第一章②
やはり、佐々木は恋愛対象ではない。あくまで友達止まりだ。その境界線を越えようとするのは、ただの傲慢にしか思えなかった。佐々木による朝倉へのいくつかのアプローチを思い出して、少しばかり嫌な気分になった。
「涼しくなるような魔法ないかな」
再三の文句を垂れる佐々木に、皆川が「怖い話だったらあるんだけどね」と告げた。
「長すぎないやつで頼むわ」
「もっと短くて、たった一単語だよ」皆川は人差し指を立てた。「俗に言う『知らない方がよかった雑学』ってやつさ」
「有名なやつだね。着色料に虫が使われているとかなんとか」
工藤が言った。
「それよりもちゃんと怖いかな。よく交通事故のニュースとかで『全身を強く打って死亡』ってあるだろう。あれの意味って知ってるかい?」
朝倉は知らなかった。
佐々木は暫く考え込んでから「そのままの意味じゃないの?」と返した。
「実際はそうじゃないらしい」
「僕も知らないな。どういう意味なんだ?」
工藤が素直に聞いた。
「テレビ業界の用語で『全身を強く打ち死亡』っていうのは『遺体は原形を留めていないほどに損傷している』ってことを意味するんだと」
佐々木は「うっわ」と顔を顰めた。「バラッバラってこと?」
「だろうね。そこまではいかなくても、四肢や首が欠損していたり、とかもじゃないかな?」
「そういえば、ちょうど今日の朝その言葉聞いたよ」
工藤が涼し気に言った。
「誰かが全身を強く打ったのかな?」
皆川は白い歯を見せながら軽妙に尋ねた。
「高速道路で十九歳の少年二人がバイクで死亡したって、今日の朝やってたよ」朝倉はニュース番組など見ないので知らなかった。佐々木も皆川も同じようで、ぱっとしない表情をしている。「二人乗りでスピード出し過ぎで、っていう典型的なパターンだったけど。その時に『全身を強く打ち死亡』って女性アナウンサーが何でもない風に話していたな」
「改めて考えると、ぞっとするね」と後ろから朝倉は言った。
怖いのは、実は苦手だ。
女性アナウンサーは自分の言っていることの意味を知っていて話しているのだろうか。十九歳の少年二人がバイク事故で、バラバラになった。
具体的な映像を思い浮かべるのが怖かった。不吉なイメージを振り払って、夏の暑さを堪能するよう気持ちを切り替えた。
そうこうしていると、やっと西王谷高校の校舎が姿を現してきた。
体内から水分を失われていた朝倉は、砂漠でオアシスを発見したかのような喜びを感じた。校門を横切る際に、軽く門に触れたが、その門は日光により長時間熱せられており、一秒と触れ続けることが出来ない程の熱さだった。危うく火傷するところだ。手のケアも時間とお金を掛けて入念にしているので、それだけは避けたかった。
生徒用の玄関は閉じられているため、職員用玄関で靴を脱いで片手に持ち、校舎内に入った。その際、窓口から職員室の中が多少見えた。夏休み中とはいえ出勤している教員がおり、教職の闇が僅かに窺えた。
それほど忙しいのなら、生徒に課す宿題を減らせば良いのに。
そんなことを考えながら、殆ど宿題を課されていない受験生の朝倉は廊下を歩いた。相変わらず前を男子三人が歩いている。上履きは生徒用玄関のロッカーにあるため、ひとまずそこを目指す。
どういうわけか、誰も声を発しなかった。朝倉たち以外には廊下に誰もいないため、辺りは妙な静けさに包まれていた。
灼熱の夏とはいえ、学校の廊下は冷えていた。靴下を通じて、普段は感じることのないその冷たさを、今はゆっくりと感じていた。
生徒用玄関で上履きに履き替え、次に上階の図書室を目指した。しかし、男子トイレを横切って女子トイレを横切る際、朝倉は意を決して三人に話しかけた。
「私、お手洗い行ってくるから、先に行ってて」
朝倉は彼らの返事を聞かずに女子トイレの扉を開けた。そしてスルスルと内側に身体を入れて、男子たちに女子トイレの内部を見せないように素早く閉めた。
入口すぐの用具入れを除いて、四つの個室が左右に、つまりは計八つの個室があった。その全ては未使用だった。
夏休みだから当然だ。こんな時期に学校に足を運ぶ生徒は、部活動に勤しんでいる一、二年生と、自宅でも塾でもなく学校の図書館で勉強する朝倉たちのような変わり者ぐらいだろう。
朝倉は一番奥の個室の扉を開けて中に入り、入ってくる者などいないだろうが、一応鍵を閉めた。そして上のシャツを脱ぎ、ブラジャーを外した。それらは洋式トイレの便座の蓋の上に置き、地面に置いた学生カバンからボディシートを取り出した。
上半身を丁寧に拭いていく。贅沢にも二枚使用した。「石鹸の香り」と銘打ってあるように、清潔感のある爽快な香りが個室を満たした。
実は外出する前に、既に別のボディシートを使用していた。それはメンズ用の汗拭きシートで、「瞬間冷却」と太字で宣伝されているように、一拭きすれば夏の気候であっても涼しく、風が吹けば寒く感じるほどのクール感があった。
そのおかげで今日、あの気温の中でも発汗をある程度抑えることが出来ていたのだ。それでも背中と脇に浮いてしまった汗を、今はレディース用のボディシートで優しく拭っている。
次は下半身だ。ワイドパンツと下着を脱いで、それも便座の蓋の上に置いた。靴下を除けば、必然的に全裸になった。
それでもここは個室なので、何にも誰にも憚らずにボディシートで左足の付け根から踵までを表裏の両面を拭いていく。もう一枚ボディシートを取って、同じことを右足にもした。
これで、汗対策は完璧だ。
多少浮いてしまった上半身の汗。通気性の良いワイドパンツとはいえ、夏には仕方のない下半身の蒸れ。全てが取り払われて、今は石鹸の香りがするボディシートの快適感が、全身を優しく包んでいる。
使用したボディシートを丁寧に畳んで、予め持ってきていた小さなレジ袋の中に入れた。この類のシートをトイレに流すのはご法度だし、サニタリーボックスに入れるべきものでもない。
下着を付けて、脱いだ服を再び着た。汗を吸収していた服が一部ピタッと張り付く感覚があった。しかし、サラサラのボディーシートのお陰で不快ではなかった。図書室は冷えているし、時間が経てばすぐに乾燥するだろう。
個室の鍵を開けて外に出た。周りを窺うが、やはり誰もいなかった。
少し歩いて、入口横にある洗面台の前に立った。位置的に、用具入れがギリギリ鏡の端に反射して映る。
朝倉は、鏡に反射する自分の姿を見つめた。
男子から聞いた話だと、男子トイレの洗面台の鏡は、非常に小さいらしい。洗面台が二つあり、それぞれの台の正面に大学ノート二冊分ほどの大きさの鏡がポンと設置されているだけ、と言っていた。
果たしてそれは本当だろうか。話を盛ってはいやしないか。男子トイレに入ったことのない朝倉には与り知らぬことだった。
今、朝倉の目の前にある鏡。洗面台は二つあるが、鏡は区切られておらず、正面の壁全体を覆っている。両手を広げて大きく振っても、手先が見切れることはないほどの大きさだ。
西王谷高校の校則によると、派手なメイクは禁止らしい。しかし、メイク自体は禁止されておらず、そのことはメイク用品を広げられるほどの大きさの洗面台が保証している。
与えられたものは存分に利用せんとばかりに、朝倉は学生カバンからポーチを取り出して、台の上に置いた。正面を見て直す箇所を確認する。
女にとって、夏の天敵は汗だ。臭いの元でもあるし、手間暇かけたメイクをぶち壊しにもする。汗が額から垂れようものなら、顔面に汗の流れた跡が刺繍のようにくっきり残ってしまうのだ。その際はティッシュオフをして少量のファンデーションで誤魔化すこともできるが、また汗をかけばまたメイク直し、と巡ることになりかねない。
幸運にも、今の朝倉にその必要はなかった。冷感ボディシートのお陰で、エアコンの効いた電車内では鳥肌が立ってしまうほど上半身が冷やされており、顔は発汗しなかったからだ。頭皮から流れ落ちる汗の雫が顔を伝うことは一度もなかった。
しかし、Tゾーンが皮脂で僅かにテカテカしていたため、油取り紙で対処し、上からプレストパウダーで整えた。
これで、身だしなみはばっちりだ。
前を見て口角を上げると、鏡の自分も同じ笑みを返してくれた。
しかし、朝倉は表情を崩して、深く溜息を吐いた。
朝起きてシャワーを浴びて髪の毛を整えてお化粧をして、を毎日繰り返す女子の苦労を、恐らく世の男子高校生は全く理解していないだろう。シャンプーにもトリートメントにもメイク用品にもお金を掛けなければならない気苦労を、世の男子高校生は全く知らないだろう。
西王谷高校の生徒といえども、乙女心など分かるはずもない。
そういえば、と朝倉は思い出した。
似たような話を、皆川と数か月前にしたことがあった。
「女の子の苦労も知らないで」と冗談半分に膨れる朝倉に対して、皆川は「いつも何時に起きてる?」とふいに聞いてきたのだ。
「んー、六時半には目が覚めてるよ」
プライバシーの侵害でもなかったので、朝倉は正直に答えた。いつもその時間あたりに起きて、ストレッチをして食事をしてシャワーを浴びてメイクをして着替えて、通学するからだ。言うまでもなく、同年代の女子の中で朝倉だけが早起きというわけではない。
「六時半か。あまりに早いな」皆川は、アメリカのコメディドラマのように、両手を挙げて驚きを露わにしていた。「僕はいつも八時だ」
「え、それで間に合うの?」
「勿論。五分で着替えて十分でごはん食べて十分で学校着いて、これで八時二十五分。五分前に学校に到着だよ」
皆川は指で顎をさすって微笑んだ。
羨ましい限りだ。
「時間が掛からない」とはつまり、その分をそっくりそのまま、休憩か勉強をする時間に充てることが出来るということだ。そのことを考えると、男子の生態と肉体が特権に溢れていると思われた。
朝早く起きる必要のない男子。生理痛に悩まされることもなく、ストレスを感じることもなく、時期に左右されず勉強に集中出来る男子。
受験では同じ問題を解くことになる。性別によって問題が異なることはない。が、そこに至るまでの過程は極めてアンフェアである。もしも勉強時間から精神衛生まで、何から何まで全くの同じ条件だった場合、言い換えれば性差が無かった場合、女子も男子と同じぐらいの成績を取ることが出来るのではないか。
私立大学では男女比率が五対五と同率であることがあるが、日本一の国立大学である東都大学には「二割の壁」というのがあり、女性の割合が極めて低いのだ。
朝倉は、その原因を女子の身だしなみや生理など、つまりは女性の不条理に帰している。
受験者の男女比率を同等にしても、合格するのはやはり男子が多いのだろう。大学のレベルが上がれば上がるほど、その差は大きくなるのかもしれない。しかしそれは、決して生物学的に男が優れているから、というわけではない。朝倉はそう考えていた。
例えどこぞの医学部の「フィルター」というものがなかったとしても、受験者数の男女比が偏っていなかったとしても、だ。勉強に充てる時間も精神面でも、男子の方が恵まれているからだ。
全くもって腹立たしい。
加えて、受験当日においても問題はある。
センター試験の日、私大入試の日、国立二次の日。このいずれかにおいて、高い確率で生理と被るのだ。それが滑り止めの受験日ならまだ救いがあるが、第一志望の日程と被ったら最悪だ。こればかりは、最後は確率頼みである。
この不安を、どの男子が抱いているというのか。
こちらがどれほど大変なのか、少しは考えてほしい。
朝倉は先ほどまでいた個室まで戻り、忘れ物がないかを見て確かめた。そして鏡の前に立って身だしなみをもう一度確認し、洗面所を後にした。
理不尽だ。
そのまま二階の図書室を目指した。階段の埃を八つ当たりのようにドシンドシンと踏みつけるようにして二階へ上がった。上履きを履いていても、次第に足の裏がジンジンと痺れてきた。
このような事象でピリピリしてしまうのは、もうしょうがないことだった。一生に一度の大学受験が迫っているからだ。特に、模試の成績や判定が芳しくない生徒にとっては、様々な事象がストレスの種なのだ。
バッグの中に入っている模試の成績表。
これが朝倉にとっては悩みの種だった。
しかし朝倉は、はっ、と気付いて、途端にゆっくりと階段を上ることにした。
廊下にまで響く自らの足音で、雨の日の運動部の練習メニューである「階段ダッシュ」というものを思い出したからだ。文字通り、階段を上って下っての繰り返しなのだが、放課後とはいえ教室に残っている生徒はいるというのに、彼らの足音はあまりにうるさいのだ。それについて、朝倉は何度か先生に文句を言ったことがある。
朝倉は、彼らと同じ騒音を立てていることに気が付いたのだ。ゆっくり上りだしても残りは十段もなかったし、夏休みなので騒音に注意する必要などなかったが。
二階にある図書室に着いた。
他の高校のよりも断然広い。入ってすぐが貸し出しコーナー、正面に十人以上が楽に座れる長テーブルが通路を空けて三つ並び、本棚を隔てて、次は六人掛けのテーブルが十個弱ある。こちらは「ダイニングテーブル」と形容しても構わない程のデザインが施されている。学校にありがちな黄色じみた木材ではなく、ダークブラウンのが使用されている。次に仕切りで区切られた一人用の自習スペースが数十席あり、そして、その奥にも本棚がずらりと並んでいる。蔵書も豊富だ。
上から見れば、入口、貸し出しコーナー、長テーブル、本棚、六人掛けテーブル、自習席、本棚、の具合になる。勿論、窓を除けば全ての壁が埋め込み式の本棚となっており、純文学もエンタメ小説も参考書も、『キャッチャーインザライ』や『グレートギャツビー』などのアメリカ文学の有名どころも用意されている。
これほど素晴らしい西王谷高校の図書室は、夏休み中の今も開放されている。が、そこに足を運ぶ生徒の数は、必ずしも多いとは言えなかった。それは、いつものことだった。
開放時間は朝の九時から夕方の五時まで、と定められている。そして、冷房の設定温度は、教員曰く、二十四度である。理想的な学習環境ではあるが、都立一の偏差値を誇る西王谷高校の生徒は、夏休みの間は学校の図書室ではなく、予備校や塾に足を運ぶようだ。あるいは、自宅でのみ勉強をする生徒もいる。
現にこの日も、朝倉が図書室に入ると、教員か司書か図書委員かが入口脇の貸し出しコーナーの奥で机に座って何かに没頭しているのが見え、正面の長テーブルには誰も座っていなかった。奥の六人掛けテーブルの一つに、工藤たち三人が集まって座っているのがようやく見えた。
「ごめん。お待たせ」
朝倉は椅子の脇に学生カバンを置いて、身体から発せられる今の香りを周囲に振り撒くように、駆け寄ってからノンストップで着席した。
有り難いことに、工藤の隣の席だった。正面に皆川と佐々木が着席している。
他に生徒がいない、とはつまり、遠慮する必要がない、ということだ。図書室といえども静かにする必要がないのは好都合だった。
今日は話したいことが山ほどある。そのことは周りの皆も承知していることだった。
「さあ、みなさん。お待ちかねの」
佐々木がいつも通りふざけた調子で、皆に目配せをした。彼が何を言いたいのか、何を望んでいるのか、工藤も皆川も朝倉も、薄々感づいていた。
「佐々木が何の話をしたいか、朝倉は分かる?」
隣に座る工藤が聞いてきた。
「模試でしょ」
その成績が悪かったので、少しぶっきらぼうに答えた。
「模試だな」
皆川は背筋を伸ばして答えた。準備万端、といった様子だ。
「うん、模試だろう」
工藤もゆっくり頷いた。
工藤、皆川、朝倉の解答が一致した。
佐々木の方を見ると、なぜか満足そうに頷いていた。考えていることを指摘されたというのに、自分の為だけに用意された舞台上の演劇を鑑賞する独裁者のように見えた。
「なんでそんなニヤニヤしてんだよ」と皆川が聞いた。「まさか、違うのか?」
「いや、合ってるよ。ただ、やっぱり考えること一緒なんだなぁって思ってさ」
「僕らはそう考えているわけじゃないよ。佐々木の考えを予想しただけだからね」
一緒にされては困る、と工藤が訂正する。
彼ら四人は、六月に受けた「マーク模試」と「記述模試」の話をしていた。今日集まる前に「模試の成績表を忘れずに持ってくるように」という取り決めがなされていたのだ。
佐々木がそれを真っ先に気にするのも、他三人からすると当然のように思われた。そういうのが、一番好きそうだからだ。同じ条件下で算出された偏差値という成績を基に、自分の能力と他人の能力を比較するのが、だ。
とりわけ、佐々木は工藤をライバル視している。志望先が異なるとはいえ、どうにかして勝ちたいのだろう。
「私、それほど成績良くなかったんだよね」
開口一番、朝倉は期待を持たれないために工藤の方へもたれかかるように頬杖をついた。
「僕は、悪くはなかったな」
皆川が反対の趣旨を言った。
「俺も朝倉と同じくらいかも」と佐々木が言った。
それを聞いて、朝倉は顔を顰めた。
もしも佐々木の方が良い成績を取っていたら、極めて腹立たしい発言だ。いや、佐々木の点数の方が間違いなく高いだろう。
朝倉はそう予想したため、より癇に障ったのだ。「朝倉と同じ」という匂わせるような発言にも、別な意味が込められていそうで鳥肌が立ちそうだった。
「僕は、まあ調子が良かったな」と感想戦前半を締めくくるように工藤が最後に述べた。
感想戦の後半は、成績を開示してからのお楽しみだ。「ここの問題が難しかった」「ここに時間が掛かった」などのやり取りになる。
ちなみに、第一志望の偏差値を基にランキングを付けると、彼ら四人のうち工藤春樹と皆川翔が上におり、その下に佐々木英輔と朝倉姫奈がいる。
工藤と皆川の志望校は、日本一の大学・東都大学である。朝倉と佐々木が目指すのは東都大学には一歩及ばない、それでも一流大学の橋工大学だ。橋工大学は文系の国立大学で、学部は「商学部」「経済学部」「法学部」「社会学部」の四つしかない。ちなみに佐々木は法学部、朝倉は経済学部を希望している。
「もうちゃちゃっと開示しよう」
皆川が鞄を膝の上に置いて、チャックを開いた。中をガサゴソと手を突っ込んで探り、透明なクリアファイルと取り出した。
「しょうがない」と工藤も準備を始めた。
成績表を手に持った皆川と佐々木は立ち上がって、机の一辺に並んで座ることにした。皆川、朝倉、工藤、佐々木の席順になった。それぞれが自分の膝の上で、二枚の成績表を周りに見えないように持った。これで、開示する際に全員の成績表が見やすくなった。
「マーク模試」と「記述模試」の成績表。四人は会場が異なれど同じ問題を解いているため、点数と偏差値で学力を競うことが出来るのだ。
手を胸に当てずとも、心臓の鼓動が強く感じられた。朝倉は自分の成績を知っているが、男子三人の成績を知らないのだ。
是非、知りたい。
他人の模試の成績。動画サイトにも「高学歴」を謳う投稿者による成績開示の動画がアップされており、再生数は他の動画よりも伸びる傾向にある。やはり、自分の成績のみならず、他人のレベルも人は知りたがるものだ。あれはその証左なのだろう。
朝倉も他三人の成績表を見ることができるので、ワクワクしていたのも事実だった。ただし同時に、若干の憂鬱さも感じていた。成績の悪さからくる羞恥もあった。
この四人の中でビリの自信がある。違いない。
東都大を志望している工藤と皆川にはそもそも勝てるわけがないし、同じ大学を志望する佐々木にしても、お調子者とはいえ陰で努力するタイプなのだ。佐々木は定期テストの点数なども極めて良好で、朝倉はテストで一度も勝てたことがない。そもそも張り合ったことすらないのだが。
四人が模試の成績表の顔合わせをするのは初めてのことだった。しかし、定期テストの成績から、朝倉はなんとなく結末が分かっていた。
私がダントツで最下位だ。
「最初にさ、橋工大の俺と朝倉から発表しない?東都大の工藤と皆川の後に発表するの、絶対嫌じゃん」
「俺と朝倉」という発言に若干の違和を感じたが、朝倉は仕方なく佐々木に賛同した。
「そうだね、じゃあ私から言っていい?」
こういうのは、先に発表するに限る。
朝倉は、もうどうにでもなれ、という意気で発表した。
最初に「マーク模試」の各教科の点数と偏差値で、続いて「記述模試」の点数と偏差値だ。
二次試験の点数が重要視される国立大学を志望する人間にとっては、一次試験であるセンター試験と形式の似た「マーク模試」は、実際のところ、お遊びのようなものだ。
真剣なのは二次試験型の「記述模試」の成績であった。特に橋工大学に関しては、センター試験は足切りにのみ用いられ、二次試験の点数のみで合否が決まる。東都大学にしても、九百点満点のセンター試験は百十点満点にまで圧縮され、四百四十点満点の二次試験と合わせて五百五十点満点の試験となっている。
しかし、どの大学にも共通しているのは、二次試験においては「六割を取れれば合格圏内、七割で安心」という指標だ。現実でも的を射ていて、私大入試においてもこの割合は参考に出来る。
「『記述模試』の点数がこれで、第一志望・橋工大学、判定は、E判定です」
朝倉はそそくさと事務的に発表を終えて、後ろ髪が肩を越えて胸元まで垂れてくるほど俯いた。
プレゼンに疲れたから、というわけではなかった。A判定であれば、もっと胸を張って堂々と出来ていたはずだ。後ろ髪はその名の通り、背中に流れていたはずだ。
「なるほど」
工藤が頷いた。
「ほう・・・・・・」
皆川が、得点と偏差値をジロジロと覗き込んだ。
せめて何か言ってほしい。
姿勢をある程度正し、席に座ったまま足を机の下でブラブラさせ、唇を尖らせた。朝倉は、不服を全身で表した。
「まあでも、E判定のEは『行ける』の『E』って言うよ」
受験生に対してよくある慰めを佐々木が言った。D判定は「大丈夫」で、F判定は「不死鳥」を意味する「フェニックス」らしい。フェニックスのスペルはphoenixのためFではない、というオチまでついているネットのジョークだ。
「ん、ありがと」と朝倉は感情のこもっていない声で返した。
「でも夏の時点でE判定は当たり前だよね」
「確かに。これからグングン伸びていくよ。僕らも協力するし」
東都大を志望している工藤と皆川が丁寧に励ましてくれた。
何だか、より惨めだった。
「自分も同じような成績だった」と彼らが言ってこない時点で、朝倉以外の人間が、椅子に寄りかかることが出来る程度の成績を獲得していることが確定した。そんな彼らからの「大丈夫」は、大丈夫ではなかった。
嬉しいのだが、なんとなく嫌だという矛盾。工藤の励ましでさえもあまり受け付けられないのは、あるいは好きな人に対して「一人にして」と言ってしまう自家撞着と同じ種類のものかもしれなかった。
「次は、俺か」と佐々木が成績表を手に取り、そしてわけもなくあたりをキョロキョロと見回した。別に誰も盗み見たりしないから早く発表しなさいよ、と朝倉は心の中で毒づいた。
「橋工大学。先に判定を言うと、『マーク模試』も『記述模試』も、A判定ですね」
「え?」
工藤の口から、間の抜けた声が漏れた。
佐々木による衝撃発表で、空気が凍った。