ひどいひとのその後のお話
「いってらっしゃいませ、レオンパルト様」
婚約者の、その声を背中で聞きながら、返事もせず私は足早に玄関を出る。
婚約者と同居するようになって、一週間が経とうとしていたが、私たちの関係は相変わらず冷え切ったものだった。
今から約一週間前、好きな女性が出来たからと、幼い頃からの婚約者との婚約を破棄してもらう為、母にかけあった。すると父からも母からも、まるで幼子のようにこってりと怒られたのだ。勿論その調子で婚約破棄などできるはずがなかった。
その上、好きな女性エリーゼには意中の男がいる事がわかり、しかもその男が私の親友だというのだから、踏んだり蹴ったりとはまさにこのことである。
失恋で自暴自棄になり雨に打たれて意識を失ったらしい私は気付いたら婚約者の屋敷で寝ていて、両親からはしばらく帰ってくるなという内容の手紙。
もう一度言おう。
踏んだり蹴ったりとはまさにこのことである。
「お前、ノアール嬢と同棲生活してるんだって?上手くやってんのか?」
私の隣にどかりと座ってきた幼い頃からの親友であるジョルジュは、人好きするような明るい笑みを浮かべた。
「上手くやってるわけないだろう……。そう言うジョルジュはどうなんだ」
「……俺のことはいいだろうよ」
「そんな事言ったって、そろそろ身を固めてもいいだろう?その……エリーゼなんてどうだ?」
「ああ……お前、エリーゼ嬢からなにか聞いたのか」
ぎくり、として慌てて首を振る。
「え、いや、私はなにも……」
「エリーゼ嬢には、もうとっくに伝えたよ。俺にはずっと愛している人がいるから、と」
「は?…な、なんだと!?愛している人だと!?そんな話聞いていない!」
「言ってないからな」
この親友から、恋愛事の話など初めて聞いたということに今更気付く。
「だ、誰だ!私の知ってる女性か!?」
「……いいや。お前の知らない人だよ」
そう言われて、動転していた気持ちが少し落ち着いた。この親友にはこういうところがあるのだ。
長い付き合いのはずなのに、私がこの男の事をまったく知らないのかもしれないと感じるのは、一度や二度の事じゃなかった。
「う、上手くいってるのか?」
「上手くいってるもなにも、俺は気持ちを伝えるつもりはないんだよ」
「な、なぜ……」
ジョルジュは切なげに眉を寄せた。苦しくて苦しくて、たまらない。そんな顔だった。
「相手には想い人がいる」
「そ、そうか……それは、つらい、な……」
片想いのつらさは知っている。あれは、とても惨めで虚しいものだ。
「……お前さ、エリーゼ嬢の好きなところ言える?」
「好きな……ところ……?」
どこが好きかなんて、今まで一度も考えた事がなかった。
ただ、昔からの婚約者の事を考えていると、得体の知れない、まるで自分が自分ではなくなってしまうような、凶悪で仄暗い気持ちが湧き上がる事があるのに対して、エリーゼの事を考えているときは、純粋にただ楽しいと思っていられたのだ。
エリーゼの好きな男が、このジョルジュだと知ったときでさえ、確かに悔しさや惨めさは感じたけれど、私は自分を見失わず、ちゃんと私としていられたように思う。
「……お前はまっすぐな奴だよ、レオンパルト 。まっすぐで純粋で、そんなお前が俺は好きだよ」
ジョルジュが目を細める。好きという言葉とは裏腹にその目には冷たい色が宿っていて、ひやりとしたものが背筋を走った。
「幼い頃から婚約者を決められていて、そんな中で青臭いような恋愛に憧れる気持ちも想像は出来る。だけどお前さ、お前…あれだけ嫌っているノアール嬢のどこが嫌いなんだ?」
「え、あ、あいつは!……あいつは」
いつからか、レオンパルト様なんて他人行儀に私の事を呼ぶようになった。
私の前で、笑わなくなった。
私の前で、泣かなくなった。
私に甘えてくれなくなった。
それから、それから……
あ、れ……?
「俺から見れば、お前はノアール嬢の事が好きなように見えるよ。そりゃあもう昔からずっと」
「私が……あいつを、好き…?」
ふと、幼い頃のノアールの笑顔が脳裏に蘇る。内側から突然湯でも湧き上がるかのような感覚に、ぶわりと全身が粟立った。
「あの人ほど、お前の事を理解してくれて、愛してくれる人なんて、後にも先にも他にはいないと俺は思うけど。手遅れになる前に、ちゃんと考えたほうがいいんじゃないの?」
「手遅れ……?」
「ノアール嬢みたいないい女、男なんてよりどりみどりだろ」
「なっ……あいつは私の…」
ジョルジュの言葉に、瞼の裏でバチッと赤い火花でも散ったような気がした。胃が、むかむかとしてきて、気持ちが悪い。
「婚約者だ、って?……お前さ、ノアール嬢に今までどんな態度とってきたかわかってる?聞いたぞ、婚約破棄するとまで言ったんだろ?」
「う……」
「それなのに、まだ自分だけのものだとでも思ってんの?そりゃあすげえな」
「うう……」
私が、ノアールを好き…?
「ひとつ教えてやるよ、レオンパルト。恋愛ってのは、楽しい事ばかりじゃない」
「……知っている」
「お前、エリーゼ嬢の事で身が引き裂かれるような思いとかしたことあんの?」
「身が引き裂かれるような……?」
エリーゼがジョルジュを好きだと知って、悔しかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。けれど、身が引き裂かれるような思いだったかと問われれば、そんなことはないような気がした。
「らしくない事したり、時には汚い感情が湧き上がることだってある。お前そういうの、エリーゼ嬢相手にあんの?」
「い、や……」
自分が、自分ではなくなるような、感覚。
ふと、ノアールの顔が脳裏に浮かんだ。
「もう、お前の中に答えはあるんじゃないか?知らないけどな」
「おかえりなさいませ、レオンパルト様」
屋敷に戻ると玄関で待ってたノアールが美しい所作でお辞儀をする。その際ふと目に入った、ノアールのつけているネックレスに既視感があって、立ち止まった。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
幼い頃にあげた、ガラス玉。安物の、なんの変哲もないガラス玉。それが、加工されてネックレスにされて。違和感なくノアールの首もとに佇んでいる。
ガラス玉をあげたことなど忘れていた。忘れていたのだ、そんなこと。とっくの昔に。
子供の頃にあげたガラス玉を今でも大切そうに大切そうに身につけているノアールを見て、たまらない気持ちになった。
「レオンパルト様?」
「その、呼び方はやめろ」
無意識に口から飛び出た言葉に自分で驚いた。
「え……あ、っ申し訳ありません……」
僅かに顔を歪めて俯いたノアールを見て、内心で舌を打つ。命令のような言い方しか出来ないのか私は。
「……昔のように呼べばいい」
「む、昔のようにと……いうと……」
「レオ、と。そう呼べ。ノア」
ひゅっと息を飲んだ音がして、勢いよく顔を上げたノアールと目が合うと、ノアールはその綺麗な目を大きく見開いた。やがてそこにゆっくりと大粒の涙が溜まり、ぽとりと落ちる。
今度は私が息を飲んだ。
そうだ、元来彼女は泣き虫な性格だった。
強くなったのだと思っていたのだ。噂に聞くように、いつの間にか強気な性格に変わったのだと。人を貶めるような人間だという噂までは信じていなかったが、しかし、少なからず女としての強かさは、きっと備えたのだろうと。
けれど本当は、泣いていたのだろうか。今まで、ずっと、ひとりで。
そう思ったら、たまらなかった。
彼女の目から、キラキラと光りながら次から次へと落ちていくそれは、まるで宝石のようだ、なんて。そんな事を考えてから、恋は人を馬鹿にするのかもしれないと思った。自覚をしてしまったらもうダメだった。私は、きっとノアールを愛してしまっている。それこそ、もう、どうしようもないほどに。だから、涙に濡れた切れ長の目も、つやつやと輝くブロンドの髪も、彼女の持つものすべてが、こんなにも美しく見えるのだろう。
無意識に手を伸ばし一歩近付く私に、びくりと肩を揺らしたノアールを見て心臓が嫌な音を立てた。
怯えられている。
その事実が、私の心を粉々に打ち砕いた。
もういっそ、何度だって謝って、縋りついてしまいたいと思った。捨てないでくれと、愛しているのだ、と。
けれど、この口が今更なにを言えるというのだろう。きっとノアールの矜持を、尊厳を、何度も何度も傷つけたであろうこの口で、一体どうやって謝ればいいというのだろう。そう思ったら、なにも言葉は出てこなかった。
なにより、拒絶されてしまったら私は死んでしまうのではないかと思った。想像しただけで、どうしようもないほどに心が痛くて痛くて、もう逃げ出してしまいたかった。
「レ、オ様……」
微かに聞こえた小さな小さな声に、私の心臓はドクリと音を立てた。濡れた瞳はただただ私を写している。
触れたい。今すぐ触れて、何度も何度も名前を呼んで、名前を呼ばれたい。そう考えて、しかし、その涙を拭うことすら出来はしない。怖いのだ。嫌われる事が、拒絶される事が。
私は、こんなに情けない人間だっただろうか。
ぎゅっと拳を強く握った。
「も、う一度……呼んでくれないか……ノア」
「っ、れ、おさま……、れおさま……っ」
泣きながら私の名前を、呼ぶ。
何度も。何度も。
愛おしくて、愛おしくて、気がおかしくなりそうだと思った。こんなにも名前を呼ばれることが幸せなことだなんて。
そうだ、私は知らなかった。
今の今まで、きっと、なにも、知らなかったのだ。
「……明日の、予定はなにかあるのか?」
やがて、泣き止んだノアールに問うと私をうかがうように見た後、ゆっくりと首を振る。
「じゃあ明日は街に遊びに行こう、一緒に。」
私の言葉に目を瞠ったノアールは、困ったように視線を彷徨わせた後ぎゅっと唇を噛み締め再び目に涙をためると、やがて嬉しそうに、嬉しそうに、破顔した。