第80話:魔獣
そのとき、何が起こったのかわからなかった。
「何、こいつ?」
わからないのは俺だけではなかった。シグレも驚いた声をあげている。この状況は、シグレの意図したものではないらしい。
この怪物は。
ただ迷い込んだらしい。
4本足の獣、人を丸のみにしそうなほど大きく、群青色の毛で覆われており、狼のような風体をしている。ただ、角が生えており、顔に目は5個ある。開かれた口には、鋭い牙が無数に生えており、涎をだらだらと流していた。尾は蛇となっており、10本ほどの蛇が、それぞれこちらの様子を窺っている。
魔獣?
ふと一つの言葉が頭をよぎる。
報告にあった村を襲う獣。俺は、シグレのことなのではないかと半ば思っていたが、どうやら本当にいたらしい。
魔獣は、俺をじっとみつめたかと思うと、シグレに目を向け、牙をむき出し、それから、
「ごぉぉあぁぁぁぁ!」
低い声で吠えた。
続けざまに、尻尾の蛇が、シグレに襲いかかった。突然のことにシグレは慌てていたが、大鎌で蛇の頭を器用に狩りとっていく。
だが、蛇の頭は、斬ったそばから生えてくる。次々と襲ってくる蛇に、シグレはさすがに気味わるがった。
「もう! 何なのよ、これ!」
シグレは、大きく後ろに引いて、くるりと身体をひるがえし、大鎌を担ぎ直した。
そして、地を蹴り、魔獣の胴体に向かった。
「死ね!」
隊員を散々切り裂いた大鎌。当たれば、さすがに魔獣の腹を裂いただろうか。しかし、魔獣はその巨体を器用に動かし、大鎌を躱した。
逆に、魔獣は、カウンターのように突っ込み、シグレの身体を、その頭で突きとばした。
「きゃっ!」
その速度と重量は凶器であって、シグレのかるい身体は、木々をなぎ倒し、遠方まで吹き飛ばされた。
「いったい何なんだ?」
俺は状況の変化についていけなかった。シグレに殺されるかと思えば、魔獣の乱入。シグレは吹き飛んだが、今、俺は魔獣に睨みつけられている。
シグレに斬り殺されるのではなく、魔獣に食い殺されるのか。
死ぬのなら、どちらでも同じだが。
俺が、もはや諦めている中、魔獣は、鼻を押し付け、臭いを嗅いだ。血の匂いを楽しんでいるのかと思いきや、いきなり、俺の身体に噛みついた。
死ぬ。
と思った。
しかし、そのときは一向に来なかった。
牙はちくちくと痛いものの、魔獣は俺の身体を咥えるだけで食い殺しはせず、そのまま走り出した。
俺は抵抗しなかった。
いや、抵抗できなかった。片腕と片足を切り取られ、血を流しすぎた。もはや意識が朦朧として、痛みもよくわからない。
俺は、魔獣の規則的な足の運びに揺られながら、森の奥へと引き込まれていった。
巣に運ばれるのだろうか。
そんな真っ当な思考を裏切って、魔獣は、しばらく走った後に、俺の身体を放り出した。特別な場所というわけでもない。ただの森の木々の合間で、俺の身体は転がされた。
シグレからは引き離された。
どうやら追ってはきていない。彼女のことだ。自分に危害を加え得る魔獣に対して、深追いはしないだろう。
これで安心して、俺を食えるということか。
だが、それも違う。
魔獣は、俺のまわりを何度かまわった後に、臭いを嗅いで、ぺろりと舐めたかと思うと、そのまま、どこかへ行ってしまった。
まるで、俺をシグレから救ったかのように。
魔獣に恩を売った覚えはないが。
とはいったものの、血は止まっておらず、少し延命したに過ぎない。
俺は、残った左手と歯でシャツを切り裂き、右腕と左足の止血を行った。
「あぁ!」
シグレから逃れたことで、少し気が抜けたのか、痛みが立ち昇ってくる。脳に針を刺すような痛みが、ひっきりなしにやってきて、意識を奪おうとする。
だが、俺はなんとかふんばった。
まだ生きている。
部隊が全滅した。ソマリが殺された。腕も足も失った。それでも、まだ俺には王国に帰ってやることがある。
俺には、まだ守るべきものがあるんだ。
何が起こっているのかわからないが、生きのびたのならば足掻いてやる。俺はずっとそうやって生きてきた。
俺が、痛みにのたうち回っていたところ、魔法通信のノイズが入った。
ここがどこだかわからないが、誰かの魔法通信が届く範囲にいるようだ。個人回線で、俺に直接つなごうとしている。これだけノイズが激しいということは、誰かを中継しているようで、もしかすると本部からかもしれない。
ノイズは声となり、知人の声となった。
「クロ! クロ! 返事をして! クロ!」
ルミは泣きながら呼び掛けていた。




