150.白壁の向こうと探し求めていた者
一体どれ程の時間が経過したのか。白壁の向こう、聖域と呼ぶ場所はむせ返るような甘い芳香の漂う所だった。
「……う、」
全身が重く怠い。頭がずきずきと痛む。鈍痛のある側頭部をおさえ、ゆっくり目を開けた。そこで漸く先程までの出来事が思い起こされた。
眼前の向こうで白百合に似た花――メリシアが群生していた。だがそれは最早白百合とは似ても似つかないのだと認識する。
この花は様々な色彩へ変化していた。
精霊王の森に咲く呪花のように生命力溢れて咲くその姿、異様な光景に息を呑んだ。
体を起こし周囲を見回し、一緒に取り込まれたパトリックの姿を探す。
すると遠くで風もなくメリシアが不自然に揺れだし、誰かの切迫したような叫ぶ声が聞こえた。
「……もしかしたら、パトリックさんかもしれない」
ひとつ体を動かすたびに得体の知れない圧力が上からかかる。奇妙な程重苦しい空間に眉を寄せた。
なんだろうこの部屋は。
一面の白い世界。ここはアカシャのいる叡知の世界に何処か似ていた。だがそこと明確に違うのは四角い壁に阻まれた閉鎖的な空間ということ。
ここはあくまでも教会の神聖な場所なのだ。
急いで声のした方へ行くと金髪の男性の後ろ姿が見えてきた。想像したより大分奥に進んだが、ここは相当広い場所のようだ。今更ながら、来た道を肩越しに振り返り復路を確認した。
「パトリックさん。良かった無事だったのね」
「帰ろうバルタス。早くこっちへ!」
ティナが来た事には気づかず、パトリックは眼前の何もない空間にただひたすら呼び掛けていた。
いや彼の呼び掛けている所には幾つもの蜃気楼のように揺らめく白い影があった。その中にある一つの存在へ彼は必死に手を差しのべている。
(バルタスという人がパトリックさんがずっと探していた人なの?)
ティナの目ではその白い影はバルタスとは分からない。パトリックだけが認識できる何かがあるのかも知れないが、一つ分かるのは白い影達から悪い気配はしないということだ。
呆然とその様子をみているうち、ふと足元に違和感があり、見下ろすと足先から植物の蔓や根が絡み付いていた。
これはきっとメリシアだ。
顔色を変えたティナは慌てて蔓から足を抜いた。まだ巻き付き始めで容易にほどけたから良かったものの、この空間に長く居るのは危険だ。
おそらくこの花は聖花とは名ばかりの、人々に悪影響を与える呪花だ。そして最悪な事にこれは魔力を養分とし成長する。
それでさっきからティナから脱力感が続いていたのだ。この花はティナの魔力を喰っている。
蔓はパトリックの足にも巻き付いている。ティナはすぐに駆け寄り蔓を引きちぎった。
「逃げましょう、パトリックさん! これ以上ここにいては魔力を全部奪われてしまうわ!」
「君、どうしてここへ? いいから放っておいてくれ!」
この場所に来て初めてティナの顔を見たパトリックは鬱陶しそうに眉をひそめた。近づいたティナの手を強く振り払う。
「あそこにいるのはうちの商会で働いていたバルタスなんだ。彼は僕の代わりに聖歌隊に出て、こんな酷い目にあっている。助けてあげないと」
白い影は最早実体がない。彼の訴えるバルタスだとしても、気の毒だがもう体の方はメリシアに喰われた可能が高い。
ティナは哀れみの目を向けかけたが、ぐっと声を強めた。
「しっかりしてパトリックさん。冷静になって状況を見て。辛いかも知れないけどそれはもう三年も経ってるの。その意味を――」
「やめてくれ! 周りは皆彼のことを口にしなくなった。とうしてか忘れていくんだ。でも僕だけは覚えてる、忘れるものか。……だって今も感謝祭が近づくたびに聞こえる、彼の声が――苦しんでる。助けを求めてるんだよ!」
取り憑かれたように発する彼の言動は不安定で酷く、バルタスという者に対し罪責感のような奇妙な執着を感じた。
けれどこのまま無為に過ごしていても埒が明かない。白い影達は動かず、その場所にとどまっている。生者の魔力を吸われ疲弊し続ければ、行き着くさきは死だ。
ティナは唇を噛んだ。
懸念すべきはソルソフィア達の救援が来るまで、自分達の肉体が保つか否か。それまでできる限り魔力を温存しておかねばならない。
心を決めたティナは静かに目を閉じ、また開く。
「待って。パトリックさんこっちへ」
「君、さっきからなんで――――え?」
先程から引き留め続ける彼女にイラつき、強く振り向いた彼はその先に続く言葉を飲み込んだ。
彼女を取り巻く雰囲気がさっきとまるで違っている。パトリックは強力な魔術にかかったように全身を強張らせた。
そのまま動けないでいる彼に並んだ彼女は、右掌を静かに彼の両眼に翳した。当然そこにあった白い空間、影は視界から消えた。
醸し出される威圧感にパトリックが知らず冷汗を垂らすと、彼女は囁くようにいった。
「一時的にだけど、空間を歪めて強制的に繋げた。今ならあなたの求める者と意志疎通できる。……でも少しの間しか維持できないからね」
この時、パトリックは風に乗って吹き込まれる彼女の言葉を奇妙なほど落ち着いて聞き咀嚼した。
さっきまで落ち着かなく荒れ狂った心がいつの間にか消えていく。
彼からの返事はないがそれを肯定と捉え、彼女は右掌をすっとひいた。すると再び視界が広がった。
そこはもう白い空間出はなかった。抜けるような青空と優しい風に揺れる美しい草原だった。
眼前に聖歌隊の服を着た金髪の青年、バルタスが自分を見つめ微笑んでいた。背丈や髪型、顔、体は三年前に姿を消した頃と全く変わらない。
「ああ、バルタス! 良かった会えた。ずっと探していたんだ」
「知っています。俺のせいでパトリック様がここに囚われている事も、全て――本当に申し訳ありません」
泣きそうな表情になった友にパトリックは首を傾げる。
「? なにを言ってるんだ。それより一緒に早く帰ろう」
「……」
今の状況に至る原因をバルタスは理解していた。そして彼の言葉を拒否するように首を横に振った。
体を離したパトリックはバルタスの手を引こうとするも、その手は空を掴むのみだった。
彼の体はもう消えかかっていた。




