いつかの缶コーヒー
放課後になってから一時間ほどが経った。冬の空は既に赤みがかっていた。校門を出ててからも、吹奏楽部の楽器の音がどこまでもついてきているようだった。
駅までは二分とかからない。
二両編成の電車がちょうど収まるホームには、年季の入ったベンチがあるだけで、他には何もない。中途半端な時間に学校を出たから、きっと誰もないだろうと荒木は思っていた。
改札にある自販機で缶コーヒーを買った。電車が来るまで、温まりながら待っているつもりだった。握りしめるには熱すぎて、缶を手のひらの上で転がした。ホームへ続く階段は短く、数段登るだけで視界がホームを捉えた。
誰かがベンチに座っていた。
紺色のコートには見覚えがあった。
その顔を見間違えるはずがなかった。
途端に歩みが遅くなった。こちらから声をかけるべきだなのだろうか。ためらっているうちに、荒木はベンチのそばまで来てしまった。薄暗いなか表情さえ見て取れるほどの距離だったが、互いに不自然に黙ったままだった。
背中を丸くして、首は少しだけ下を向いていた。メガネの奥に閉じた瞼が見えた。それでようやく、眠っているのだと気づいた。
寝顔を見つめるのはどうなのかと、途端に荒木は視線をあちこちにやった。改めて、何もないホームだった。遠くの空でカラスが一羽飛んでいた。夕陽を受けたレールは月みたいに白く光っていた。
ときどき、寝顔を覗き見た。覗き見るたび、視線がとどまる時間が伸びていった。ついにはじっと見入ってしまっていた。
そして、踏切が鳴った。
我に返ったときには、視線は言い訳できないくらい真っ直ぐ結ばれていた。
「――荒木?」
名前を呼ばれ、何も言葉が出てこなかった。
踏切の音が鳴りしきっていた。
電車がホームに近づいてきた。
反対方向だった。
「もしかして、寝てた?」
「えっと、はい。そうみたいですね」
手元の缶コーヒを思い出して、
「あ、眠気覚ましに飲みます?」
「いいよ、ありがと」
そう言って、コートの袖を少しめくり、腕時計に目をやった。
「ほんのちょっとだけ、うとうとしてたみたい」
「なんか意外です」
「そうでもないよ」
隣、座る? と目で促されて、荒木は素直に従った。
ホームに止まった電車からは誰も降りてこなかった。去っていく電車の音は次第に軽くなっていき、消えた。隣どうし、静けさを持て余していた。
あ、そういえば。
「定例会のあとすぐ帰ったんじゃなかったんですね」
「あー、ちょっと用事あってね。そっちこそ、まだ残ってたんだ」
「あのあと、雑用頼まれまして。前年度の資料がまだ生徒会室に置きっぱなしだったから、片付けておいてくれって」
「結構、溜まってたもんね。お疲れさん。――それ、飲まないの?」
手の中にある缶は、触れていて心地よい温度になっていた。
「じゃあ、頂きます」
「何それ、自分が買ったやつじゃん。ちなみに、ブラックは飲めない」
「え、意外です」
「また? 荒木の中で、一体どんなイメージなの」
「喫茶店とか好きそうな感じだと思ってました」
「頼むとしてもクリームソーダかな。でも、今は寒いしココアかも」
確か、自販機にココアもあったような気がした。そっちにしておくべきだったかと荒木は思った。思ってすぐ、だったらどうしたのかと想像した。
一口どうですか?
言えるはずがなかった。
再び踏切が鳴り始めたのは、荒木がプルタブを開くのと同時だった。
「うわ、電車きちゃった」
「これ飲んでから、次のに乗ります」
「一気に飲めない?」
「熱いの苦手なんですよ」
荒木は一口だけすすってみせた。
電車がやってきて、目の前で扉が開いた。誰も降りてはこなかった。
「それじゃあ、また明日、生徒会室で」
「はい、お疲れ様でした」
去り際、車内の照明の下で紺のコートに黒い髪が際立って見えた。
空っぽになったホームで、荒木は一息ついた。
コーヒーを口に含む。
ココアだったら何か違っていたのだろうかと、今でも荒木は考えることがある。