモードにして時間を五秒に設定した。

「五秒だからね」と言って、シャッターボタンを押した。そして横向きにスマホを、ちょうど朝倉の胸元あたりの樹の窪みに立てかけて、校舎の壁を後ろに四人並んで撮影した。

その後、ポーズや立ち位置などを変えて、合計三枚撮影したが、うち二枚は太陽光が樹の葉の隙間から入り込んでいたり、ピントがずれてしまっていたりと削除すべきものだった。

ただ、最初に撮影した、朝倉がセンターでその周りが男子、全員がピースサインをしているだけの、最もシンプルな写真が、とても良く撮影出来ていた。

「やっぱりこれでいっか。悪くないでしょ」

朝倉は写真を画面いっぱいに表示させて皆に見せた。「それでいいよ」と、暑くなってきたから早く図書室に戻りたい、と言いたげな男子たちは、反対意見を出さなかった。

「本当は校舎全体を映したかったんだけどな。まあしょうがないか。NILEのグループに送っとくね」

そして四人は再び図書室に戻り受験勉強を再開した。

姿勢を変えずにずっと座って勉強していたので、外に出ることで気分を切り替えることが出来た。それに、初めて思い出が形として残って、喜々たる思いで胸が一杯だった。

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