第1話 旅の始まり(後編)
「月が綺麗ですね。」
夜も更け、ガタゴトと馬車の音だけが響く中、メアリーが窓の外を眺めてそう言った。しかし、すぐに馬車の中へと視線を戻す。
「おいっ、見ろよナタリー!さっきの鳥が……なんだ、寝ちまったのかよ。チッ、つまんねぇの。」
「こら、ギムル。」
舌打ちしたギムルをヒザにのせたまま、ナタリーはスヤスヤと寝息をたてていた。いっこうに進まない水面橋の上で、ついには一夜を越すはめとなったのだから仕方がない。
メアリーは苦笑しながらギムルを抱き上げ、変わりに柔らかな毛布をナタリーの上にかけた。
「もう夜ですもの。おやすみの時間です。」
「んじゃ、メアリーが相手してくれよ。」
「はいはい。何しましょ?」
「そぉだなぁ。」
うーんと、ギムルは考えるような仕草をする。そのギムルを優しい瞳でメアリーが見つめていた時だった。
ピクッと隣で眠っていたはずのリナルドの耳が動く。と、同時に先ほど眠りについたはずのナタリーもガバッと体を起こした。
「んだよ。寝たんじゃねぇのかよ。」
「ギムル、静かに。」
叫んだギムルの口元を手で制しながら、ナタリーは耳をすませる。
「何か聞こえる。」
見ると、リナルドの耳も何かをとらえるようにピクピクと動いていた。
"───け…て。"
「……なにかしら?」
"──…助けて!!"
「──ッ!!?」
はっきりと、そう聞こえた瞬間、ナタリーは目の前の老人へと顔をむけた。
「リナルドじいさんっ!!」
「あぁ。ここから西に少し行ったウキワングローブの森の中じゃ。」
「行ってきてもいい?」
ナタリーは、リナルドに真剣な表情をむける。事態は一刻をあらそうのだと、その瞳は焦燥にかられていた。
「約束を守れるなら。」
「わかってるわ。あの力だけは使わない。」
条件を出した祖父に許可を得て、ナタリーは馬車のドアをあける。
「まてよっ。俺もつれてけ。」
「いいけど、水に浸かったりしないでよ?」
ポンッと飛び込んできた白いウサギを抱き締めながら、ナタリーは暗い夜の橋へと足をおろした。
静かな水面が、軽い音をたてて揺れる。
「よかった。ちょうど近くに船があるわ。向こうまで渡してもらいましょ。」
水上で暮らす人の眠りを妨げたくはなかったが、仕方がない。
「メアリー。リナルドじいさんを頼んだわよ。ホースも気をつけて。」
「はい。お気をつけて、ナタリー様。」
「ナタリー。無茶は、すんなよ。」
メアリーと馬車をひく馬にそれぞれうなずいてから、ナタリーはギムルと一緒に船まで駆け寄った。
眠っていた住民は、ナタリーが左手の甲をみせるとすぐに船に乗せてくれる。そのままナタリーは頭に響く声のする方へと、船の進路をむけさせた。
「おい。本当にこっちなのか?」
「えぇ、間違いないわ。誰かが助けを求めてる。あっ、船首さんここでいいです。どうもありがとう。」
お礼をいいながら、ナタリーはぬかるんだ一角にむかって船を飛び降りる。
帰りも待っていてくれるという優しい船首に見守られながら、ナタリーはさらに奥へと進んでいった。
「この辺り、なんだけど──ッ!?」
暗くてよく見えない。だけど、たしかな生き物の気配を感じて、ナタリーはピタリと足を止めた。
「おい。どうし───っ。」
胸にかかえていたギムルを抱き締める腕が強くなっていく。
ギムルもその異様な様子に気づいたのか、可愛らしいつぶらな瞳をスッと細めた。
「ひでぇなぁ、こりゃ。」
暗くてぬかるんだ土の上に、何かが埋まっている。
抱き締めたギムルとともに、ナタリーはゆっくりと"それ"へと近づく。
助けを求める声に引き寄せられるままにやってきたが、"それ"はもう、助けられる状態だとは思えなかった。
埋まっていると思っていたが、どうやら違うらしい。
「──…っ…」
わずかな月明かりに照らされた"それ"は、白い陶器で出来たような青年だった。首だけを残して、胸から下が粉々に砕かれている。
足元に散らばった破片が、キラキラと輝いて見えた。
「そ…こに…誰か…いらっしゃ…」
「──ッ!?」
消えいくように言葉を発した陶器の青年に、ナタリーは慌てて顔を寄せる。
ひざに泥がついたが、目の前の状況に、そんなことは気にならなかった。
「私は、ナタリー。どうして、こんなヒドイことに。」
「おい。お前の主人は、どこ行ったんだよ!?」
ナタリーに抱き締められたままのギムルが、苛立たしそうに声を張り上げる。
「お前の魂を願った主人は、自分のハーティエストが消えかかってるつーのに──」
「──ダメよ、ギムル。この人には、もう絆の繋がる人がいないわ。それに、紋章も半分以上が、砕かれてしまっている。」
ギムルの言葉を遮るように、ナタリーは首を横にふった。
「ナタリー。なんとかしてやれよ。」
「ダメよ!!リナルドじいさんと約束したもの。」
「ナタリー。」
ナタリーの唇が固く結ばれていることに気づいたのか、見上げたギムルも悔しそうに唇をかむ。
「私は生命師。魂を望む者の変わりに、あなたをみとります。」
「せい…め…いし?」
もう消えかかる魂の中で、陶器で出来た白い青年は尋ねてきた。
「えぇ。」と、ナタリーは微笑む。
そこで、陶器の青年は嬉しそうに胸を撫で下ろすのかと思いきや、最後の力を振り絞って強く叫んだ。
「いけません!逃げてください。ハンターがッ──」
「ナタリー、危ないッ?!」
ギムルに突き飛ばされて尻餅をついた瞬間、ナタリーの耳は二つの音が混ざりあうのを聞く。ビチャッというぬかるんだ音と、ガシャンと青年の砕ける音。
何が起こったのか、まったく理解できなかった。
「おーおー、なんや。あんな状態でも喋るなんて、ホンマきっしょいわぁ。せやから、ハーティエストは、嫌いやねん。」
「ッ!?」
ギムルを抱き締めながら半身を起こしたナタリーは、その声の主に目を奪われる。
月明かりをうけた赤い短髪、野性的に光る鋭利な瞳、そして右腕全体に彫られた入れ墨──
「クレイヴァーのイシス・バダーリッ!?」
「へぇ~。俺のこと知ってんの?」
思わず声をあげてから、しまったとナタリーは口をとざした。だが時すでに遅し……パキッと音をたてながら若い男は、ナタリーに近付いてくる。
──知らないはずがなかった。
クレイヴァーとは、反ハーティエストを掲げる巨大な組織で、ハーティエストのない世界を作ろうと、日夜"ハーティエスト狩り"をしている野蛮な軍団。ハーティエストを産み出す生命師でさえ、機会あらば、事故と見せかけて殺そうとしている者は多い。
とっさにナタリーは、ギムルの口を塞ぐと同時に、その左手の紋章を隠した。
「なぁ。俺の話、聞いてるん?」
先ほど、粉々に砕いたばかりの白い陶器の上を気にすることもなく歩きながら、その男はどんどん近づいてくる。
何も答えられなかった。
恐怖で言葉が出てこない。そればかりか、腰が抜けてしまって、立つことも出来なかった。
どうか無事にやり過ごせるように強く祈ることしか出来ないが、ナタリーの鼓動は壊れてしまったように早鐘を打ち続けている。
「──…ッ…」
目の前にしゃがみこんだ赤髪の男に、ナタリーはゴクリとのどを鳴らした。
知らずギムルを抱き締める身体が、小刻みに震える。
それに何かあると気づいたのか、男の口角が徐々にあがっていく。入れ墨の施された右腕を自身の腰に差し込んだ短剣にむけて少し引いたのが、何よりの証拠だった。
「そのウサギ、さっき喋ってたやんなぁ?」
撫で付けるように笑う彼に、ナタリーは首をふることでしか答えられない。
ふたつに束ねた髪が、力なく左右にゆれた。
「ッン!?」
突然、赤髪の男にナタリーはあごを持ち上げられる。
眼前に見えるその顔は、恐ろしいほどキレイで怖かった。
「嘘ついてもな。お嬢ちゃんのためにならんで?」
ギムルを抱き締める腕が、ギュッと強くしまる。
ここで本当のことを言おうと、言わないと、訪れる結果に大差ないことは、すぐにわかった。
狩りを目撃してしまった代償は、タダではすまされない。だがここで自分を差し出しても、ギムルを差し出しても行き着く先は同じ。
「なんなら、お嬢ちゃんごと今ここで、すみずみまで調べたってもかまわんで?」
身体の震えが止まらなかった。
ここで泣けたら、どれほど楽だろうか。だけど、ここで心を折れるわけにはいかない。守らなくてはならない、大切な存在がいた。
「クレイヴァーに、ギムルは渡さないわ。」
ナタリーの答えに、男は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにその顔をにやつかせる。
獲物をとらえたことの喜びか、楯突いた女の末路にか、うっすらと見えた短刀の光にナタリーはギュッと目を閉じた。
「そこに誰かいるのか。」
いままさに、乙女の貞操と命が奪われるという時に、救いの神が舞い降りる。どこの誰かはわからないが、若い男の声が作ってくれた一瞬の隙をナタリーは見逃さなかった。
ナタリーは弾かれたように立ち上がり、振りかえることなく、もときた道を走る。そのまま、待っていてくれた船に飛び乗り、ホースの馬車へと帰ってきた。
「ナタリー様ッ!? どうなさったのですかっ?」
なんとか無事に馬車に戻ってきたナタリーを見たメアリーは、驚愕の声をあげる。
ナタリーは全身ひどく泥だらけな上に、生気の失った顔で荒い息を整えることも出来ない状態だった。
ギムルにいたっては平気そうに見えるが、ナタリーから少しも離れようとしない。
「クレイヴァーのイシス・バダーリがいた。」
荒い呼吸の合間からそう告げると、馬車の中はシンと静まり返る。
「だけど、追ってきてないから大丈夫な、はず。助けてくれた人がいたの。でも私……逃げ出すことに必死で……リナルドじいさん。私……」
背中を撫でてくれるメアリーの腕の中から、ナタリーは悔しそうにリナルドに顔を向けた。
「うむ。クレイヴァー相手では、仕方あるまい。」
「そのお方が、無事であるといいわね。」
安堵からか、ナタリーはポタポタと涙をこぼす。抱き締めたままだったギムルが、その白いふわふわの腕で涙をぬぐってくれた。
「助けられなかった命に哀悼と、救ってくれた命に感謝を──」
リナルドの言葉が、少し悲しそうに夜の暗闇に吸い込まれていく。
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一方そのころ、ナタリーを"偶然"助けた人物は、月明かりに照らされた場所に出るなり、眉をしかめていた。
粉々にくだかれた残骸、消えた紋章。ハーティエストの死が、目の端にうつる。
だが一番、目を引かれたのは重たい腰をあげる赤髪の男にあった。獲物を逃がされたことに少々腹がたっているように見えたが、問題はない。
「これは、これは。誰や思たら。」
「……イシス…」
「そんな顔しんといてや。ハーティエストを消すんは、俺らクレイヴァーの仕事っちゅーか、使命みたいなもんなんやし。大体、こんなん作るやつらの気がしれへんわ。」
ハッと肩をすかせて嘲笑ったイシスに、姿をみせたばかりの男は不愉快に眉をひそめた。
「ああ、すんませんなぁ。ヴェナハイムの王子さまも生命師の紋章があるんやっけ?まぁ、あんたのことは、親父から手ぇ出すな言われてるし……せやけど、あんま邪魔ばっかりするんやったら、俺の手元がくるってまうかもしれへんで?」
「お互い様にな。」
鋭利な視線が交わる。
だが、その答えに満足したのか、イシスはくるりと背を向けて、暗い闇の中へと消えていった。
「シード様。ご無事ですか?」
イシスと入れ違いに、シオンの肩に音を立てながら鳥が止まる。
「ああ、だけど少し遅かったようだ。」
コロンの問いかけに、曖昧な返事をしたシオンは、キラキラと輝く魂のなれの果てをいつまでもずっと見つめていた。
──────next story.