005
ペン型のツールが、床に落ちて転がっていた。
もう音は遮断されていない、非常ベルの音がわんわんと鳴っていた。しかし音は遠く、鼓膜を叩き、頭を締め付けるほどではない。
銃声が耳に残っている。いまさらながらアリーは後悔した。チェルトの言葉をどこか軽く感じていた。だが本当だった。本当に非常事態で、本当に…本当に…
殺されるかも知れない、恐怖。
死の予感がぐるぐると渦巻く。
どうして、なぜ、緊急事態で、犯罪が、銃声が、
…チェルトが。
しかし。その中に、声が響く。
「…出会い頭に撃つなんて、随分じゃないですか」
恐る恐る、顔を上げる。
チェルトが立っていた。真後ろに庇われていたアリーからは、その表情は見えない。しかし声からは自信と余裕が感じられた。
確かに撃たれたはずだ。そこに立っていることが信じられず、もう一度、チェルトを見る。
ふと、気付いた。
向かって左、チェルトの顔の横あたりに、光の板が浮いている。光の粒でできているかのような透明な板。二枚の板は手のひらより少し大きな三角形で、紙のような薄さの中に星のような光のきらめきがある。
さっき見た、ツールのアンテナと同じだ。
展開元は意外なものだった。本当に、本当に小さい。方耳のイヤリングの先にぶら下がった白い玉石。それが光を発していた。
動くと揺れるような、垂れ下がる形をしている。華奢なデザインだった。
(この形、ドロップダングルってやつだわ。っていうか、…女の子がするやつよね?これ)
今の今まで、チェルトがそれを着けていたことにも気が付かなかった。いや、そもそも着けていただろうか?見覚えがない。
ガシャン、と金属音がした。
はっとして、アリーがチェルトから目線を移す。
上がりきった防火扉の向こうには、数人の男たちがいた。
年齢が近いのか体格も似たり寄ったりで、一人一人を識別するような特にこれといったわかりやすい目印はない。服装も似たような、いや、全員同じものを着ていた。そのせいでよりいっそう個性に乏しく見えるわけだ。緑とも青とも形容しがたい色のツナギを見て、アリーが眉を寄せる。
「…お掃除屋さん?」
館内を整備するスタッフの服装だ。しかしその手に握られているものはモップでも雑巾でもなく、拳銃だった。
「清掃業者に化けて侵入か」
チェルトが小さく呟く。
「業者であろうと、館内に入るときは例外なく金属探知機を通るはずなのに。どうやってクリアしたんだろ」
手前の四人は銃を持ち、残りの三人は大きなスポーツバッグに何かを詰め込んでいる最中だった。布のようなものにくるまれた、重そうなものが床に転がっている。
(泥棒だわ!)
犯罪と言うのはこれのことか。
一番手前にいる男だけが、拳銃を左手に持っていた。左利きの男が仲間に怒鳴る。
「おい、お前何外してやがる」
「…いや、外したはずは…」
「この距離だぞ、かすりもしねえなんてあり得ねえだろ」
「もう一回、試してみます?皆さんご一緒に」
チェルトが意地の悪い笑みを含んだ声で言った。幼い子供にしか見えない見た目で、大の男をあざ笑う。
「…ガキが」
簡単に、男たちは挑発に乗ってきた。複数の銃口がこちらに向く。
「ちょっとあんた、なんでわざわざ怒らせるようなこと言うのよ!」
泥棒と言えど、相手は複数で、銃を持っているのだ。アリーがチェルトをつつく。
「警察に任せたほうが、いいんじゃない?」
「いや、大丈夫。…派手に力の差を見せといたほうが、後々やりやすいんだよ」
「力の差?」
疑問に重なり、続けざまに銃声が響いた。
アリーがびくりとして目をつぶる。肩をすくめ、耳もふさいで。
が、…何も起こらない。
そっと、チェルトを見る。ゆったりと肩幅に足を開いて、腕を下げ、手を軽く閉じていた。アンテナが瞬いている。
全く揺らいでいない。
距離にしてわずか数メートル。防弾ベストを着ていたとしても、確実に貫通できる距離だ。
男たちに、ざわりと動揺が広がった。
(チェルトの言った通り…本当に、当たらないんだわ)
「弾は…どこに行ったのよ」
アリーがチェルトに訊ねる。
「あのへんかな?」
軽い調子で、チェルトが天井を指差して見せる。男たちも一緒になって、全員で上を見上げた。
あった。
天井に、小さなものがめり込んだような、傷跡が見える。
「…どういうことだ」
「ねぇ、どういうことなの?」
「おい女、うるせえぞ黙ってろ」
「あんたたちのほうがうるさいわよ」
背後からチェルトの両肩に捕まり、チェルトを盾にして、強気に言い返すアリー。
男たちが気色立つが、手は出してこなかった。チェルトを警戒している。
チェルトがしゃべり始めた。生意気なまでに、小馬鹿にしたような口調で。
「ハンドガン程度じゃ、何度やっても私には届きません。これはオートプログラムだ。どこから撃っても無駄ですよ」
正面の男が、唇を歪める。太い眉に広い額、顔立ちそのものは美形と言って差し支えないだろう。頬にかかる、ウェーブがかったブラウンの髪は軟派にも思えた。しかしどうやったって愛想など生まれそうにない暗い眼は、左手の銃の凶悪さに相応しい。
「ガキ。…お前、何者だ?」
得体の知れないものを見るような目つきで、左利きの男が問う。
ふん、とチェルトが鼻で笑った。
「わざわざ博物館にそれを盗みに来るくらいなら。心当たりはありますよね?」
そう言って、コートの内ポケットから何かを出したようだった。チェルトの手の中に納まる小ささだ。
「な…!」
それを見て、男たちが一斉に驚いた。
大げさなまでに、ある者は後ずさり、ある者は四肢を緊張させて息をのむ。
異様な空気が、あたりを包んだ。
(…何?)
気味が悪く感じて、アリーがチェルトの手元を覗き込む。細い肩越しに見えたもの、それは長方形の金属板に見えた。
正面から見ないとはっきりとはわからないが、模様が入っている。植物を図案化したモザイクに似た模様だ。浮き彫りのような凹凸で描かれている。
形は違うが、アレクが持っていたものと同じものに見えた。
「そのエンブレム…学会の技術者か!」
「まさか、こんな子供が…」
男たちがざわつく。
チェルトが、コートの襟にそれをひっかける。ブローチになっているようだ。
「特別実行許可証」
淡々と、チェルトが告げる。
「知っているなら、銃を捨てて。大人しく投降して下さい」
「待てよ、…撃ったのは確かに悪かったさ。あぁ、悪かった」
中央の左利きの男が、不気味な愛想笑いを作る。
学会の存在を前にして、男たちの態度は明らかに変わっていた。
何かを企んでいるのか。そのまま、中央の男がチェルトに一歩近付いた。
「なぁ、教えてくれよ。学会ってのはお前にいくら金を出してるんだ?」
「答える義務はありません。私を買収するつもりなら、無駄ですよ」
チェルトが声のトーンを下げる。
「怒ったのか?悪い悪い」
にやにやと笑う男は、グループのリーダー的存在であるらしい。周りの男たちが、命あらばいつでも動けるように待機しているのがわかる。
リーダー格の男が更に一歩踏み出す。
「まさかこんなガキがエンブレムを持っているとは思わなかったな。いい手だよ。いやぁ、学会ってのはひどいもんだ。かわいそうに。親に売られたか?学会から出たことないんだろう?同い年の子と遊んだこともないんじゃないか?子供のうちに洗脳して手駒にする。学会の考えそうなことじゃねえか」
「…私が何を答えても、あなたは湾曲して返してくるんでしょう。それがあなたの戦略ですか。私は答えない」
チェルトの声は冷たい。
反論を押し殺している。怒りに耐えているようにも見えた。
何かチェルトの中の、アリーが知らない暗い部分に、触れるものがあったのだろうか。
(大丈夫。落ち着いて)
アリーがチェルトの腕をそっと掴む。
好き勝手言ってるんじゃないわよ!と、叫びたいのを我慢して、アリーは目の前の男を睨みつけた。