第二章⑤
九月四日木曜日。
夏休み明けの学生にとっては、このあたりが踏ん張りどころだった。夏休み明け初日あたりは、長期休暇が終わってしまったという絶望に対して、それでも久しぶりに会う友人たちとの交流という光りを差す。
しかし、それにも次第に慣れてくるのがこのあたりだ。まだ金曜日であれば、ラスト一日、とファイナルラップに突入したマラソンランナーのように、気合のみで何とか残りをやり切ることが出来るだろう。
が、今は木曜日、頑張ったところで翌日も学校がある。友人との雑談も、夏休み前のものから、夏休み中の思い出話、例えば家族で旅行に行っただ、他には夏祭りに異性と行ってイイトコロまでいっただ、秀才集う西王谷高校でも語られる俗世の話も、いよいよ尽き始める頃である。
やがて、一つの話題に収斂していく。
受験生である、という事実だ。
受けた模試の点数。現在の偏差値。変えようか悩んでいる志望校。志望校の倍率。キャンパスの美しさ。男女比率。おしゃれか否か。
それら現実から逃避しないのが西王谷高校の生徒だ。彼らは一様に集中度を増し、授業中の私語は当然に失せ、休み時間にも参考書や単語帳に没頭する生徒が、今まで以上に増え始めた。
都大会にまで出場していた部活動も夏休みで完全に終了したため、部活に勤しんでいた一部の生徒は後れを取り戻すために、一般の生徒以上に、今まで部活に費やしていた情熱を注ぐが如く、机に向き合っていた。
このような状況下で、朝倉たちは受験勉強をそっちのけで調査していた。それを大々的にアピールこそしていないが、やはり噂は広まっていくので、「どうだった?」「何か分かった?」などの探りを入れてくる人物や、はたまた「勉強しないで、あのままじゃ落ちるね」と、民放のニュース番組に出演する自称評論家のように批判する人物まで、周囲の関心意欲態度は多種多様であった。
しかし、調査を指揮している工藤と皆川の成績が、先生から朝倉たちへの注意や警告を留めていたのも事実である。そして、その際に「朝倉は勉強に集中するべきだ」などと、成績のみに基づいた差別発言をするほど、先生たちも能無しではなかった。なぜなら、進学校では度々起こることだが、先生に対して名門大学の過去問を突き付けて「先生は解けるんですか」「僕はこの問題を十五分以内で解きましたけど」などと挑発する、先生よりも頭の良い厄介な生徒がこの高校にも時折いるからだ。
「名門校の生徒は品行方正で礼儀正しく、校則の一つも犯さない真面目な生徒」という偏見はむしろ間違いで、知識や学識があるからこそ、全面戦争を仕掛けるということがある。先生は、彼らの内なる炎に、まだ赤色のそれにガソリンを注がないように、青い炎と化せぬよう、常に言動に気を張っているのだ。都立高校教師という公務員とはいえ、やはり昔とはわけが違う。
つまりは、教員の発言一つを取り上げて「こんなことを言われた」「人格を否定された」と発起しないとも限らないのだ。ので、結果として、調査を続行することが可能だった。
「プライベートにまで干渉するのは越権行為である」という反論をすぐに取り出せるよう用意していた朝倉としては、肩透かしを喰らったような気分でもあった。
高校三年生の授業は、中学校と大学の中間のようなものだ。大学ほど必修科目が少なく選択の幅が広いわけではないが、必修科目と選択科目に分かれていて、生徒によって時間割が異なったりもする。
この日は三時限目と四時限目は必修の英語と国語の授業であったが、一、二、五、六時限は「空き」であり、その時間にある授業を選択している生徒のみが登校していた。
現に、朝倉は一、二限の授業に出席していたが、工藤と皆川はいなかった。代わりに五、六限には授業がない朝倉だが、工藤と皆川は、科目は異なれど授業があるようなので、下校する時刻が著しく異なっている。昼に帰宅出来る朝倉に対して、夕方始めに授業が終わる工藤と皆川だった。
さすがに待っているのも大変なので、今日の調査は個人で、と三人のやり取りの間で決定していた。
朝倉は、工藤と皆川はどこの何を、もしくは誰を頼りにするのかは知らないが、彼らに調査をある程度任せることにしていた。代わりに、朝倉はある人物と会うことにした。佐々木英輔の死に直接関わっているわけではないが、今後を左右する、大切な相談をするために。
四限の授業が終わって、帰宅する生徒は席を立ち、五、六限も授業がある生徒は、同じ境遇の生徒同士で昼食を取り始めていた。
「いいなぁ、早くに帰れて」という宮下綾乃からの言葉に、朝倉は「でも一限あったんだから早起きだったんだよ」と返した。
この女友達はイツメンではないが、二年生の頃から何度も放課後に遊んだことのある人物だ。前髪は眉の上でパッツンにしていて、後ろ髪はポニーテールにまとめていた。
「佐々木くんの件、どうなってる?」と宮下に質問をされた。
「まだ調査中だよ。全然捗ってないや」
「捗っていない」と告白することであれこれ詮索されることを防げる、という技を体得していた朝倉は、半分は事実であったが、そのことを宮下にも告げた。
「他の先生からポロっと聞いたんだけどね」
宮下は声を潜めて、朝倉の耳に顔を近づけた。彼女の髪の毛から良い香りが漂ってくる。
彼女ら二人は現在、廊下にて談笑中である。帰宅できる生徒たちの喧噪の中、廊下の端で周囲に気付かれないように、盗み聞きされないように会話しているのであった。
「警察は事故で事件終了って決めてるらしいよ」
事故であれば「事件」ではないが、と朝倉は考えたが、少なくとも自殺ではないことにホッとしていた。元々警察に期待していなかったが、勝手に佐々木英輔が学業やら何やらで悩んでいたために自殺した、と決めつけられるのは、友人としては頂けなかったからだ。それに、事故であれば朝倉としても都合が良い。
「遺書が無いと『自殺』って決められないらしいね。『不審死』らしいよ」
宮下は、まるで校舎内をうろつく佐々木英輔の亡霊に遠慮するように、一層声を落として言った。彼女の囁く声に、若干の魅力があった。
「誰から聞いたの、それ?」
「先生から。ミステリーが好きなんだって」
宮下が言うには、有名人の死亡に関して、警察の発表では「不審死」と決定されているものでも、メディアでは「自殺」と発表しているものが多いらしい。それらは、業界の闇が無ければという限定付きではあるが、遺書の有無で判断できることであるという。
それからも朝倉は宮下と、殆どは向こうから話しかけられる構図であったが、会話を続けた。友人との待ち合わせ時間まで一人でどこに行こうかと思案していた朝倉としては、それは忌むべきことではなかったので、笑顔で相槌を打っていた。
約束の時間は、相手が五限まであるということで、午後三時半に二人の高校の中間に位置する駅に近い喫茶店と決められていた。
現在の時刻は一時前。電車で移動する時間を考えても、少なくともあと一時間以上の暇つぶしが必要であった。
「五限ある?」
朝倉が聞くと「ないよ」と宮下は答えた。
朝倉のに劣らず、綺麗な髪の毛だった。髪を下ろした後ろ姿だけでは、朝倉と宮下は区別がつかないかもしれない。髪のツヤのみならず、背格好も似ているのだ。
宮下と話しながら、朝倉は思い出した。
そういえば、二年生の時に彼女と恋愛の話をしたことがある。
頼むから工藤くんではありませんように、という祈りを心の中で念じながら、朝倉は宮下に想い人が誰か聞いたのだ。
結果は、安心できるものだった。
宮下は小学生の頃から一緒の幼馴染に、今も恋しているらしかった。
中学生になってからも仲は続いていたが、向こうは彼女を異性と見ていないらしく、彼女を差し置いて別に恋人を作ったりしていた、という。
「サッカー部でモテてたからね」
恋人という座を奪われても、狂乱などせず、気軽に相談できる女友達、という椅子に座り続けた宮下は、しかし、まだ恋人という座に就けていなかった。
今はどうなのだろうか、と朝倉はふと気になった。
ストレスフルな受験期で恋愛の話など相応しくないかもしれないが、いや良い息抜きだと思いなおして、思い切って「あの幼馴染とどうなったの?」と聞いてみた。
「今も友達だよ」
あっさり返された。しかし、その表情に暗さがなかった。
案の定、宮下は「でも、友達以上恋人未満って感じ」と付け加えた。
曰く、今年の夏の花火大会に二人きりで行ったのだそうだ。
普段はお目にかかれない浴衣姿に加え、彼女は勇気を振り絞って相手の手を握ったのだ。「はぐれないように」と言ったそうだ。
これで相手は間違いなく彼女を異性と見なしただろうな、と朝倉でさえ考えた。なかなかの積極性に、朝倉はメモを取りたくもなった。
「受験が終わったら、告白しようかなって思ってる」
そう決意表明した宮下は、やはり幸せそうだった。
宮下の志望校は、確か早應大学の看板である政治経済学部だ。
報われて欲しい、と心から思った。
恋愛の話を聞いて、そういえば、と朝倉はもう一つ、宮下とした会話を思い出した。
クラスの誰と付き合いたいか、というものだった。
その中で彼女が幼馴染を想っていると聞いたのだが、ある程度盛り上がった後に、第三希望にまでランクインしなかった佐々木の話をしたのだ。
「佐々木くんは、なんだろう。男としては見られないかな」
あの時、宮下はそう答えていた。朝倉も納得だった。
朝倉は事実を確かめた。
佐々木は綺麗な髪の毛が好きだった。
丁寧なケアと美容院通いにより、それを持つ朝倉は佐々木から好かれていた。
佐々木くんは、明らかに私を狙っていた。
論理的に考えると理解出来るものだ。
しかし、その考えには、自分の決めつけがある、と思い至った。
佐々木英輔には、他にも想い人がいたのではないか。
目の前の宮下も、素敵な髪を持っている。髪の毛だけで好き嫌いの判断をするほど佐々木は動物的ではないと思うが、しかし付き合っていないにもかかわらず触ってくる人間だ。対象が二人以上いるのも、変ではないように思えた。
二人以上いたとして、何なのだろう。
朝倉の考えはそこで詰まった。
そもそも、佐々木が朝倉のことを好きだった、ということ自体、エビデンスの無いものなのだ。体を触られたから、誘われたから、という体験に基づいた感想でしかない。
すると、いよいよ分からなくなってきた。防衛機制として無理のある考えをしているようで、朝倉は混乱してきた。
「姫奈ちゃん、大丈夫?」
宮下に心配された。
その呼び方で、朝倉はこれから会う人物も自分を「姫奈ちゃん」と呼ぶことを思い出した。
「うん、大丈夫」
「このあと時間ある?」
宮下にそう聞かれたが、昼食を一緒に取るほど精神的に優れていなかったので、朝倉は「実は人と会う約束があるんだ」と言った。
「え、誰誰?彼氏?」と詮索されたが、「中学校の友達だよ、男子じゃないし」とだけ返した。
電車に乗って、目的地を目指す。
車内は空いていた。席に座ってから、窓から差し込んで首元を熱する日光の鬱陶しさに気付き、朝倉は反対側に座った。
電車に乗る前、プラットホームの自動販売機でペットボトル式のコーヒーを買っていた。これから喫茶店に行くのにも拘わらず、朝倉は脳を活性化するために購入したのだ。カフェインを摂取して、冷静になってから電車内で一人、考えたかった。
電車に揺られながら、朝倉は蓋を開けてコーヒーを飲んだ。既に三分の二ほどを飲み干していた。丁寧に蓋を締め、鞄に戻す。蓋が充分に閉まっていないと、鞄の中の教材を汚してしまう可能性があるのだ。
朝倉はスマホを取り出して、メモ帳を開いた。
佐々木英輔の死から、もたらされる情報と考え浮かぶアイデアが多すぎて、何が信頼できて何が駄目なのかが把握できなくなってしまっている。それを整理するために、朝倉は時間を掛けて入力していった。
佐々木英輔が、自宅の屋上から転落死した。このことは警察の捜査によって明らかになっている。ドアノブの指紋という予想外の根拠だった。しかし、信頼出来る。
佐々木英輔は朝倉姫奈のことが好きだった。これは、そういえば推理であって決定事項ではない。この決め付けから「無下にされた佐々木は自殺した」という推理を展開したのだが、もしもこれ自体が誤りであったら、行き付く先は全くの別世界となる。
好きだった、と仮定しても、学生の自殺理由に「恋愛」があるというデータがあるが、佐々木が自殺するとは限らない。現に、中学生の頃の佐々木の恋愛模様は、完全に良好だったとは言い難いものだった。
やはり事故だろうか、と朝倉は考えたが、ここでも自分の決めつけに気が付いた。
「事件」だ。
高校生が殺されるのは非現実的だ、とあの記者も言っていたが、それすら怪しいものだ。
佐々木が裏で何をしていたのか、それは分からない。が、もしも警察が総力を挙げて捜査すれば明らかになるかもしれないような闇が、佐々木の背後にはあったのではないか。その闇を、佐々木は家族にも友人にも隠していた可能性は、十分にある。むしろ、身近の人間だからこそ話せないことだ。
高校生が、屋上から突き落とされるような闇。
暴力団絡みだと、朝倉は詳しくないが、拳銃で射殺される印象がある。友人との不和により、例えば、屋上で口論になり、激情のあまり突き落としてしまった、ならあり得るかもしれない。少なくとも暴力団ややくざ関係よりは。
事件だとして、佐々木は誰と揉めていたのだろうか。
佐々木と喧嘩、対立するような人間はいただろうか。
朝倉には、遠藤と唐沢という一個上の不良生徒二名以外、思いつかなかった。不良生徒二名にしても、数年前のいざこざを根に持って屋上から突き落とすのは、容易に想像できることではない。
客観性を増すために、朝倉は次のことも記入した。
自殺だとしたら、学業での悩みなど見られない佐々木は、やはり恋愛を理由に自殺した、と考えられる。佐々木の好きな人が自分か分からないが、そして自分だけだったとも限らないが、少なくとも自分は相手のアプローチに好意的に返すことはなかった。
アナウンスが、朝倉が下りる駅の一つ前の駅名を告げた。
朝倉は、一から十まで真面目腐っているのは嫌だったので、メモ帳の最後にこう記した。
これがミステリー小説だったら、佐々木英輔の死は自殺でも事故でもなく他殺。王道を攻めるなら、犯人は友人の誰か。クラスの誰かか、はたまた小学校からの同級生二人のどちらかもしくは両方かもしれない。彼らは田所と、もう一人は誰だったか。親が犯人、というのは陳家かもしれないが、筆力によっては優れ物になるかもしれない。事情を聴きに来た警察二人もしくは学校の先生を犯人にするのなら、フーダニットよりはワイダニット寄りで、しかし個人的には好きではない。
アナウンスが、目的地の駅名を告げた。
目的地として指定されていた喫茶店に到着した時、時刻は午後三時を回っていた。
「早めに着いちゃったから中で待ってるね」
友人にメッセージを送り、朝倉はここでもアイスコーヒーを注文した。バッグの中のコーヒーは家に帰ってからでも飲むとしよう、と決めた。
電車内以上に、空調設備が整っていた。雰囲気も良い店内で、朝倉は再び携帯のメモ帳を開いた。
頭の中に思い浮かんだこと、疑問や考えを雑然と記載している。脈絡のないそれらは、お笑い芸人のネタ帳のようにも見えた。
ふと思いついて、朝倉はメモ帳を閉じて検索エンジンを開いた。そこで「高校生 殺人事件」と打ち込んだ。
さて、何が出るか。
真っ先に出るような、それほどセンセーショナルな事件は、一体いつ起こったものなのだろうか。二十一世紀の出来事だろうか。それとも親が生まれるよりももっと前の出来事だろうか。
頭の中で駆け巡る想像は、検索結果を見た朝倉が感じた失望の度合いを高めることになった。なぜなら、トップに出てきたのは具体的な事件でもなく、松本清張の『高校殺人事件』だったからだ。
なんだ、フィクションか。
しかしその一つ下は、二〇一四年に長崎県で発生した女子高生の殺人事件だった。どうやら、ノンフィクションらしい。
女子高生が被害者であれば、犯人の性的嗜好も動機も、なんとなく読めてしまう。殺されたのが十五歳から十八歳の女子高生なら、もう言及するまでもないだろう。
佐々木英輔という男子学生の死とは関連しない、と朝倉は期待していなかった。が、斜め読みする要領で画面をスクロールしていたら、一つの勘違いに気付いた。
この事件の被害者は女子高生だが、加害者も女子高生だったのだ。そして、それ以上に信じられないような記載があった。
動機に「快楽殺人」と書かれていたのだ。
一体どういうことだろうか。
女子高生が、女子高生を殺害。
その動機は、快楽殺人。
中学生でも理解できる簡単な語彙だけの文章が、しかし朝倉には理解出来なかった。脳がフリーズしてしまったみたいで、まるで寝起きの状態で二桁足す二桁の足し算を求められているかのように、思考停止に陥っていた。
一番上へスクロールした。
一文一文丁寧に、現代文の問題だと思って読んでいなかければならない、と朝倉は喝を入れた。
管轄は長崎警察。犯人は高校一年生の女子高生。被害者は加害者の友人である女子生徒。ショッピングの後に加害者のマンションへ。加害者は被害者の後頭部を鈍器で数回殴り、その後にひもで絞殺。被害者の家族が捜索願を提出し、警官が加害者のマンションを訪れ、部屋を確認した結果、ベッドに仰向けにされた被害者の、切断された頭部と左手首とその他、パーツを発見し、逮捕に至った。加害者と被害者との間にトラブルは見受けられなかった。しかし、加害者は継母に殺人願望を打ち明けていたことが明かされる。また、事件の数か月前には加害者は自身の父をバットで殴っていることも明らかになる。
どうやら、加害者の女子高生は親元を離れて一人暮らしをしていたそうだ。
事件の影響か、加害者の父親は後に自宅で首を吊って死亡しているのが発見されている。これは、自殺とみられている。
女子高生で一人暮らしというのが朝倉には衝撃的だった。
それよりも驚いたのは、加害者の両親の学歴であった。
一体どこの誰が、快楽殺人者である女子高生の両親の学歴がそのページに記載されていると予想出来ただろうか。
記載されるとは、つまりそれ相応の名のある大学なのだ。
現に、加害者の父親も母親も、西王谷高校の人間が目指しているレベルの大学だったからだ。
何ということだ。
この両親の、一体何を継いでしまったら、娘が快楽殺人者になど育つのだろうか。
内容を読んでいった。
実の母がガンで死亡してからは、加害者の女子高生は不登校になったそうだ。しかしそれ以前にも、小学六年生の時に、友人の給食に洗剤や漂白剤などを混入させる悪戯を繰り返していたそうで、やはり理解出来なかった。
朝倉は首を傾げた。
賢過ぎるが故に、なのだろうか。
それ故に、自分以外の人間がマウスにしか見えなくなったのか。生殺与奪の権限が自分に与えられている、と勘違いしてしまったのだろうか。
朝倉は自分と、自分の両親のことを考えた。
詳しくは聞いていないが、父親も母親も私立大学の出身で、どちらも偏差値は六十ほどだったそうだ。だからこそ朝倉自身が勉強熱心で、西王谷高校にも合格するほどの神童が生まれたことに驚きを禁じ得なかった。当校にはそう呼ばれてきた生徒の方が圧倒的に多いのだが。
「一体僕らのどこを継いだんだろうね」
父と母は、高校合格が決まったその夜に、ケーキやらお寿司やら、朝倉が好きなものを好きなだけ購入してきた。そこでの会話で、一般には高学歴である両親が、それでも謙虚な姿勢でいることに好感を覚えたのだ。
それ以上のレベルの親から生まれた女が、快楽殺人者になった。
幼馴染の証言では、加害者は「父と継母と一緒に住みたくない」と零していたそうだ。
だから一人暮らしか。
そして、そこで知人である女性を殺し、首を切り落として左手首も切り落としてベッドに放置して。
例えば、水中でも呼吸が出来る人間がいる、と聞かされれば、今の朝倉が感じている驚きと同程度の驚きを感じることが出来るのかもしれない。
有り得ない。
この一言に尽きる。
センセーショナル過ぎた。
同じ女子高生である朝倉は、どんなに大金を詰まれても、例え被害者が見ず知らずの他人であったとしても、何人もの女性に乱暴を働いた極悪レイプ犯だったとしても、千を超える国民を縦に死刑にしてきた為政者であったとしても、後頭部を殴った後に首を絞め、解体することなど出来るはずもなかった。
一時的衝動により、後頭部への一撃ならまだあり得るかもしれない。殺人事件の殆どは突発的なもの、とどこかのドラマでもやっていたことを朝倉は覚えていた。
しかし、それ以上はありえない。
これ以上、調べる必要もなかった。
調べ続けようとも思わなかった。
佐々木英輔の死。
この調査に、裁判所が過去の判例を当てにするのと同様に、男子高校生の死という前例でもあれば手掛かりか何かが得られるのではないか、と考えていた朝倉だった。
だが、最初に出てきた松本清張の小説に足を軽く払われ、次に来た具体的事件の、およそ人とは思えない鬼畜の所業に、ロケットランチャーを胸元へ打ち込まれたようなインパクトを与えられて、次のページに進むのを厭う結果となった。
こんな猟奇的殺人が、佐々木英輔の死と、何の関係もあるはずがない。
あってたまるか。
死そのものが非日常的ではあるが、朝倉が直面しているこのケースは猟奇だの快楽殺人だの、そういう系統には属さないものだと考えていた。だからこそ、気軽に調べたページの内容があまりにもグロテスクなため、朝倉にとってはひどく不快だった。
スマホの電源を切り、机の上に置いた。何だか嫌な予感がしたので、スマホの画面を下にした。そうすれば、たった今知ったことの全てを忘れられるような気がした。
しかし、強いストレスを忘れることは出来ない。
快楽殺人。加害者は女子高生。殺人願望。
同性の知人を殺すという点に同性愛的要素が見られる、と分析していた誰か。継母との不和が狂気の原因と解する誰か。
推測に過ぎない彼ら「覗き魔」と似たようなことをやっている朝倉は、早くその事件の概要を忘れたかった。
きっかけさえあれば、ストレスなど簡単に忘れられるはずだ。ストレスの根源が仕事や学業であれば、忘れたくても頭の中でぐるぐる回るものではある。
ところが、今回のような興味のないものであればあるほど、消失した後の後味の無さは素晴らしい。幼少期に見た悪夢は、起床直後は怖くても、ある程度薄れたのちは「一体どうしてあの程度のことで」とケロっとしたものだ。
別なことに集中して時間さえ経てばいい。
全部忘れられるはずだ。
そう思っていたら、待ち望んでいた人物が店内に入ってきた。
今日、この喫茶店で大事な相談をする相手。
朝倉の友人、山岸友美であった。