第一章④
こめかみの血管までもが脈打っている。吊り橋効果のように心臓のドキドキを勘違いすることは、露程もなかった。「何なの!?」というリアクションを朝倉は心の中で永遠とリピートしていた。
一体何の権利があって髪の毛を触ってきたのだろうか。自分はそれが赦される人間だとでも思っているのだろうか。
朝倉の問いは止まらなかったが、その疑問は心の中で留まり、外に出ることはなかった。
いよいよ逃げ道がなくなったところで工藤が登校してきたのは、非常にタイミングが良かった。救われた思いがして、やはり自分にはこの人しかいない、と英雄への眼差しを忌憚なく工藤へ向けた。
「工藤くん、おはようっ」
朝倉は佐々木に見せつけるように、満面の笑みで大きな声で挨拶した。
「おはよ」
そのまま三人で雑談する流れになったが、朝倉は佐々木に話しかけることはしなかった。「工藤くんはさ」という風に話し始めて、佐々木など眼中にないことを暗にアピールし続けたのだ。
私は工藤くんが好き。
佐々木というブロッカーの存在によって、皮肉にも朝倉は、より工藤への想いをより自覚することになった。
それからも時折、佐々木から間接的なアプローチを受けることが度々あった。断れないような小さな頼みごとを、他の人にすればいいのにわざわざ朝倉を指定してきたり、掃除の時間に二人きりになろうとしたり、などだ。
しかし、直接の告白を受けることは一度もなかった。煮え切らない態度に、断られるのが怖いからだろう、と朝倉は考えた。
ところが、朝倉からすると、告白もされればされたで非常に困ることになるのだ。
四人の関係性にヒビが入ってしまうではないか。
気にしていないはずのコンプレックスと同じだ。「佐々木が朝倉にフラれたらしい」と回れば、周囲が気を遣い、その結果、四人の関係が壊れかねない。
いつだって恋愛で友情関係は壊れるものなのだ。実際の経験のない朝倉でも、恋愛もののドラマや映画で、嫌というほど知っていた。そしてその発端は、大体が勘違いした男であるということも。
つまり、朝倉にとっての一番の理想は、佐々木が自然に諦める、というものだった。「俺には無理だ。友人のままでいよう」と思い知ってくれれば、全てが丸く収まるはずだった。
では、どのようにすればこの目標に到達できるか。朝倉は筋道立てて考えたが、答えは意外と早く見つかった。
それ以来、朝倉は工藤にもっとアプローチをするようにした。工藤と付き合えればそれでも良し。付き合えなくても一途に工藤を想っていれば、佐々木はそれを見て諦めるだろう、という算段を立てていたのだった。
佐々木に諦めてもらうため。そして、工藤に意識してもらうため。朝倉のアプローチには、二つの目的があった。
しかし、朝倉が工藤に想いを寄せていることに、工藤自身が気付く気配は全くなかった。顔を赤らめながら一生懸命好意を仄めかしたりしたのだが、工藤はうんざりするほど鈍感なようだ。ファッションに理解はあっても、恋愛には疎い。西王谷高校の生徒らしい、と朝倉は、とほほと肩をがっくり落とした。
佐々木がそれに対してどのようなことを考えていたかは知らない。しかし、朝倉が親しげに話しかける工藤への対抗心に火がついたのかもしれない。テスト前になると、本当に友達同士か、これから殴り合いでもするのか、と周りに思わせるほど、火花をバチバチに散らした対決を繰り広げた。
しかし、二年生の定期テストの一つでも、佐々木に軍配が上がったことはなかった。それどころか佐々木は、皆川にも負ける始末だった。研究が純粋に好きな科学者がノーベル賞を受賞するのに対して、賞金が目当ての科学者が上回ることが出来ないのと、理屈は同じだった。
二年生の最後、放課後に四人で教室に残って雑談をしていた時のことだ。
「俺は橋工大学にするわ」
東都大学を目指す工藤と皆川は「そうか」と、大して意見することもなかった。他人の進路に口出しをするのは親か担任か。友人がそれにとやかく言うのは、友人への礼儀から、有り得ないのだ。
だが、朝倉だけが唯一、それを変えて欲しい、と思っていた。なぜなら、朝倉も同じ大学を志望していたからだ。
同じランクの東京一業大学に変更も出来るが、朝倉はそれもしたくはなかった。好意を持たれている友人の志望校が同じなために自分の進路を変更しなければならないのは、悲劇としかいいようがなかったからだ。そんなことはプライドが許さなかった。
気にしなければいい。
それまでに、工藤くんと結ばれれば。
三年生になってからも、することは変わらなかった。佐々木のアプローチを適度に躱しながら、朝倉は工藤にアプローチを掛けた。
何も特別なことはしない。垢抜ける方法をネットで調べた時と同様、「好きな人にアプローチする方法」と調べて、出てきた方法の幾つかを実践するだけだ。
笑顔で挨拶する。
相手の話に合わせる。
適度に褒める。
ボディタッチをする。
相手のタイプに近づく。
言われてみれば確かに有効に思えるアプローチ法だが、自力で思いつくのは不可能に近い。朝倉自身、こうしてサジェストされるまでは、恋愛そのものに対して、右も左も分からない状況にいたのだ。
それらアプローチのうち、「ボディタッチをする」と「相手のタイプに近づく」の二つは未だに熟せていなかった。
相手に触れるにしても、どこに触れれば良いのだろうか。サイトには、立ち上がる際に相手の肩に手を掛ける、とあったが、あまりに難度が高かった。
工藤の好みの女性像も分からない。好みのタイプを聞くなど、どのようにすればよいのか。聞いたところで、相手に変に思われてしまうかもしれない。なんせ、今までそういう話をしたことがなかったからだ。
成績表の見せ合いっこが終わり、最初の位置に戻った。朝倉の隣に工藤。正面に皆川と佐々木だ。机を挟んで対面に佐々木がいる限り、体を触られる心配もない。居場所が変わっていないのに、先ほど以上の解放感があった。
図書室の温度は低い。先ほどまでは「暑い暑い」と文句を言っていた佐々木だったが、ここに来た今となっては「腹でも壊しやしないか」と腹痛を心配するほどだった。
隣に工藤が座っている。
朝倉は「ボディタッチをする」を思い出した。
どうにかして実践できやしないか。どこぞのサイトでは、お酒の席で男性の太ももに手を乗せる、とあった。そんなのは無理だ。
ではどうすれば。
あれこれ考えていると、朝倉は室温の低さに相反する体温の高まりを認識していた。意図的に触れる、と考えるだけで、心拍数は目に見えて上昇していくようだった。
何もしないのはダメだ。よし、自然な風にやってみよう。
朝倉は隣に座る工藤の肘あたり、服の袖を摘んでチョンチョンと引いた。
「工藤くんはさ、現代文どうやって勉強してるの?」
「現代文?そうだなぁ」
どこかで誰かから聞いたことのある王道テクニックだったが、工藤はまるで狼狽しない。しっかり出来たはずだが、あまり効果はないのか。それとも、まさかとは思うが、そのようなアクションに慣れているのか。
「『慣れ』っていうのは大きいと思うよ」
「え、慣れ?慣れてるの?」
心の中で思い浮かべていたのと同じ言葉を言われ、朝倉はやや間抜けな声で返事をしてしまった。冷静に考えれば「現代文の慣れ」なのだが、そう捉えるには朝倉の脈は乱れ過ぎていたのだ。現代文の勉強法を聞いて「慣れ」と回答されただけなのに驚いたリアクションを取る朝倉は、やはり不自然だった。
しかし、工藤は気にせずにアドバイスの詳細を伝えた。
「二種類あるんだ」工藤は右手の握り拳を前に出し、カウントするように指を一本ずつ伸ばしていった。「まずは『活字の慣れ』だ。活字を読むことに慣れていないと、題材の評論が理解出来ないからね。次に『解答の慣れ』だ。筆者が何を言いたいのか、それが理解出来ていても、問題が解けるってわけじゃないんだ。選択肢が五つあってその中から答えを見つける作業や、字数制限のある記述問題でなるべく高得点を取る方法などなど」二つを挙げて、工藤はピースサインを作った。「だから現代文で良い点を取る最も手っ取り早い方法は、『活字に慣れて、問題に慣れる』だと思うよ」
「うーん、なるほど」
朝倉は頷いた。
工藤がどれほどの読書好きか、朝倉は既に知っている。
「相手の話に合わせる」をする際に、工藤に「趣味は何?」と情報収集がてら聞いたところ、工藤は「読書かな」と答えたことがあったのだ。
確かに、活字に慣れている人は、現代文の読むスピードも理解力も凄そうだ。目に入ってくる文字列の意味を識別し、内容を理解する作業を「読書」という活動で普段からしているからだ。
そういえば、あの時は本のジャンルを詳しくは聞かなかった。
折角の機会だし、と朝倉は今改めて聞くことにした。
「工藤くんはさ、どういう本を読むの?」
難易度の高い純文学か何かか、と思っていた。「シェイクスピア」と言われる用意もしていた。四大悲劇を頭の中で思い浮かべる。内容を詳しくは知らないが、タイトルぐらいならさすがに分かる。
ところが、工藤の解答は朝倉の予想に反するものだった。
「僕はエンタメ小説しか読まないよ。ミステリーが一番好きでさ」
エンタメ小説は別名「大衆小説」とも言い、そこから「ミステリー小説」「SF小説」「ホラー小説」などに細分化される。当然、純文学と比べると遥かに読みやすい。読書をあまりしない朝倉でさえも、エンタメ小説なら容易に読める。
「工藤くんは、森鴎外とか夏目漱石とか、そういう純文学が好きなんだと思ってた」
朝倉が正直に告白すると、工藤は「あははは」と笑った。「なるほどなるほど」と数度頷く。「森鴎外に夏目漱石に、高踏派か。森鴎外の中期だね」
「わ、さすが」
工藤は、朝倉の意図に気付いていたのだ。数ある文豪の中から森鴎外と夏目漱石の二人を引き合いに出した、その理由に。
大学受験では、日本文学史の知識を問われることがある。その知識を問う問題の配点は二、三点ほどと言われているが、一点の差で合否が分かれる大学受験だ。出題されない年もある文学史の知識の暗記のコンプリートなど、西王谷高校の生徒は全員している。
現に朝倉も、工藤なら気付いてくれるだろうと期待して、森鴎外と夏目漱石の名前を出したのだ。
高踏派は「余裕派」の別名もある派閥で、海外留学による豊富な知識を有しているのが特徴だ。森鴎外はドイツに、そして夏目漱石はイギリスに留学した経験がある。こと森鴎外に関しては『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』から成る「ドイツ三部作」が有名で、受験においても度々出題される。工藤の言ったように、中期の森鴎外は高踏派だが、「ドイツ三部作」を出版した初期や、『阿部一族』や『高瀬舟』を出版した後期は高踏派とは呼ばれていないため、若干ややこしい。
「佐々木と翔はどうしてる?現代文の勉強は?」
工藤が正面に座る二名に話を振った。
「現代文って水物だからなぁ」
佐々木は匙を投げた。
「僕は、そうだな」皆川がぽつぽつと話し始めた。「活字に慣れる必要はあると思うけど、何もそれは読書に限らないと思うんだ」
「それは、そうだね」と工藤。
「僕なんかは、『意味が分かると怖い話』ってので、文章を大量に読むことが多いな」
「出たよ、翔の好きなやつ」
工藤が茶々を入れた。はいはいいつものね、といった呆れ顔をしている。皆川も、はいいつものですよ、と旅館の女将のような表情でゆっくりと頷いた。
「意味が分かると怖い話」とは、その名の通り、一見普通のストーリーに思える話に、実はホラー要素が含まれている、という話である。
工藤と皆川のスピーディなやりとりから察するに、皆川は幼少期のころから好きだったのだろうか。
「皆川くん、『意味怖』が好きなの?」
「そう」と工藤が代わりに頷いて、その詳細を話した。「小学生の時からネットで調べたやつを昼休みとかに解いてたなぁ。めっちゃ懐かしいわ」
「さりげなく春樹も熱心に参加してたからね」
皆川が笑いながら言って、つられて皆も笑った。
知り合ってから一年以上が経つが、それぞれの中学以前の話は真っ黒のヴェールに包まれている。それぞれがそれぞれの記憶を持っており、共有する必要性を感じていないため、不干渉を決め込んでいるのだ。朝倉も、今の容姿とはかけ離れた事実を打ち明けないでいる。隠しているわけではないが、話す必要がないだけなのだ。
それら謎が、時折明かされたりする。例えば、工藤に妹がいることも、皆川に姉と弟がいることも、朝倉は全く知らなかった。
それを知った途端、理想のお兄ちゃん像が工藤にぴったりと当てはまった。一人っ子の朝倉は、工藤のような兄が欲しかった。
「そうなんだ。知らなかった」という驚きの発見の度に、やはりミステリアスな部分はあった方が良いと思う。
今回も、いつも大人びていて物静かな皆川が、小学生の時から「意味怖」を引っ提げて、鬼ごっこする人この指とまれのように、クラスメートに「皆、集まれ集まれ!」と目立つ位置で招集を掛けて、その話を聞かせる様子が目に浮かんだ。
ある種のギャップ萌えを朝倉は感じていた。
「じゃあさ、ここで一つ披露してよ」
佐々木は椅子に寄りかかって、挑戦的な目で横に座る皆川に言った。
「確かに。三人で解こうよ」
工藤もそう言って、ホラー嫌いの朝倉はそのことを打ち明ける隙を見つけられないまま、「意味が分かると怖い話」を聞く会に参加することになってしまった。
「じゃあ、スマホに保存してある、とっておきのを披露するよ」皆川はポケットからスマホを取り出した。「何しろ聞き手は西王谷の生徒だからね。ホラー度で言うとそこまで高くはないけど、難易度はかなり高いよ。佐々木、向こう座りなよ」
皆川がそう言ったため、朝倉は右に工藤、左に佐々木と挟まれる形になった。正面に一人皆川がいるため、幼稚園にいた時の、先生が園児に絵本を読み聞かせていた、あの状況を思い出した。
そして、すぐ左に座る佐々木が気になった。
恐怖に乗じて抱き着いてきたりしまいか、と朝倉は少しだけ体を工藤の方に寄せた。朝倉が近づいても、これから怖い話が繰り広げられるのに、工藤はいたって平然としていた。
「じゃあ、読みます。ってかリスニングで分かったら凄いけどね。えーっと、タイトルは『日常』」
皆川が読み上げた「意味が分かると怖い話」は以下の通りである。
『日常』
カーテンを開けた。
朝七時十分。
朝日の眩しさに目を細めて手で遮る。いつものことだ。
パジャマのまま朝食の準備をする。
いつも通り、トースト二枚とコーヒー一杯。
洗面所に行って身支度。これもいつも通り。
八時に自宅のアパートから出る。出勤時刻も変わらない。
他のサラリーマンと同じ表情。死んでいるわけでもないが、生き生きしているわけでもない。
レジ袋片手にアパートに帰ってきたのは午後五時半。
自宅に戻ってまずは部屋着に着替える。
リビングで読書を一時間ほど。これは最近始めた趣味だ。
六時半になって慌てて夕食の準備をする。
レジ袋からおにぎり一つとサラダスティックひと箱。
キッチンへ向かってパスタの準備。
夕食はおにぎりとサラダスティックとパスタだ。
夜八時三十分に風呂に入り、十二時まで携帯をいじってテレビの録画を見て本を読んで。
今日も大して変化のない日常だ。
夜十二時を回る。
カーテンを閉めた。
一回目の朗読の後、暫時、聞き手の朝倉たちは誰にも話さず語らず相談せずで、脳内でのみ推理を繰り広げていた。しかし、英語のリスニングで僅かでも聞き逃しが発生すればもはやその設問は解けないのと同様に、溜息を最初に吐いた工藤を筆頭に、朝倉と佐々木も推理を止めなければならなくなった。言い換えれば、お手上げだった。
「分からないな。普通の話に聞こえる」
工藤が言う。
「私って『意味怖』とかそんなに知らないけど、こういうのってさ、大体主人公が実は犯人みたいな感じだよね。人殺してるみたいな結末じゃない?」
怖い話とあって、緊迫した雰囲気だった。頭を使わなければならないので、集中度で言ったら、三十分掛けて解く数学の問題と一緒だった。
それでも、鼓動が高まっていく。吊り橋効果とはこういうのを言うのだろう、と朝倉は工藤を見ながら実感した。
「そうだね、二回目はもっと注意して聞こうか」
工藤がそう言って、それぞれがまた聞くモードに入った。
皆川がスマホに目線を落として、もう一度『日常』を読み上げる。
ふと、左隣に座る佐々木の事が気になった。
工藤と朝倉の会話に入り込んだりはせずに、先ほどからずっと推理に耽っている。一発逆転をかましてやりたいのだろうか。もしかしたら、工藤ですら解けない「意味怖」をすんなりと解くことによって、「異議ありッ!」と勢いよく立ち上がり相手の論理を瓦解させる弁護士のように、周りの視線、この状況では想い人である朝倉のみだが、を集めたいのかもしれない。
そのためだけに、今、何も喋らずに、三次方程式の解を暗算で求める時以上に、神経伝達物質をフル稼働させているのだろうか。
不気味な沈黙に身を隠す佐々木が気になって、二度目の『日常』の朗読を聞いても、朝倉は答えを見つけられなかった。
いや、それは言い訳だった。『日常』を何度聞こうと意味がないようにさえ思えてきた。
「多分、主人公が誰かを殺してると思うんだけどな。死体処理の可能性も。いやでもあてずっぽうなんだよな」と工藤。
「ところどころに時刻が出たよね。それをタイムラインで並べると実は、みたいな?」
「うん、有り得る」
工藤と朝倉の推理が進む。三人寄れば文殊の知恵と言うが、今は佐々木の加勢が望めない。
恐らく、朝倉と工藤のように、行き詰っているのだ。そして、それを素直に言い出せないのかもしれない。佐々木のフォローなどするつもりはないが、「佐々木くん、どう?分かった?」などと聞いて恥を上塗りするようなことも、朝倉はしない。
全員が分からない、を大前提に朝倉は皆川に提案した。
「テキストで送ってよ。NILEで。そもそもリスニングで『意味怖』なんて土台無理な話だもん」
NILEとはSNSの一つで、誰ともいつでもメッセージのやり取りが行えるサービスを提供するアプリケーションである。一対一の「個人チャット(「個チャ」とも略される)」や、複数人でのチャットが可能な「グループチャット(「グルチャ」とも略される)」などでメッセージのやり取りを行うことが可能である。また、「個チャ」での一対一の通話や、「グルチャ」での複数人を交えたグループ通話というものまで、全てを無料で利用することが出来るのだ。
朝倉、工藤、佐々木、皆川の四人からなる「グルチャ」に、皆川は『日常』のテキストをコピーアンドペーストによって即座に送信した。
スマホの画面は小さいが、軽くスクロールするだけで『日常』の全文が読めるほどの長さだった。なのに、その中に含まれているホラー要素が掴めない。
リスニングでは物語のおぼろげな全体像しか掴めなかったが、文字に起こされれば、その細部にまで目を光らせることが出来る。現に、『日常』のテキストが送信されてから、工藤も朝倉も佐々木も、自分のスマホの画面に釘付けになり、誰も話そうとしなかった。三人の黙考に呑まれて、皆川までもが黙り込んでしまっていた。
しかし、朝倉は天井を見上げた。
無理だった。
『日常』という文章で、「普段と変わりない」という、わざとらしい念押しをしている。時刻がやや詳細に語られるのもまた、何か叙述トリックでも仕込んでいるのではないか、と訝るが、そこから何も見えてこない。
まさか、と朝倉は姿勢を元に戻した。
皆川による悪質な悪戯だろうか。
実際には『日常』に怖い要素などない。が、これは「意味が分かると怖い」という植え付けによって、存在しないファクターを探し求める醜態を晒してしまっている。
あまりにも分からなくて、そんな気もしてきた。
しかし、皆川はそのようなことをする人物ではない。幼少期からこの手の怖い話に夢中だった、と先ほど話していたばかりだ。
どうやら左右の二人も、朝倉同様、進捗は芳しくないようだ。スマホの画面から目を離して天井を見たり、眉間を親指と人差し指でつまんだり、言葉ではなく態度で皆川に対して白旗を振っていた。
「分からないな」
正直に告白したのは、工藤が最初だった。
「そうだね」
朝倉もそれに賛同し、佐々木もやや小声だったが「いまいち分からないんだよな」と悔しそうに零した。
「そうだな、ヒントをあげると」皆川が話し始めたので、三人は再び神経を耳と脳に集中させた。「皆は一つ、決めつけている。だけど、それにそぐわないおかしな箇所があるんだ。それに気付くと決め付けていたことが崩れて、やがて真相に辿り着く。ある種のメタ推理も必要になる。解法はこんな感じかな」
「どんな感じだよ」と佐々木がツッコんだ。
皆川のヒントを聞いても、重要なヒントには思えなかった。しかし、工藤と佐々木は、内閣府の広報担当に質問を浴びせる記者のように、皆川にあれこれ聞いた。
「仕事に行って、帰ってきた人は実は別人、とか?」
工藤の破天荒な推理だった。
しかし「いや、同一人物だよ」と皆川が返した。
「殺人に絡んでる?」
佐々木が皆川に質問した。
「犯罪はあるけど、殺人ではないかな」
工藤と佐々木がいくつか質問を終えると、皆川は朝倉に目配せしてきた。まるで、そろそろ朝倉が質問する番だ、というような雰囲気になった。
しかし、どんなに考えても何も分からないため、「ちょっと難しいなぁ」と感想を言った。合コンでは「声作っちゃって」と同性から陰口を言われそうな、甘えた声を出した。
「そうだね、難しいね」と佐々木が反応した。
工藤を意識したのだが。
何かを自慢されるのでなければ、さして不快には思われないのが普通だ。ところが、佐々木が同調したことによって、あの朝倉の甘えた態度は佐々木に向けられたもの、と定められてしまったかのように感じられた。それが、えらく不愉快だった。
「僕は、降参かな」
ついに工藤が諦めた。とっくに諦めていた朝倉は「私も」と同調し、佐々木もやがては「答えを教えてくれよ」と降参した。
ところが、皆川はそれを拒否した。
「じゃあさ、これを課題にしようよ。三人で推理し合って、いつか提出してきてよ。大学生になっても、社会人になっても、定期的に会おうってことで」
そう言って、皆川は清純な笑顔を向けてきた。
「うわぁ、答えが気になって眠れなくなっちゃうじゃん」と佐々木が不平を言うが、皆川は「じゃあ推理頑張れ」と鞭を入れて取り合わなかった。
どうやら、どんなに頼んでも答えは教えてもらえそうにない。気にはなったが、怖いのが苦手な朝倉としては、これで「意味が分かると怖い話」が四人の間でブームになるのも嫌だったので、朝倉は文句の一つも言わずにただ黙っていた。
八月上旬から、朝倉たち四人の勉強会が、曜日が定まることはないが、週二回ほどのペースで西王谷高校の図書室にて開催されることになった。とりあえずそれぞれが自分の勉強をして、分からない箇所があったり壁にぶつかったりした時は質問をする。それだけの勉強会だったが、無意味に時間を浪費することは、朝倉たちはしなかった。行きと帰りの道では、普通の高校生らしく十分に話し込む。