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「ティーネ、着いたぞ」
柔らかい声で呼ばれ、恐る恐る目を開ける。抱き上げられた姿勢のまま視線を巡らせれば、レンガ造りの建物が目の前にあった。
「ここは?」
「孤児院だ。ここはドラゴニアだが、北端でティーネの国に接している。」
ゼファニロスがそう言って後ろを示した。
肩ごしに後ろをのぞけば森と魔境が半々といった形で広がっている。
「その森の向こうがエイデンだな。ドラゴニアには修道院はないし、とりあえず俺の知る孤児院に運ばせてもらったぞ。」
「は、はい。ありがとうございます。」
ドラゴニアに来る予定ではなかったが魔境よりはずっとマシだ。
それよりも、一向に降ろしてもらえないことが気になる。
「あの、降ろして頂けませんか?」
「断る。」
間髪入れずに拒否された。
「やっと見つけた番なんだ。離したくないし、このような華奢な靴で歩かせることもしたくない。」
そういえば身一つで放り出されたため、自分はまだドレス姿だった。
ヒールのある靴はもはや引っ掛かっているだけのような状態で確かに土の地面を歩くには適さないだろう。
しかし、それでもこれはどうなのか。
クレアスティーネの戸惑いを余所に、ゼファニロスはスタスタと建物に入っていく。
「あの、このまま入るのですか?」
「ああ、まずはその腕と頬を治療しなければ。ここの院長は知り合いなんだ。」
勝手知ったるといった様子で扉を開けると、院長とおぼしき老女が出迎えてくれた。
「これはこれは。」
老女が頭を下げようとしたところでゼファニロスが制する。
「いい、今日は私用だ。」
「まぁ、そうでしたか。ではゼファニロス坊ちゃんでいらしたのですね。」
自分の頬に手を当ててにっこり笑った老女に対し、ゼファニロスが顔をしかめた。
「確かに私用だが…坊ちゃんはやめてくれ。」
苦々し気にしながらクレアスティーネを示す。
「彼女が怪我をしているんだ。手当できる場所を借りたい。」
「まあ、それは大変!こちらへどうぞ。」
クレアスティーネにもにっこりと笑いかけて案内してくれる。
なお、抱かれたままの姿勢な事には一切突っ込みがない。
あれ?おかしい。もしやこれは獣人のスタンダードなのだろうか?
通されたのは暖かく暖炉が燃える談話室だった。
「さあこちらへ。子どもたちはまだ眠っていますから、遠慮なく使ってください。救急箱と、暖かい飲み物をお持ちしましょうね。」
そう言うと老女はお礼を言う間もなく部屋を出ていった。
ゼファニロスに暖炉の前にそっと降ろされる。
ようやく床に足がついたことでホッと息をつくと、打たれた頬に長い指がそっと近づいて優しく撫でられた。
「すっかり冷えてしまったな。すまない。」
「い、いえ。ありがとうございます。」
顔を覗き込むように近づかれドキッとしてしまう。暖炉の明かりに照らされたゼファニロスの金色の瞳が光っている。漆黒の髪は艶を帯びて、同じ色の長い睫毛がその目元を覆っている。
人間離れした美貌ってこういうことを言うのだわ。
ドキドキと心臓が落ち着かない。
「あの、先ほどの方は?」
どうにか空気を変えようと話題を出してみる。
「ああ。ここの院長だ。昔、俺の乳母をしていた人で、この町の前領主夫人なんだが子ども好きでな。隠居したのをいいことに経営だけじゃなく実務までやり始めて、今や院長だ。」
「乳母…ああ、それで坊ちゃん。」
目の前の美形を親し気にそう呼んでいたのを思い出して納得した。
「止めてくれ。ティーネには名前で呼んで欲しい。…ゼフィ、と呼んでくれないか?」
一度去ったと思った空気がまた戻ってきて、ゼファニロスの瞳から逃げられなくなる。
合わせた視線を外すこともできないまま、唇から小さく息が漏れる。
「……ゼフィ」
吐息に混じったような小さな声を、ゼファニロスはしっかり拾ったようだ。
目の前の金色がとろける。
いつの間にか顔が近づいて……
「救急箱を持ってきましたよ。」
院長の声にハッとして思い切り顔を逸らした。
な、な、なにを!?今、わたしは!!
顔が一気に火照り出す。
赤くなった頬を隠すように両手で抑えていると、ゼファニロスがため息をついて院長から救急箱を受け取った。
「…乳母はもう少し気のきく人物だったはずだが。」
「はて、そうでしたかね?何せ今は孤児院長ですからねぇ。怪我したお嬢さんを長く放っておけませんわ。」
とぼけたようにそう言いながら奥からカートを引いてくる。
「さあ、お嬢さん。手当が終わったら暖かい紅茶を入れましょうね。それから、そんな薄着じゃ寒いでしょう。着替えもしないとね。」
「あ、あの、ありがとうございます!」
どんどん世話を焼いてくれる院長に若干押されながらもお礼を伝えると、にっこりと優し気に笑ってくれた。
「いえいえ。さあさ、坊ちゃん、早く手当してやってください。」
「わかっている。」
急かされたせいか若干憮然とながらも優しい手つきでクレアスティーネの腕と頬を治療していく。腫れを確かめ軟膏を塗り、腕には包帯を巻かれる。頬は冷たいタオルで冷やしてくれた。
「ありがとうございます。」
こんな風に丁寧に治療してもらったのはいつ以来だろう。
いつもは治療をする側だったからなんだか照れくさい。小声でお礼を言えばゼファニロスが軽く首を振った。
「番の世話をするのは当然のことだ。それより、こんな怪我を負わせる前に見つけるべきだったものを…すまない。」
ゼファニロスはこちらよりよっぽど痛そうな顔をしてそう言った。
「いえ、そんな。……あの、先ほどからおっしゃっている、“ツガイ”とは?」
初対面からそう呼びかけられ、そのままあれよあれよとここに連れてこられたが、そもそもクレアスティーネは“ツガイ”なる人ではない。
「ああ、人族にはツガイはないのだったな。“番”は獣人の唯一の伴侶のことを言う。結婚や恋愛は番でなくとも可能だが、“運命の番”は本能的に決まっていて出会った瞬間から惹かれあうものなんだ。」
「はぁ。」
「そして俺の“運命の番”はティーネだ。」
「はい!?」
「出会った瞬間に惹かれたからな。」
真顔で言われてまたドキッとしてしまう。
「あ、あの、でも……」
何と答えればいいのだろう。ずっと教会で過ごしてきて恋愛相談をするような友達もいなかったのだ。経験値が少なすぎてわからない。
クレアスティーネの戸惑いを感じたのか、ゼファニロスが苦笑した。
「わかっている。人間にはない感覚なのだろう。ティーネが戸惑うのも当然だ。だが……俺はもう定めてしまった。離してやるつもりはない。」
そう断言するとそっとティーネの頬を撫でる。
「…人間は時間をかけて相手を知っていくんだったな。」
「は、はい。」
たぶん…、そうだ。時間をかけても婚約者だったリオルド殿下のことは何一つ知れなかったが。
「ならば俺も時間をかけよう。ティーネに俺を知って欲しいし、俺もティーネのことが知りたい。」
金の瞳の中で暖炉の明かりが揺らめいている。
その光から目を逸らせないまま、ほとんど無意識に小さく頷いていた。
「ありがとう。」
ゼファニロスがふわりと笑った。その笑顔があまりにも優しくて、思わず俯いてしまった。
このドキドキは異性に慣れていないせいなのか。
それとも……




