第一章①
一般家庭のカレンダーが八月に捲られ、テレビのお天気アナウンサーも、いよいよ「猛暑日」という言葉を頻繁に使い出した。ニュース番組では立て続けに熱中症患者の数が報じられ、「適度に水分補給を」を日常の挨拶かのように使い回していた。
「暑い。暑過ぎるぜ」
佐々木英輔が、上に着ている白シャツの中央あたりを摘み、バサバサとはためかせながら言った。本来はポンプのように空気が服とトルソーの中間に送り込まれて涼めるのだろうが、それでもどうやら効果が薄いらしく、その動作を先ほどから永遠と繰り返している。暑さからか、それともその動作で腕を酷使しているからか、息がやや上がっていた。
蓄積されてきたイライラで、ついにはバサバサという音まで聞こえてきた。「摘む」から「握る」に変わっていた。女子高であれば散見されるらしいが、共学の女子生徒は絶対にやらない行動だ。
朝倉も夏の暑さは嫌いだったが、気候に対するそしりはしりなど無意味だと割り切って、背筋を伸ばして歩いていた。
「このままだと、十二月には九十度超しちゃうんじゃねぇか」
佐々木は左手をTシャツの裾から内側に入れ、顔の汗を拭きながらいつも通りの調子でジョークを言った。その動作中、シャツの裾がまくりあがって、佐々木の腹筋がはだけるように露わになった。
しかし、朝倉は佐々木の腹筋をちらりとでも見ようとは思わなかった。むしろ朝倉は、道端に放置された犬の糞に対してと同じように顔を背けた。
見たいとも思わないからだ。
鍛えられている運動部員がすれば、いくつかの女子はキュンとするアクションだろう。普段はお目にかかれない、男性らしいパーツだからだ。男子が女子のうなじに目を奪われるのと、原理は同じのはずだ。
普段は意識していないはずの異性であっても、考えが変わる可能性はある。しかし、普段からネガティブなイメージを持っていた場合、良い印象に変わることは有り得なかった。
友達でいられればいいのに。
その関係で大満足なのに。
どうして距離を詰めたりするの。
距離を詰めたりするから、嫌な気になるのに。
そうしなければ、大切な友人でいられるのに。
身体も見ないし、ジョークに対するツッコミも入れない。
夏の太陽に触れ続けられないレベルで熱されたアスファルトが陽炎を浮かべる通学路を歩き続けながら、朝倉は深呼吸をした。息を吸入するだけでも、肺が温まる気がした。
他の男子二人も暑さで気力を奪われたか、佐々木のジョークにツッコミを入れるのを暫く控えていた。誰かのスピードに歩調を合わせていたわけではなかったが、全員が普段とは違ってゆっくりなペースで足を動かしていた。
「よくもまぁ、そんなふざけたことを言う余裕があるよな」
ツッコミではなかったが、数秒遅れて工藤春樹が漸く反応した。工藤の頬を伝う汗が、歩く振動によって揺さぶられて、やがて顎へスルスルと垂れていき、彼のTシャツの胸あたりに落ちた。ロウソクの炎のような流線型のフォルムが染みとなって現れる。
佐々木のケースと違って、朝倉からすると、それは目を逸らすべきものではなかった。
むしろ、逆だった。短髪に汗がよく似合っていた。
もしも工藤が佐々木と同じように、シャツの裾で顔の汗を拭ったりしだしたら、どうなるだろうか。朝倉は恥ずかしさに顔を赤くして俯きながら、ダメだと分かっていながらも、黒目だけを横に移して凝視してしまったことだろう。
「何だよ、間が悪ぃな。俺だって暑くて死にそうなんだよ」佐々木が悪態をつき、溜息もついた。「この暑さは誰の責任だ?どの政治家が悪いんだ?」
朝倉は目線を少し下げて、歩く五メートル先に目を落とした。燦然と輝く太陽のギラギラした光線に冗談でもなく焼かれてしまいそうだったので、良い姿勢を保てなくなったのだ。
「大声を出したりして盛り上がると、もっと体温が上がって暑く感じるよ」
皆川翔が事態を落ち着かせようと、冷却材を投げ込むかのようにコメントを挟んだ。やや長髪気味の皆川は、誰よりも頭部が暑そうに見えた。女子にも劣らないサラサラヘアーなので気持ち悪くは見えないのだが、今頃太陽光の熱を誰よりも吸収した皆川の頭部は熱を帯びていて、頭頂部で目玉焼きが作れてもおかしくなかった。長時間手を置くことは、難しそうだ。
「そうしなくても暑いよ」と、佐々木は反論した。シャツをバサバサとしたり手でパタパタと顔を扇いだり、大忙しだった。「うちのマンションの子供なんか、上裸で廊下を走り回ってるぜ。水風船で遊んで、あたりはびしょびしょでさ」
「子供のすることだしいいんじゃないか」
工藤がまともな意見を言った。
「俺だって否定派じゃねぇよ。むしろあれ見ると、水鉄砲とか水風船とか、水遊びしたくなるんだよな」
「じゃあ、一緒に遊べばいいじゃないか」
皆川が言った。
「相手は小学生とか園児とかだぞ」
「それは、不審者だね」
工藤が口に手を当てて笑った。
「童心に戻って、水風船で戦争でもしねぇか?」わりかし本気の口調で、佐々木は誘いを掛けた。まさか私を誘っているわけではないだろうな、と朝倉は身を引いた。「何ならさ、一日だけでも海とかも行きたくねぇか?」
水遊びは下着が透けるし、海は水着ではないか。
朝倉は口を閉じた。
「いいアイデアだね」工藤の第一声は賛成的な言葉だった。「でもさ、受験の息抜きをするのなら、なるべく近場で屋内で平和的なものがいいな」
「そうだね。海に行くのは受験が終わってからにしよう。受験後なら朝から夜までいられる」
皆川も工藤に賛同した。
「受験後って、三月とかじゃねぇか。海は夏だぜ」
佐々木は不服そうに口を尖らせた。
「なら、大学一年生の夏に、また集まろう」
工藤の提案に「それなら悪くないな」と佐々木も頷いた。
まさか、本格的に海に行くのだろうか。
洋上ヨットを眺めながら砂浜をゆっくり歩く、という工藤と二人きりの海デートならいつでも歓迎だった。悩殺するためのスタイルは維持できている。
しかし、それを他の人に見られるのは嫌だった。
「夏の水遊びは、あのガキ共ので勘弁するか」
佐々木は後頭部で首を組み、上体を逸らしながら歩いた。
「眺めてるだけでも納涼じゃないか?」皆川はスマホを手に取って、画面を確認してからポケットにしまった。「それに、打ち水の効果は証明されている」
「ただ、共用部分のフロアが濡れてると、確かに危ないかもね。滑って転んだら危険だ」
工藤が顎に手を添えた。
「そういや、どこまで認めるべきか揉めてるって言ってたな」佐々木は熟考しながらウロウロする探偵のように、今度は猫背になりながらノロノロと歩きだした。「庭とかは直射日光で良くない、マンション内は屋外と比べると風の通りも良いし日陰だしで涼しい、でもそれで落ち着いていられる子供じゃない、ってことで」
佐々木はすぐに背筋を伸ばして、首筋に右手を付けて左右に勢いよく曲げて骨をコキコキと鳴らした。そして、右の掌に付着した汗をシャツでゴシゴシと拭った。
「そういうのは難しい問題だよね。指摘をする人にも、文句を言う人にも、その人なりの言い分があったりするし」工藤が言った。「子供の騒ぎ声が苦手って人も多いらしい」
「でも、夏休みなんだし、昼間とかに子供の騒ぎ声とかが聞こえても、平和の象徴に思えるけどね」
皆川はもっともらしいことを言う。子供の騒ぎ声に文句を言う大人よりも、皆川は大人に見えた。
「子供はとんでもないことやるんだよ。知ってるか?エレベーターの中の監視カメラめがけて、エアガンをぶっ放してた奴がいたんだよ」佐々木は意地悪そうに口角を上げて、右手の親指と人差し指だけを伸ばして他の指を握り、銃の形を作ってバンッバンッ、と動かした。「管理人が更年期障害かってぐらいキレてたわ」
それを聞いた工藤と皆川は、プッ、と吹き出した。
朝倉も少しだけ笑みを浮かべた。
子供の行動もそうだが、佐々木の表現技法が単純に面白かった。
これが辛い点だった。
異性としては佐々木に全く興味ないし、オンナとして見られるのが不快極まりない。が、友人としてなら全然問題ないのだ。
佐々木の身体から目を背けながらも、彼のジョークには笑う。心に浮かぶ軽蔑も、いくつかは「普通の友達のままでいてくれたらいいのに」「異性として意識して欲しくなんかないのに」という当て擦りのようなものでもあった。
朝倉が佐々木に対して抱える感情の矛盾は、それで説明がついていた。
「そんな好戦的なキッズがいるのか。なら、逆説的に防犯もばっちりじゃないか」
皆川が皮肉を言うと、佐々木は笑った。
「エレベーターにしかない監視カメラがおじゃんになったら、それこそ一巻の終わりだけどね」
「え?他の所にはないの?」と工藤が聞いた。
「そう。増設の話は一応あるらしいんだけど、そこに住んでる老人たちがプライバシーだなんだ言ってて大反対なんだと。厄介な老害たちだってさ」
「そういう考えの人っているよね」意見の異なる相手に、工藤は敵意を抱かない人だ。可能な限り理解を示そうとしている努力が、その柔らかい声音に現れていた。「電車内にも防犯カメラを設置するか否かで賛否両論らしいね」
「痴漢の冤罪で逮捕されるよりは、防犯カメラをバンバンにつけてほしいとは思うけど」
皆川は熱を持った髪を手櫛で梳いた。
朝倉はゆっくりと息を吐いた。
三人組で歩く際に独りぼっちになることは度々あるが、今は男子が三人で盛り上がり、女子の朝倉が孤立している様式だった。
変に話を振られるのも嫌だったし、彼らに朝倉を無視している意図もないだろう。それでも、もしかしたら自分が見えていないんじゃないかと若干不安になった。
一緒に盛り上がれたら。
しかし、男子と女子とで「盛り上がる」は異なるのだ。それに、四人の間で佐々木は朝倉が好きなようで、朝倉は工藤が好きだ。こういった交差した感情もまた、僅かばかりの心理的距離を朝倉に抱かせるには充分だった。
朝倉たち四人は、彼らが通う西王谷高校を目指している。
最寄り駅であるK駅で待ち合わせをして、徒歩で高校へ向かっている最中なのだ。が、あまりの暑さに、歩いて十分の通学路の途中で、既にギブアップ気味になってしまっているのである。足のふらつきを見れば、セコンドの人間はタオルを投げ込むかもしれない。
朝倉は歩くペースを落とした。ゾンビのようにゆっくりと歩く男子たち三人の後ろを付いていく形になった。
全員、私服だ。朝倉自身も私服を着ている。
これは、夏休み期間だからというわけではない。都立一の偏差値を誇る西王谷高校は、私服登校を認めているのだ。一応の標準服として制服のようなものもあるのだが、それを着て登校する人物は全校生徒の一割に満たない。
結果として、工藤、佐々木、皆川の三人の私服姿を今更見たところで、残念ながら新鮮さなど微塵も感じないのである。
朝倉は、自分の服装を確かめる。
ノースリーブの爽やかなグリーンのTシャツに、ボトムスはベージュのワイドパンツ。夏らしい涼しげなコーディネートだ。肩から下げている学生カバンがなければ、三百六十度どこから見ても問題なかったのに、と残念に思う。
学生カバンさえなければ。
しかし、これぐらいにしか沢山の教材は入りきらないのだ。
このような、風采を意識した服装をしている生徒は、実は西王谷高校にはある程度いる。進学校という冠から「芋っぽい」という偏見が向けられがちだが、それは誤りなのだ。
そのことに、朝倉は入学してから気が付いた。入学する前は、性別問わず全生徒がジーパンにチェックのシャツを着ている、と思っていたが、予想以上に流行に敏感な生徒がいて驚いた。
前を歩く三人も、決してダサい服装をしているわけではない。チノパンやジーパンに白や黒のシャツなど、シンプルながらも清潔感のある服を着ていて、遠くから見たら大学生と遜色ない。
話し合いながら盛り上がっている男子三人を後ろに見ながら、朝倉は笑みを浮かべた。今では、弟たちを眺める長女のような気持ちをどことなく抱いていた。
自分の服装。
メイクやおしゃれ。
二年前のことを思い出した。
同年代の女子と同様に化粧をするようになり、ファッション雑誌を購読するようになったのは、高校一年の夏休みからだ。夏休みに入るまでは、同じような雰囲気の、上京したての田舎出身人間のようにファッションに疎い生徒たちと同盟を組んでいた。
しかし、一年の夏休みを期に変わったのだ。
それは、中学校で親友だった山岸友美と夏休みに駅で偶然再会したのがきっかけである。その時に、朝倉は彼女に気付けなかった。朝倉の知る彼女はそこにおらず、全く別な女性が朝倉に突然話しかけてきたのだ。
向こうからすると「変化のない朝倉姫奈」といった感じだったろうが、朝倉からすると「『どちら様ですか?』の他人」だった。名前を訪ねてようやく気付いたが、それでもその衝撃は暫く胸中から去らなかった。
「カフェ寄ろうよ」と半ば見ず知らずの山岸に誘われて駅近の喫茶店に入り、席に着いてからそのことを問い質した。
「もうJKだからね」
山岸はそのように答え、朝倉の知らないラテン語のような十数文字のメニューを店員に注文した。朝倉が頼もうとしたのは、おばあちゃんにも通じる全国共通のアイスコーヒーだった。
友人のナチュラルな化粧と、フェミニンな服装。
かつては図書館で時間を共に過ごした友人と言葉を交わす、おしゃれなカフェの雰囲気。
朝倉は、ホグワーツにいるような気がした。
あるいは、王族の城か。
シンデレラも実際はこのような感覚になったに違いない、と確信していた。俗に言う「身分違い」が痛切に感じられるほど、別世界感が溢れていたのだ。
その場で、朝倉は席を隔てた友人に頼んだ。頭を下げて「どうすれば垢抜けるのか」というアドバイスを請うた。
朝倉自身も高校生になってから、今までは興味もなかったファッションに、風船のように意識が膨らんでいたのだ。
いや、現実の風船よりもたちが悪かった。
それは破裂せずに、そのまま朝倉の心中で範囲を拡大し続け、やがて現実と理想とのギャップに息苦しさを覚え始めていたのだ。かといって一人でどうにか出来るわけでもなく、母親に相談するのもなんだか恥ずかしく、その場で耐え続けるしかない状態が続いていた。
「私も最初は何一つ分からなくてさ。でも今通ってる高校ね、姫奈ちゃんほど頭良い所じゃないから、キラキラしてる女の子多いのよ」店員がやって来たので、話を止めた。二人は目の前に置かれた飲み物を、とりあえず一口飲んで、味の感想を言い合った。「それで、入学早々『遅れてる』って気付いて、ネットで『垢抜ける方法』って調べたんだ。後は、一つ一つ実践していったんだよね」
朝倉はスマホを取り出して、メモの準備をした。親友のアドバイスを一言一句聞き逃さないように、授業中の姿勢で臨んだ。
「とりあえず、メイクすることかな」
「なるほど、お化粧か。でも私したことないよ」
「私だってそうだったよ。だからお姉ちゃんに色々聞いたり、動画で学んだりしたの」
「動画?」
「そう。今じゃMETUBEに色々上がってるから、それを見ながら実際にやってみたり」
なるほど、その手があったか。
頭の中で考えるばかりで行動に起こしていなかった朝倉は、この手を一度も思いついたことがなかった。
ずっと前に読んだ推理小説で、大学で物理学を教えている先生が「今の生徒は頭の中で考えるばかりで、実験をしようともしない」と嘆いていたシーンを思い出した。
意識だけ持っていて行動を起こさないのは、愚か者ではないか。アイスクリームを食べながら「痩せたい痩せたい」と言うのと、非合理性で言えば同等だった。
朝倉はスマホの「メモ帳」に「お化粧 METUBEで練習」と打ち込んだ。
「でもお化粧っていっても、何をどうすればいいのか分からないや。色々使うでしょ」
「そうだね、大まかに言ってもファンデーション、チーク、アイブロウ、マスカラ、アイシャドウ、リップ、うん、言い切れないや。全部にお金が掛かるね」
そう言って、友人は笑った。歯並びが綺麗だったし、ツヤ系の透け赤リップもまた、煌びやかでみずみずしかった。
「とりあえずお化粧ね。メイクか」
朝倉はメモに文字を打ち込んだ。しかし、それだけでは不安で、頭の中で暗記するように反芻した。
「他には?」
「うーん、姫奈ちゃん髪の毛は綺麗だし、清潔感は問題ないからなぁ。髪の毛染める?」
「うちの高校は染めてもオッケーだけど、でも黒のままがいいかな」
「まあそれは問題ないよ。じゃあファッションだね。フェミニンなの着ればいいよ」
フェミニン。
二十一世紀に入ってからは多様性が叫ばれ、男性らしさや女性らしさの見直しがなされている。
だが、今現在でも、異性からの人気は衰えないようだ。
しかし、生まれた時から存在している概念であるはずの「女性らしさ」が、イマイチ把握出来なかった。それも、雰囲気やオーラなどといった形而上的なもののみならず、ファッションにおける色合いや組み合わせといった形而下的なものでさえも、朝倉にとってはあまり縁のないものだった。
「調べれば出てくるかな」
「間違いなく出るよ。だからあとはやる気の問題じゃない?」
その後、SNSのアカウントを交換して山岸と別れた。
自室で一人、ベッドで横になりながら「女子 垢抜ける」などの検索を掛けた。すると、確かにそのようなサイトが数多く存在していた。ヒット数を見れば、自分と同じ考えを持つ人間の多さを知ることが出来た。しかし、友人の言った通り、大体は「メイク」「ファッション」の二つに結論が収斂していた。
朝倉はそれらのサイトをブックマークに保存し、いつでも調べられるようにした。
人間には得意不得意がある。そんなことは分かりきっていた。しかし、一度も挑戦せずに放置してしまうのはあまりに勿体ない。生まれ変わって人生が劇的に変わる可能性を、みすみす逃してしまうかもしれないからだ。
お金なら、お母さんが出してくれる。
努力なら得意だ。
春には第一志望の高校に合格したのだ。
では、夏には・・・・・・。
これから生まれ変わろう、と決意した。
それから二年ほどが経って、高校三年生の夏、今に至る。
校則が厳しい高校に通う山岸からは、今では「染めてオッケーなら染めればいいのに」と嘆かれているが、それでも彼女のお陰で朝倉は以前よりも見間違えるほどの変貌を遂げた。ショッピングに出かけた際、街中で見知らぬ男性に声を掛けられることも多くなった。
多くなったのだ。一回や二回の騒ぎではない。
こんなこと、今までの人生では考えられなかった。中学生の時は男子と話すだけで緊張した自分が、ナンパしてきた彼らを余裕であしらうことが出来るようになっていることも衝撃的だった。外見が変わって自信が漲り、それが態度となって表れてきたのだ。
だからこそ、今だからこそ、後悔していることが一つある。
制服で登校したい。
中学生の頃は「制服JK」などというステータスに、一切の価値を認めなかったのに。今となってはそれが羨ましくて仕方がない。高校のメンバーとディズニーに行った山岸の制服姿がSNSでアップされて、それを見た時も羨望が爆発した。「制服ディズニー」というテキストがより輝いて見えた。
西王谷高校の標準服は、お世辞にもおしゃれとは言えない。可愛いとは言えない。ファッションに気を付けるようになってから「可愛い」「ダサい」の境界線がある程度分かってきて、その目利きに今度は苛まれているのだ。
可愛い服が着たい。
制服が着たい。
可愛い制服が着たい。
欲が生まれて止まらず、今ではそのことに悩むことが屡々ある。
そんなことを思い出しながら、前を歩く三人の雑談に耳を傾けた。三人は、そんな朝倉の悩みなど全く気付いていないのだろう。
しかし、彼らもまたコンプレックスの話をしているようだった。彼らというより、佐々木が、だったが。
「身長が百八十ぐらいあったらなぁ」
天を仰ぎ見ながら文句をつけるように、実際には百六十五センチメートルぐらいしかない佐々木が願望を言った。
「まーたそれか」工藤はそう言って、もううんざり、と顔に浮かべて相手にせず、励ましの言葉も言わなかった。「気にし過ぎなんだって、ほんとに」
「お前ら二人は良いよな、平均を超えていて」と佐々木は言い返して、やはり、はぁー、と皆に聞こえるように溜め息を吐いた。
工藤と皆川の身長は、二人とも百七十五センチほどだ。高身長とは言えなくとも、日本人の平均身長は超えている。
「永遠の悩みだわ。所謂『三高』のうち二つは努力次第で達成できても、『高身長』だけはどうにもならない」
「身長を重視するような女性とは付き合わなければいいだけだろ」
このままでは愚痴が止まらない佐々木を皆川が落ち着かせるが、佐々木は「恋人とラブラブの人間に励まされても嬉しくねぇよ」とぶっきらぼうに言い捨てた。そして、わざとらしい大きな舌打ちをする。
その態度が良くないのだ、と女子の朝倉は思った。
低身長であることを永遠にグチグチ言う、その姿勢が受け入れられないのだ。
どうしてそのことに気が付かないのだろう。
いつも人を笑わせている佐々木が、身長に関しては、不思議と自虐ネタの一つも言えなくなる。
よほどの悩みなのだろうか。
しかし、例えば、とある女子生徒が「私、胸小さいから」と他人の言うことを全部無視してネガティブな考えに固執していたら、ことあるごとにそう零していたら、それこそ男子は嫌気が差すに違いない。
それほど女子は即物的ではないことに、男の佐々木は気付いていない。その事実が、朝倉をややうんざりさせた。冷たい眼差しを、灼熱の路上を歩く佐々木の背中に向けた。