第一章③
朝倉は、喉が凍結してしまったかのように、声を発することが出来ないでいた。
A判定と聞こえたが、聞き間違いだろうか。しかし工藤も皆川も言葉を失っていたので、そうではないのかもしれない。
「それが、えーっと、冗談なのかどうかが、判別できないんだよな」と絶え絶えに皆川が言うと「いや、マジだって」と佐々木は成績表二枚をテーブルの中央に広げた。
さすがに興味があって、朝倉も工藤の隣で覗いてみた。
第一志望・橋工大学 判定・A
確かにそのように記載されている。
「まじか、まじかっ、やったじゃん!」工藤がグラデーションのように段々と明るくなっていく口調で佐々木を褒めた。「嘘ついているのかと思ったよ、最初」
「いや、僕もそうだった。いつもの嘘かと」
皆川もそう言って、工藤と笑った。
「ひどいな、お前ら。俺だってマジの時はマジなんだよ」
佐々木は嬉しそうな表情で言い返した。必要以上に褒められた子供のようにニヤニヤしながら、後頭部をぼりぼりと掻いていた。
朝倉は成績表から目を逸らした。
朝倉としては、複雑な心境だったのだ。
同じ大学を志望している、チャラチャラして嘘ばかりのふざけ人間がA判定で、真面目なはずの自分はE判定だ。いくら人の見ていないところで努力している、と知っていたって、まるで自分の学習が全て否定されたかのように感じられた。
「この時期で橋工大A判取れるんだったら、東都大も目指せるんじゃない?」
他の人には気付かれない程度の嫌味と嫉妬を含めて、朝倉は佐々木に提案した。「私と同じ大学を志望しないでよ」という現実的な意味も含まれていたが、他は妬みや嫉みなどの邪な思いだった。
朝倉はそれを自覚していながら、提案せざるにはいられなかったのだ。それは、人気が急上昇していくアイドルに「整形してるんじゃないの?」とテレビ越しに吐く毒と似ていて、吐かずにはいられなかったのだ。
「うーん、どうだろうね。でも俺が東都大行ったら、朝倉が一人になっちゃうじゃん」
嫌味には全く気付いていない様子で、佐々木は冗談を言って「あははは」と笑った。皆川も「何言ってるんだよ」と笑いながらツッコんだ。
全く嬉しくなかった。
鉛を飲み込んだかのように、胃がずっしりと重くなった。
脈があるような素振りを続ければいつか振り向いてもらえる、とでも思っているのだろうか。
自分も、A判定だったら。
悔しくて泣きそうだった。ので、「じゃあ次は工藤くんと皆川くんね」と空気を切り替えるためにそそくさと促して、二人の発表の番になった。
いよいよ、大本命である。
やはり日本一の大学を志望する人の模試の結果の方が、誰のよりも見応えがあるのだ。
二人は話し合って、まずは皆川が発表することになった。
「先に言うと、これは完全に運だよ」皆川は三人に冷静に聞かせるように、落ち着いた声で言った。「判定は、『マーク模試』も『記述模試』もA判定だった」
朝倉も佐々木も工藤も「おおー」と歓声を上げ、そして拍手をした。周りに生徒がいたら絶対に出来ない動作だったが、今は拍手が暫く続いた。
「この時期に既にA判定かっ」と、佐々木が驚きを露わにした。食い入るように成績表を見て、ところどころを指差していた。
「お前もA判だけどね」
「うん、A判の俺が言うよ。A判定凄い!」
皆川は堪らず笑った。そして笑いが収まってから「はい、次っ」と工藤に発表を指示した。
「僕も同じだな」
そう言って工藤は点数を述べはじめたが、確かに言うだけあって得点率はかなり高かった。「マーク模試」では九割越え、「記述模試」では八割越えが多く、全教科の偏差値が少なくとも六十五を超えていた。
「僕より高いし、やっぱりAでしょ」
皆川が聞くと「そうだね」と工藤は言い返した。「『マーク模試』も『記述模試』もA判定だね」
「まじか!すごいな」
「凄いね、工藤くん」
朝倉と皆川は感嘆の声を上げた。
佐々木は「ほうほう」と冷静に成績表を手に取って「二人とも、夏の時点で東都大A判って」やや遅れて言った。「これじゃあ、もうやることねぇじゃん」
佐々木は成績表を工藤の前に戻した。
朝倉はその発言の中に、自分も抱いた劣等感の片鱗のようなものの存在を感じた。褒めているが、目の奥では笑っていない、そういう感情だ。
しかし、佐々木の気持ちも用意に想像がついた。敵対視していない皆川の成績に関してはどうでもよかったが、やはり工藤の好成績が認められなかったのだろう。ライバルの実力をしっかりと認められるほど、佐々木は大人ではないのだ。
「まあ、僕も運が良かっただけだよ」と返して、工藤は笑顔で謙遜した。佐々木の発言の意図など、風に吹かれる枯れ葉のように、頭の中から外へあっという間に吹っ飛んで行った。
座ったまま白い歯を零す工藤を、朝倉は隣で見ていた。
それだけで、心が満たされていく気がした。
模試の成績を一時的に忘れて、隣にいられる幸せをひっそりと噛み締めた。つい、表情が緩んだ。
朝倉は、工藤の笑顔が好きだった。
言うまでもなく、それぞれにはそれぞれの良い点がある。これは、全人類に共通する普遍性だと言える。例えば、皆川は常に冷静な大人だし、佐々木でさえ口が回るという長所があった。
ところが、工藤のチャームポイントだけは、一言では尽きなかった。佐々木ほど口が達者なわけではないし、皆川ほど大人びているわけでもない。
それでも、それでも、もう全部が好きだった。全てが魅力的で、だから長所が見えなくなってしまっているのだ。
朝倉が工藤に想いを寄せるようになったのは、初めて出会った高校二年生の日だった。明確な日付までは覚えていない。
しかしそれ以来、容姿と言動の全てが気になっている。朝倉は、「今頃、工藤くんは何をしているんだろう?」や「今頃、何を考えているんだろう?」とふと考えることが多かった。
とりわけ、その数は休みの日により一層増えた。一人で過ごす夜には、いっそのこと電話でも掛けようかと、ベッドの上で身を焦がすような体験を何度もしたことがある。しかし、夜遅くに電話を掛けて非常識な人間だと見なされるのが怖くて、電話はおろかテキストを送るのでさえ一悶着だった。返事が暫く来ないと、何か気に障ることを言ってしまったのでは、と物凄く不安になる。
好きだ。
相手の事が何もしていない時にふと浮かんでくる。
それならば、それは、好き、ということだろう。
しかし、恋愛にほだされている場合ではない。工藤を思って大学受験に落ちたら、それこそ本末転倒だ。一番のハッピーエンドは、両者が第一志望に合格することなのだ。そのためには、ここは現実的にならなければならない。
「何で私以外、皆A判定なの」
今一度自分の成績の悪さを思い出して、朝倉は嘆いた。
自分の成績と男子三人の成績の差を冷静に考えると、何とも言えない気持ちになった。A判定を取った三人に対して、朝倉は橋工大学のE判定。大学の偏差値でも判定でも、既に遅れをとっている。
現実の話をすると、八月の時点での模試の判定など、受験生にはさほど重要なものではない。学校の先生も、予備校の講師も、同様にそう言うだろう。
しかしそれは、周りの受験生も得てしてD判定以下に落ち着くから、という条件付きなのだ。第一志望に合格した殆どはC判定以下だった、というネット記事を朝倉は読んだことがあった。
朝倉の周りにいる男子三名は、このまま順当にいけば、荒波に出会うこともなく、浅い小川をビーチサンダルで水面を蹴りながら優雅に歩くが如く、第一志望合格を達成するだろう。工藤も皆川も、多分佐々木も、調子に乗って勉強をしなくなるようなタイプではないのだ。
例外的な三人の成績に当てられて、平均の朝倉が劣等感やら焦燥感やらを覚えるのも無理はなかった。
このまま、自分だけが不合格になったら。
朝倉は不安になった。
大学受験に失敗した工藤は、自分のことをどう思うだろうか。東都大学にはもっと賢い女性も多いだろう。
「皆そんなに頭が良いなら勉強教えてよー」
朝倉は机に突っ伏して泣き言を言った。しかし、成績表のEの文字が目の前に来たため、慌てて上体を起こした。ニーチェの『善悪の彼岸』なら読んだことがある。E判定を見つめればE判定もまた見つめてきそうで、朝倉は怖かったのだ。
「朝倉の苦手科目って何なのさ?」
工藤がそれとなく尋ねた。
「うーん、現代文かなぁ」
今回の「マーク模試」にしろ「記述模試」にしろ、現代文の偏差値は五十五ほど。つまりは、平均点をやや上回った程度なのである。橋工大学を目指す受験生の中では、下から数える方が早い位置にいるだろう。
「数学は?」と佐々木が質問した。
「数学は問題ないみたいなんだよね」
「だったらさ」皆川は一つ、提案をしてきた。「文系の橋工大じゃなくてさ、理系の東京一業大学で良いんじゃない?」
「東一大ねー・・・・・・」と朝倉は思案した。
それは尤もな提案ではあった。朝倉自身、そのことを担任の山辺先生や親に言われずとも、何度も考えたことがある。
東都大学に次ぐ都内の国立大学として、文系の橋工大学、理系の東京一業大学の二つが有名である。そしてそれら二つの一段階下に、「私学の竜」と名高い早應大学と慶稲大学がある。
数学が得意な国立大志望の高校生であれば、確かに東京一業大学を目指すのが順当だ。
それでも、と朝倉は首を振った。
「私は橋工大の方がいいんだよなぁ」
朝倉は捨てきれない思いを抱いていた。
「なんでそんな拘るのさ」と皆川に質問された。
朝倉はとつおいつした。
さあ正直に答えようか。いや、秘密にしようか。
「まあ、拘りだよ。いざとなったら、直前にもやばかったら、その時は東一大に鞍替えしようかな、なんて」
結局、朝倉はそう誤魔化して顔を背けた。
すると佐々木が立ち上がって、工藤と朝倉の間に立ったまま割り込んできた。
「現代文がやばいならさ、俺が教えるよ。だから橋工大目指そうぜ」
佐々木がそう言って、その流れで朝倉のむき出しな二の腕を軽く触った。
「うん、ありがと」と朝倉は言ったが、姿勢を変えて佐々木のボディタッチから逃れるようにした。すげない態度のお陰で、佐々木はすぐに自席に戻って行った。
佐々木に触れられた箇所から心臓まで、静脈を通じてゾワゾワと寒気を感じていた。鳥肌が走っているようだった。
橋工大学にこだわる理由。
まず一つ目として理系が嫌だったからだ。理系よりも文系の方がおしゃれなイメージがあるし、就職だって選択肢の幅が広いのは文系大学生だ。
そしてもう一つが、佐々木の存在だ。
佐々木からの好意。
ふとした拍子に体を触ってきたり、会話中に何かと距離を縮めてきたり、とありきたりだが佐々木からそのようなアプローチを、朝倉は二年生の頃から受けている。
朝倉の意識は、二年最初のクラスにまで遡っていった。二年一組に初めてクラスメートが集まった時のことだ。
一年生の時に同じクラスであっても仲が良いとは限らないため、やはり多くの生徒があたりをキョロキョロしていた。どのようなメンバーか、誰と仲良くなれそうか、とSPさながらに周囲を見渡していた。
部活動に入っている生徒だけは、そのようではなかった。どうやら横の繋がりがあるらしい。
しかし、朝倉は、さほど友達作りを意識していたわけではなかったので、誰と仲良くなろうが、クラスで一人になろうが、気にも留めていなかった。
私は私。
一人でも構わない。
友達作りよりも勉強。
こういった考えは、どちらかというと地味目寄りの考えだ。
しかし、一年時で垢抜けて自信を付けた朝倉も、そのような考えをずっと持っていた。外見は変わっても、主義信条は変わっていなかったからだ。
そんな朝倉に最初に話しかけてきたのが、隣の席に座っていた工藤だった。
「よろしく」
そう言って差し出された手を握るのに、幾何の戸惑いを感じて数秒を要した。いくら外見が変わったからといって、生まれ変わったからといって、ゼロの恋愛経験がプラスされたわけではなかったからだ。ゼロは紛れもない真実で、ファッショナブルな美容院に初めて足を運ぶのに緊張しなくなっても、いざ男子に触れるのは、それはそれでドキドキした。
「よ、よろしくね」と朝倉はぎこちなく握手したが、心臓の鼓動があまりに派手で、指先にまで脈動が伝わりそうだった。相手にそれがバレやしないかとヒヤヒヤしていた。男の人に触れるのは、思春期を迎えてからは初めてだったのだ。
それ以来、工藤と親しく話すようになった。
すると、必然的に工藤と親しく話す人物とも会話することが増えた。その中でも気になったのが皆川だった。他の生徒と違って工藤を「春樹」と呼んでいたからだ。工藤も皆川を「翔」とファーストネームで呼んでいた。
そのことを二人に聞くと、「僕らは幼馴染だから」と工藤に返された。曰く、小学校からの仲なのだそうだ。
幼馴染。
小学校の同期で西王谷高校に通えるレベルの頭脳の持ち主は、朝倉の友人にはいなかった。そのため、朝倉の人間関係は、山岸友美という例外を度外視すれば、中学以前で切れてしまっていた。つまり、朝倉に幼馴染はいないことになる。
が、それはそれで、むしろ今の朝倉にとっては都合が良かった。なぜなら、もしも幼少期から知るような幼馴染がいようものなら、朝倉の「高校デビュー」をことあるごとに弄ってきそうだからだ。
「朝倉って昔はめっちゃ芋でさぁ」などと言い触らされたら、堪ったものじゃない。かつての自分を否定するつもりなどさらさらないが、それをとやかく言われるのは嫌なのだ。
一般にはコンプレックスと呼ばれるものを持っていても、本人が気にしてさえいなければ問題ないはずだ。しかし、周囲に「あれ、コンプレックスらしいから触れちゃ駄目だよ」と気を遣われると、今まで気にしていなかったものが本当に気になり始める。
朝倉にとって「高校デビュー」をあれこれと言われるのは、それと同義だった。首筋を軽くつねられるような、そんな不快感だ。
高校一年のクラスメートは朝倉のかつての姿を知っているが、彼ら彼女らがデビューを揶揄するようなことはありがたいことになかった。もしかしたら陰でとやかく言っていたかもしれないが、朝倉の耳に届いてくることはなかった。
人間関係は、長さではない。大人になったら知り合って一年未満で結婚することだってあるのだ。
無論、工藤に好意を寄せるようになった後は、幼馴染というポジションは羨望の的になった。親密さは長さに依存することがなくても、共有できる過去が多くあるというのが、単純に羨ましかった。
いずれにせよ、それからは工藤、皆川、朝倉の三人で休み時間を共にし、一緒に昼食を摂っていくことが増えた。
その中で、もう一人メンバーが現れた。
それが、佐々木だったのだ。
佐々木は工藤と一年生の時に同じクラスで、皆川と朝倉は佐々木とは「初めまして」だった。だが、共通の友人であった工藤が積極的に話を振っていき、自然に工藤、朝倉、皆川、佐々木の仲良し四人組が形成されていった。四人とも帰宅部だったので、一緒にいられる時間が多かった。
ある日のこと、一年時にクラスメートだった工藤と佐々木の話になった。朝倉にとっては、全く知らない二人の話は興味深かった。
「工藤と一年の時にテストで対決しまくってたのにさ、負けてばっかだったんだよ」
悔しさと苦しさを混ぜた口調で語る佐々木が言うには、一年の時は、工藤とライバルだったそうだ。それでも敗戦が続く中で、佐々木は努力し続けて、いつか鼻を明かしてやりたい、と考えるようになったそうだ。
「佐々木が勝った時もあっただろ」
工藤は興奮する佐々木を、自分を下にして窘めた。が、佐々木の負けん気は、二人のバトルの詳細を知らない皆川と朝倉にも、手に取るように分かった。佐々木は工藤にコテンパンにやられたのだ。
「なかったよ。でも今年と来年で、絶対に勝つわ」と佐々木は勝利宣言をして、工藤は「まあ、負けないように頑張るよ」と渋々受けて立った。
工藤の積極性の無さは、完膚なきまでに叩き潰された佐々木に恨まれたら敵わない、という圧倒的余裕からのもので、だから嫌々だったのだろうと、朝倉は考えた。
二項対立を比較してみると、贔屓目なしに、明らかに工藤の方が上手だった。学生としても、人としても、だ。佐々木は軽やかな口調ながらも、顔が赤くなってもおかしくない必死さがあった。ムキになっているようだったのだ。
それ以来、朝倉は工藤と皆川と佐々木との四人メンバーで一緒に過ごしていた。よく佐々木から話しかけられることが多いな、と感じていたが、話しかけられるだけだったのだ。これは彼のコミュニケーション能力が高いからだろう、と自惚れた考えをなるべく振り払うようにしていた。
そして二年生の夏休みに入る直前、佐々木からの好意に朝倉が気付いた、決定的な出来事があった。
エアコンを発明したウィリス・キャリアというアメリカの技術者にノーベル賞を授与したくなるほどの、うんざりするほど暑い日だった。
通学時に直射日光で気力を奪われた朝倉は、二年一組の教室で、何もせずに涼んでいた。熱に浮かされた頭のままでは自習する気も読書する気も起きなかった。ただ何もせず、朝のホームルームが始まるのを待っていた。
すると、佐々木が「おはよー」と朝倉の席へ歩いてきた。
「おはよー」
この時、工藤と皆川はまだ登校しておらず、必然的に佐々木と二人きりで話をすることになった。
しかし、担任の山辺先生が来るまであと十分ほどだったし、既に佐々木とも打ち解けていたため、さほど気まずくはなかった。それに、佐々木が饒舌だった。こちらから話す必要がなく、気まずい沈黙も訪れなかった。
「朝倉は、今日の数ⅡBの小テスト、勉強した?」
「一応は。微分積分と、数列とベクトルでしょ?」
「そう。あれ、数学が得意なんだっけ?」
「まぁ、嫌いではないかな。でも、微分積分とか時々いっぱいいっぱいになったりするんだよね」
「あれは複雑だよね。まずは極限値について感覚的にでも理解出来れば大きいんだけど」
始めは、救われた思いだった。西王谷高校の生徒らしく、勉強の話をしていた。それが続いても、苦ではなかった。
ところが、段々と嫌に思えてきた。なぜなら、話題が佐々木自身のことになったからだ。話も面白くなく、ただの自慢話だった。
「俺ってさ、小一の頃から英会話教室に通ってたから、英語とかめちゃくちゃ出来るんだよね。発音もアメリカ英語で現地寄りだし」
「算数のテスト懐かしいな。表が五十点で裏も五十点のやつ。同級生の女が最後の問題解けなくて、でも俺がそれ暗算で解いちゃってたもんだから、泣かせちゃったんだよな」
「小学校の先生が中学校に連絡しちゃったぽくて、中学の時も先生とかから『神童』って呼ばれちゃってたな」
「俺としては、普通に生活してたつもりだったんだけどね。でも中学では、俺がモテてるからって因縁つけてきた不良とかと、マジでやり合ってたな」
小学生の頃の話。中学生の頃の話。過去の武勇伝に脚色という脚色を加えて、佐々木は朝倉にその詳細を身振り手振りで話していた。
勉強が出来た自慢に、悪さ自慢。
工藤に大敗していたはずの事実を端に置いて、朝倉は「へえ」「凄いね」「そうなんだ」と機械的に反応していた。一切知らないが、もしかしたらキャバ嬢は常にこういう気持ちなのかもしれない、と内心思っていた。
だが、それに佐々木は気付いていないようで、話はエスカレートしていった。朝倉が透明な声で言う「凄いね」という言葉が、褒め言葉に聞こえたのだろう。
「朝倉はどうだったの?小学校と中学校の時は?」
いきなり質問されても、反射で「へえ」と言いそうになった。
「普通だったよ」
「さすがに『神童』とか呼ばれなかったでしょ?そういう人とか周りにいた?」
「そういう人はいなかったよ」
そう言うと、佐々木は嬉しそうな顔をした。
「でも朝倉、ぶっちゃけモテたっしょ?」
「ううん、勉強ばっかりだったから」
高校デビューの話はさすがにしなかった。
「嘘でしょ。中学の時とか、先輩と付き合っちゃった感じ?」
恋愛遍歴を探られるのは嫌だった。一人もいないからだ。しかしそう言うと、佐々木は鼻の穴を膨らませてがっついてきそうだったので、朝倉は「ないよー」とだけ返した。
それから、佐々木は朝倉に根掘り葉掘り質問してきた。
「朝倉って電車通学でしょ?」
「そうだよ」
「どこに住んでるの?」
「電車で数駅離れたところ」
にごして答えないでいると、佐々木は「ふーん」とリアクションした。「朝倉って一軒家?」
「そうだよ。佐々木くんは?」
話されるのも嫌だし、聞かれるのも嫌だった。攻守交替ということで、朝倉は聞き返した。
「普通のマンションだよ。まぁ父親が高収入だから、本当は高級マンションとかにも住めるんだけどね」
「へえ、そうなんだ」
四人でいるときは問題ないのに二人きりで話すのはこんなにも億劫なのか。工藤との二人きりの会話は問題なかったし、皆川とも問題はなかったのに。これは、佐々木との会話にのみ起こることなのだろう、と朝倉は学習した。
「まぁでも、うちは屋上が開放されていてさ、そこから見える景色が最高に乙ってやつなんだ。これだけは認めてもいいかな」
止まらない自慢話から多少の方向転換があり、佐々木の自宅マンションの話になっていた。屋上からの景色を想像して、とりあえず「夜景とか綺麗そう」と言ってしまいそうになった。
危なかった。もしもそう言ってしまったら「今度一緒にどう?」と誘われていただろう。夜景なので、必然的に夜だ。それが狙いだったのだ。
朝倉は口角を上げて「そうなんだ」とだけ言った。反射的な反応は無意識故に楽で良いのだが、厄介なフラグが立ちかねない、と気付いた。
「屋上の縁に立って街を見下ろすとさ、景色は良いしスリル満天で、色んな意味で胸がドキドキするんだよ。俺って怖い物知らずじゃん?」佐々木は歩いて、椅子に座る朝倉に近づいた。「西王谷も屋上が開放されてるけど、うちとは根本的に違うね」
笑顔の裏で、そろそろ限界だぞ、と朝倉が思っていたところ、佐々木が突然話を止めた。そして朝倉の真横に移動してきた。
「それはそうと、朝倉ってさ、髪の毛綺麗だよね」
佐々木はそう言って、朝倉の後ろ髪を手櫛で梳くようにゆっくりと触ってきたのだ。流れる天然水に触れるように、指を髪に絡ませてきたのだ。
悲鳴を上げて走り逃げたくなった。まるで頭皮に鳥肌が立ったかのように、髪の毛の根元がゾワゾワと粟立った。
異性に髪を触れられるのは、人生で初めての体験だった。
が、朝倉はどうにか我慢して「そう?」と言って、机に体を密着させるように、座った状態で椅子を引いた。佐々木の手は空中で迷子になっていた。