プロローグ
二月二十四日木曜日。
時刻は二十一時を回っていた。
朝倉姫奈は自室のベッドで、仰向けに寝転がった。そのまま何も注視せず、ぼんやりと天井だけを見上げた。
日常生活においては、何も持たず何もせずにただ横臥してそのままというのは、改めて考えてみると滅多にあることではない。それが原因か、いつもは気にならない円形の室内灯が、少しだけ眩しく感じられた。
そのまま両手を腹の上で組み、ゆっくりと瞼を閉じた。何も見えないはずだったが、満月の幻影がくっきりと映った。部屋の明かりが、虹彩に影を残したのだ。
それもやがて消え、黒い世界に包まれた。
何も映らない中で、同級生たちも考えているであろう明日の事を、朝倉もまた考え始めた。
明日、二月二十五日は国立大学の二次試験本番である。国立大を志望する日本中の受験生が、手に汗を握り締めるイベントだ。
朝倉は、文系の名門・橋工大学を第一志望としている。
明日には何としてでも全力を出し切って、合格点をもぎ取らなければならないのだ。浪人するつもりはない。理解のある気優しい両親に頼めば、失敗したとしてももう一年チャンスを与えてくれるだろう。
しかし、朝倉は現役で大学生になりたかった。現役至上主義という訳ではないが、浪人生になるという選択は邪道だと思っていた。また、もう一年受験勉強をしなければならないのも嫌だった。受験勉強がまた一年続くのは、果てしない修行のような気がした。それだったら私立大学生で十分だと考えていた。
一時間後には就寝するつもりである。
つまり、夜十時に睡眠することになる。
これほどの早寝は、中学一年生以来の快挙である。いや、真面目腐っていた当時でさえ、もっと遅い時間まで起きていたかもしれない。だとすると、それは小学生時まで遡るのか。
朝倉は明日必要な物を再び考えた。明日の持ち物は全てバッグの中に入っているし、チェックを本日何度もしているというのに。
それでも不安で、ベッドから起き上がり、バッグからプリントを一枚取り出した。
学校から配布された「持ち物リスト」である。
進学校から配布された物なので、やはり信頼できるリストだった。「絶対に持っていく物」「おすすめな物」とカテゴリーが分かれており、「おすすめな物」に関しては、恐らく去年の先輩たちの体験談だろう、どのような場面で如何様に効力を発揮したのかが簡潔に書かれていた。
「絶対に持っていく物」の中で、一番上の欄には「財布」「携帯」と書かれていた。
それを見る度に笑ってしまう。
これを忘れる人間がどれくらいいるというのか。
「財布に関しては、余裕があるのであれば数万円単位を入れておくこと」と書かれていた。「交通機関などの遅延の際、タクシーに頼ることが出来るため」と後続し「勿論そのまま待ち、会場最寄りの駅にて遅延証明を貰うことも可」とあった。これを読んで、どのレベルの遅延が発生するか分からないが、朝倉は既に一万円札を五枚入れた財布をバッグに入れてある。このプリントを見せることで、両親から貰ったものだ。父に三万円を所望したのだが、それにプラスして「何が起こるか分からないから」と母親に二枚押し付けられた。
その下に「受験票」と書かれている。
これを忘れる人もいるのだろうか。
どうやら、最悪受験票を忘れたとしても、会場にて申請すれば仮受験票が発行されるそうだ。それでも、変なハプニングで受験直前に緊張するのは避けたい。受験票を入れた真っ黄色のクリアファイルは、バッグを開いて一番目立つところにあった。
「絶対に持っていく物」にはそれ以外にも筆記用具や腕時計などに言及している。滑稽なのは、その詳細にまで及んでいることだ。
筆記用具にしても、ただ「筆記用具」と書いてあるのではなく、「いつも使用しているシャープペンシルを少なくとも二本以上」「シャープペンシルの替え(可能であればB以上)」「消しゴムを二つ以上」「アナログ式腕時計(デジタルの場合はタイマーを必ず切っておくこと)」「眼鏡(コンタクトレンズ使用者も)」とある。
細かすぎる。
パイロットマニュアルじゃあるまいし。
「おすすめな物」には「使い捨てホッカイロ」「ポケットティッシュ」などが記載されている。
「本番前日の夜には携帯の充電を完了させておくこと。もしも忘れていた場合は(バッテリーの劣化に繋がると主張されているが)充電しながら就寝し、当日にバッテリー切れを起こさないようにすること」というアドバイスには、真面目な文体にはそぐわない内容に少し笑ってしまう。
もう準備は万端だ。
朝倉はバッグにプリントをしまい、学習机の上に置いてあるスマホを手に取った。
何か目的があったわけではない。目を閉じても行える指の動きでロックを解除し、ホーム画面をぼんやりと眺めた。右上の充電を確認すると、残りが九十七パーセントだった。晩御飯とお風呂の間ずっと充電してあったからだ。
あと一時間、何をしようか。
朝倉はスマホを片手に、立ったまま考え込んだ。
動画投稿サイトのMETUBEで動画を視聴するのもいい。企画物の動画もゲーム実況動画も好きだ。
が、変に興奮して眠れなくなってしまうかもしれない。
ペット動画を見るのも構わないが、あれは玉石混交だ。
コンテンツが字幕メインであれば問題ない。だが、中には飼い主の変に甲高い猫撫で声が入っているのがある。
あれが、朝倉は苦手だった。
スマホを開いておきながら、何もすることがなく戸惑った。
現代人にありがちなことだ。
返信をしなければならないわけではなかったが、朝倉は何の気なしにSNSアプリのNILEを開いた。同じく明日に受験本番を控えている、高校の友人たちのグループチャットを覗いた。
「今日勉強した?」
「一秒もやってないや笑」
「本番前日は何もしないようにしてる」
「共テ前日も何もしなかったな」
同じ高校の生徒たちは、やはり、国立大学を志望する者が多い。
勿論、私立の名門・早應大学と慶稲大学の二つを、滑り止めとして受験している者も大勢いるだろう。朝倉も二つを受け、既に合格を確信している。もしも橋工大に落ちてしまったら、どちらかに入ることになるだろう。
が、朝倉の通う名門都立高校・西王谷高校には、国立至上主義の生徒が多い。教員もまた、私立大学をこけ落とすことによって、それを猛プッシュしているのだ。
故に、落ちたら浪人の覚悟で受験に挑む人間が、同校ではマジョリティを占めている。そのため、彼ら彼女らからすると、落ちたら私立で妥協する予定の朝倉は、同情と軽蔑の対象であるのかもしれない。
市民権を得られていない、私立大学が第一志望の生徒たちはあまり発言していなかった。早應大学と慶稲大学のうち、朝倉が受けた学部の合格発表はまだだったが、早いところだと既に合格発表がされているはずだ。
しかし、自分の受験が終わったからって、周りを考えずにはしゃいではいけないのだ。ピリピリしている周囲に配慮して、ひっそりと息を潜ませるのが暗黙の了解だ。
そのグループチャットでは、私立大学の合否を度外視し、国立志望の生徒同士で励まし合い助け合うのが会話の流れだった。
「確率漸化式が出るかも」
「積分定数は絶対にチェック」
「英作文は最後に推敲。スペルミスと時制の一致に注意」
朝倉にとってもためになるものだった。
それらにわざわざ返信はしなかったが、メッセージの一つ一つを丁寧に読んでいった。
数十件の未読メッセージを全て読み、既読メッセージにまで遡った。誰が何時頃に送ったのかさえ確認した。
やはり、あの話をする者は一人もいなかった。
「彼らのためにも頑張ろう」などという面倒くさい発言をする者はいない。全員が、何もなかった、として明日の受験を見据えている。
それに対して、安堵が半分と、寂寞が半分だった。
その話をスルーすることは、朝倉は絶対に出来ない。周りも朝倉のリアクションを予期して、メッセージを送ることになるだろう。なら、沈黙を貫くことが出来るのはありがたかった。
ところが、彼らが完全に忘れ去られてしまったかのように会話が進んでいくことに、違和感を覚えていた。全員が受験だけを考えていて、過去を振り返ろうともしていない。
全てをなかったことにして、蓋をして放置で、それで本当に良いのだろうか。
過去を紐解かずに「触らぬ神に祟りなし」と決め込んで、それで本当に正しいのだろうか。
しかし、朝倉は俯いた。
私だってそうだ。
奮闘したのは最初だけ。
それからはなあなあになって、やがて受験勉強に集中するようになった。勉強に集中すれば、忘れることが出来た。悲しみの涙に溺れないためには、やるべきことに心血を注ぐ他なかったのだ。
生き残った「彼」も同様だ。後の気まずさから、あれ以来、疎遠になってしまっている。「彼」が意図的に自分を避けているようにすら感じられる。
残ったのは敗北感と、そして謎だけ。
あの話の何が怖かったのだろうか。
どうしていなくなってしまったのか。
手紙とは何のことだったのか。
大切な人とは誰のことだったのか。
全て、謎のまま。
朝倉は鼻をすすって、溜息を吐いた。
涙が流れそうで、上を向いた。
長らく忘れていた喪失感が、この時だけは蘇っていた。
警察からは何も知らされていない。どのように終結したのか、どのように結論付けたのか、それすらも教えてもらっていない。
もしかしたら終結していないのかもしれない。あるいは、俗にいう「未解決」というものだろうか。殺しだと確定していないので、「未解決事件」にすらならない。ただの「不審死」として、これから扱われるのだろう。
朝倉はスマホを強く握った。
少なくとも、何も明らかになっていないことだけが明らかだ。
朝倉はNILEを閉じて、画像フォルダを開いた。
忘れるべきなのかもしれないが、止められなかった。
気持ちを切り替えて、今日だけ、哀愁に浸ることにした。こんな機会、滅多にないからだ。
スマホ画面の上端を軽くタップすると、画像フォルダの一番上まで瞬時にぐーんとスクロールしていった。携帯に保存されている画像の中で最も古いものである。
そこから朝倉は、ゆっくりと下へスクロールしていった。
古い写真から新しい写真へ。それはちょうど、歴史の年表を古い順でゆっくりなぞって、何の出来事がいつ起きたのかを確認していくのと同じ感覚がした。
今使用しているのは、第一志望だった今の高校に合格したお祝いに購入してもらったスマートフォンだ。それ以来ずっと使っているので、高校一年生から現在までに撮った写真の全てが保存されている。
ところが、一年生の夏休み以前に撮影した枚数は極めて少ない。反対に、それ以降は急激に数が増加している。
高校一年生の夏休みは自分にとっても転換点だった、と朝倉は今でも思っている。
遅れて高校デビューしたようなものだった。といっても、ノリが軽くなったなどの類ではない。良い意味での著しい外見の変化に留まっており、性格までは変わっていないのが実情だ。
下へ、下へ、進んでいく。
写真に映るメンバーが高校二年生に変わった。
西王谷高校では、二年生からクラス替えがなくなる。必然的に、同じメンバーとで三年生になり、受験を迎えることになるのだ。朝倉も、二年一組から三年一組まで、担任もクラスメートも同じだった。
一枚の写真に辿り着いた。
朝倉は息を呑んだ。
高校三年の夏休み終盤に、朝倉を含め四人で撮影した写真だ。スマホを校庭の木の胸元ほどの高さの窪みに立てかけるようにして、十メートルほど離れた反対側の位置に横一列で並んで撮影したものだ。背景に西王谷高校の校舎の壁が見える。校舎全体を映したかったが、物理的に不可能だった。
中央に立つ小柄な朝倉。カメラに向かってピースサインをしていて笑顔だ。そして朝倉と同じようにカメラに向かってピースサインをしている男子三名。暑すぎる夏休み中だったが、外に出るまで図書室で身体を冷やしていたので、不快そうな顔は浮かべていない。
彼ら全員と、受験を迎えたかった。
全員とで、受験を乗り越えたかった。
目が潤うのみならず、文字通り涙が零れてきそうだった。
朝倉は画像フォルダを閉じて、スマホを机にゆっくり置いた。
久しぶりに感じる、胸の奥を貫かれたような痛みがあった。両の掌を胸に当てても、優しく触れて自分を落ち着かせようとしても、ズキズキとした感覚は拭えなかった。
苦しい。
朝倉はそのまま窓辺へ、ヨロヨロと歩いていった。倒れ掛かるようにしてカーテンを握り、それをㇱッと横に開けた。
夜の漆黒が朝倉を迎えてくれた。
朝倉は立ち尽くし、繭に包まれたようにうっとりとした。
窓の先に、ネオンのような瀟洒なものはなかった。閑静な住宅街なので、近所の部屋の明かりと街灯と自身の反射を除けば、窓の殆どは暗闇で占められていた。
無理に煌めいていないその光景は、朝倉を適度にリラックスさせてくれた。すうっと吸い込まれそうな夜の黒は、決して「暗い」というわけではなかった。
キラキラしていなければ、目を刺激しない。胸にぽっかりと空いた穴が埋まることはなかったが、夜の闇と同一化できるような、奇妙な感覚があった。
目を細めて窓の先の黒一面を見ていると、かつての友人たちの顔がぼんやりと浮かび上がった。白い煙で構成されたそれは、幽霊のように頼りない薄い像だった。
男友達三人の顔写真。
未だに信じられない。
夏休みには、彼ら三人と何度も遊び、何度も学び、何度も話したのだ。今でもありありと思い出すことが出来る、確かな記憶があった。
彼らは、当たり前のように生きていた。
二十四時間、心臓が鼓動し、呼吸をしていた。同じ空間を共有した上で、言葉を交わしていたのだ。触れるだけで、いつでも体温を感じることが出来たはずだ。
それなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。
朝倉は両眼を閉じた。
もう、抗わないことにした。
涙が二つ、頬を伝った。
誰が信じてくれるだろうか。
誰が理解してくれるだろうか。
彼ら三人のうち、二名が、夏休み明けに相次いで死亡した、だなんて。