004
アリーに髪留めを渡す。
勢いをつけ、アリーがそれを投げた。
見込んだ通り、抜群のコントロールだ。弧を描きながら車本体、中央を目指して、髪留めが飛んでいく。
僅かに光る軌跡を引く。空気中の水蒸気が凍結した、ダイヤモンドダストだ。触れるものを凍結させるマナプログラムが実行されている。
そのまま髪留めが車に触れた、かどうかなどわからないほど。車が、床が。一瞬で、全てが霜に覆われた。
極地方の冬夜でも、ここまではならないだろう。凍てつく車体、髪留めが接触した形のまま、彫像のように凍り付く。
強制的に、事象を引き起こす。常識を凌駕して。
それがマナプログラムだ。
凍結し、時が止まる。
ひんやりとした白い霧が漂っていた。
「…これで、しばらくは大丈夫かな」
ふぅ、と息を付いて、チェルトが力を抜く。
「ひいっ」と、小さく悲鳴が聞こえた。床に転がっていた男が、目をひんむいて事象を見 つめていた。完全に腰が抜けてしまったのか、全く動けないようだ。
次々実行される事象。複雑に描かれるマナプログラム。意のままにそれを制御するマナコンピュータ。
見たことがないもののはずだ。
(…次元が違う。これでわかってくれたらいい)
虎を飼う、学会の、異常さを。
優位に立った。そうわかると同時に、少しずつ心が冷えていく。
マナプログラムは確かに便利だが、便利すぎる。常識が通用しない。
だから、怖い。
単純な、力を、利益を、得ようとする奴らに渡したくない。知識無く使われたくはない。
(…渡すわけにはいかない)
正義を気取ってるみたいだな、と、密かに苦笑する。
ヒーローになるつもりはない。学会の駒になるつもりもなかった。
だが、どうしても、譲れない想いがあるから。だからここにいる。
(僕のわがままだ)
一つ、息を付いて。転がる男を見下ろす。
「あなたが力を使うなら、私も力を使わざるを得ない」
脅しだ。これ以上抵抗するな、と。
「く、くそ…!」
震えながら、男がナイフを取り出した。顔をゆがめて、それを見る。
(まだ、抵抗できると思ってるんだ。…僕が子供だから?)
悔しい。
これ以上どうしたらいいのか。相手を傷付けたくないなんて、甘い考えなのか。
拳を握り締めて、睨み付けることしかできない。
その時だ。とんでもない形で、対峙は解けた。
「チェルちゃんに、何するのですネー!」
レットの声が横から飛び込んできた。ほぼ同時に、男が吹き飛ぶ。空気の塊に殴られ、横に大きく飛んだ後ごろごろと数回転がり、沈黙した。
風にあおられ、よろけてアリーにぶつかった体勢のまま、チェルトが苦笑して呟く。
「レット…、やりすぎ」
「?」
きょとんとした顔のレット。両の手の平を前へ突き出している。空気砲はそこから放たれていた。
レットが手を下ろす。胸元や額に装飾品を着けていた。赤い石に見える大きな装飾品は、舞台衣装のように大仰で、目立つ。デザインや配置は、まるで古代の王族や神官のようだ。それらは全て連動し、内部に古代文字を浮かべ輝いている。
アクセサリーではない。普段は不可視化している、マナコンピュータだ。
「レットがやったの?」
アリーがチェルトとレットを交互に見て、戸惑いの表情を浮かべていた。
「はいですネ」
レットがにこりと笑って答える。
「ワタシのパートナー、ウイングロードは大気圧特化型。先ほどは圧力差を作り出し、空気の塊を前方へ押し出し衝撃を与えましたネ」
「パートナーって、…他に誰もいないみたいだけど…」
「マナコンのことだよ。マナコンの名前」
眉をひそめ困惑した様子を見せるアリーに、チェルトが補足する。
「それぞれ個性っていうか、得意とするものがあるんだ。僕のは振動。レットのは大気圧操作」
「大気圧、ね…。ほんと、魔法だわ」
アリーが、何とも言えない表情で呟く。驚きと呆れと、他は何だろう。
マナプログラムを初めて見る者にとっては、それは奇妙な現象でしかないだろう。
チェルトもそうだった。子供のころ、初めて見た事象は、真夏のダイヤモンドダスト。当時は理解などできなかった。ただそれは美しく、幼いチェルトの周りに星のように降り注いだ。母の笑顔と一緒に。流れるような黒く長い髪が、陽光の下に輝いていたのを覚えている。
「チェルト先生」
「アレク?」
アレクの声が割り込んできた。ねぎらいの言葉かと思いきや、なぜかトーンが低い。おや?と首を傾げる。
「初撃の真空刃で、カメラがやられた。復旧できないかと試したんですが、無理でした。物理的にカメラ本体が破損してます。応援も呼んでいるんですが、そちらの状況を把握出来なく、…いや、何だって?」
「どうしたの、アレク?」
話の途中で、アレクの声が後ろを振り向いたかのように遠ざかる。チェルトが耳を傾けた。向こう側のマイクの問題なのでチェルトの行動に意味はないのだが、ついそうしてしまう。
「いや、あのですね、消防と警察の到着が遅れるらしいんですが」
アレクが苦々しく、言う。
「市内の二カ所で水道管が破裂したそうです」
「まさか!」
一気に、不安が押し寄せる。
慌てて振り返り、あたりを見た。
そう言えば、車から転がり落ちた後、ふらついていた男がいない。
「チェルト…いないのって、あのリーダーじゃない?」
アリーが倒れている男たちの顔を確かめながら、言う。
「…やられた…!」
悔しさ、怒り、焦り。唖然として、立ち尽くす。
いつの間に逃げたのか。
ナイフの男に気を取られていた、その隙か。いや、引火を防ぐため、全てを凍結させるマナプログラムを実行していた、その時か。
リーダー格の男の持つマナプログラムは、水の沸騰を引き起こすものだった。
正直なところ、所詮は湯沸かし器だと、つい軽く見てしまっていた。しかし一般市民の生活を脅かすには充分だ。
水道管の破裂。間違いない、その男の仕業だ。
「…チェルト先生の読みは当たりですね」
「当たっても、間に合わなけりゃ意味がないんだ…」
チェルトが腹立たしさを声ににじませ、吐き捨てた。
「失敗、だ」
レットが、しょんぼりとした様子を見せて、おずおずと聞く。
「あの…ワタシが、失敗でしたネ?真空刃の座標指定が、広範囲過ぎましたネ?」
チェルトが顔をゆるめて、レットの肩に優しく触れる。
「いや、いいんだよ、レットはそれで。失敗したのは僕」
チェルトのマナプログラムの弱点の一つが電波障害だ。マナプログラム展開中は電子機器を使えなくなる。わかっていたはずなのに通信をおろそかにした、早い段階から連携をとっておけば…
しかしその場合、男たちへの対応は変わっていたはずだ。
(どう対応すれば良かった?一撃で沈めれば良かった?言葉に頼らず、暴力で?)
沸き上がるのは、自分への苛立ちだ。
マナプログラムを使うことに、迷いがある。マナプログラムで、人を傷つけることに。
甘い、と言われるだろう。
高圧的な笑みを湛えた、チェルトがもっとも苦手とする人物の影がちらつく。
(…レジアス教授に、また嫌味を言われるんだろうな…)
つい、市民の安全より先に自らの保身を考えてしまい、だめだ!と少々反省する。
(これから…どうしよう)
本格的に、学会は動き始めるだろう。
自分は必要とされるだろうか。
そっとため息をもらす。
(マナプログラムを使いたくて、学会に入った訳じゃないのにな)
学会にいる以上、駆り出されるのは仕方ない。わかってはいるが。
急に気弱になって、手の届かない場所に助けを求めて、ぼんやりと空間を見つめる。
(やっぱり…僕はまだ、子供なのかもしんない)
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