須波の地祇、かく語りき ――天下りし虹、地に臥せること
少し、昔話をしようかな。
あれは……そう、君たちが『神代』と呼んでいる時代のことだ。
私にとってはつい昨日の出来事のようにも思えるけれど……いや、昔と言えば、昔の出来事でもある、かな。
それは、何十年……いや、何百年に一度と言ってもいいくらいの、激しい嵐の日だった。
いや、あんなことは何百年に一度だなんて、そうそう起こらないだろうな。
自然の権化として生きる私にとって、大嵐なんてそう珍しことではないのだけれど……そんな私ですら、嫌でも印象に残らざるを得ないような。
そんな、出来事だった。
……え、結局何が起こったのかって?
ごめんごめん。前置きが長かったね。
それじゃあ、一言で言うよ。
『空から大蛇が落ちてきた』。
出来事だけを簡潔に述べれば、こうだ。
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あれは……今でも、はっきりと覚えているよ。
それは、いつにない暴風が須波の地を訪れていた時のこと。天を、いつにない早さで分厚い雲が天を覆い、もう何日も、日照りがないが続いた。
明るくなる時と言えば、それこそ稲光が光るほんの一瞬くらいだ。
雨風で山肌は削られ、湖は流れ込んだ土砂で溢れかえり、そのあおりで川も氾濫し……と、まるで連鎖するかのように、災厄が次々訪れた。
人々にとっては、それこそ『祈るしかない』状況であるわけだ。
皆口々に、カミガミに祈っていたよ。
『この須波の地に座すカミガミよ、どうかお怒りを鎮め、そしてこの嵐をお鎮めください』とね。
……そうは言っても、正直なところ、私にはどうしようもなかったんだけどね。
そもそも、この嵐は私が起こした訳じゃあなかったんだから。
でも、ある意味で祈りは通じたのかな。
ひときわ強い稲光と、大きな雷鳴が轟いた。
それから、空を覆う分厚い雷雲を切り裂いて、これまた、ひときわ強い疾風が巻き起こって。
雷雲の隙間から、この嵐の元凶が落ちてきたんだ。
そいつは……大きな大きな、あまりにも大きな蛇だった。
黒と翡翠の鱗を稲光に閃かせて、天を貫かんばかりに長い体躯を、苦痛に捩らせて。
真っ逆さまに落ちて、湖面に打ち付けられて、大きな大きな水柱を立てて……沈んだ。
そして、大蛇が湖に沈んだ時、それまでの激しい嵐が、嘘のように勢いをなくしてしまった。
恐らく、湖面に打ち付けられた際に、気を失いでもしたんだろうね。
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でもって、お話はここで終わりじゃあない。
このお話には……あまり綺麗とは言えない続きがある。
大蛇が湖に沈んで、嵐が勢いをなくした矢先のこと。
その大蛇を撃ち落としたのは、雷の神様だった。
彼は、天上の神々の国――高天原を拠とする一族・天津神の御使いだった。
まぁ、やってることは御使いと言うよりは、ほとんど武力鎮圧だけど。
……っと、また話が逸れたね。
ともかく、大蛇を撃ち落とした雷神サマは、須波の地に降りたった。
それを見た誰もが、あの大蛇にとどめでも刺すか、もしくは捕らえるか…誰もがそう思った。私もそう思った。
でも、それは違ったんだ。
雷神サマは私たちに向かって、こう言った。
『其方等に、この者をこの地に封ずることを命ず』と。
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うん、不可解な話だ、と思うだろうね。その気持ちは、私にもわかる。
と言うか、私だって、そのときは理不尽だと思ったよ。
撃ち落としたのは手前等なんだから、手前等でちゃんと後始末するのが筋だろ、ってね。
でも、その時、私たち須波の地の者たちはこれを飲まざるを得なかった。
何故って?答えは、そう難しいことではない。
雷神サマご一行……もとい、天津神の一派と、私たち須波の者たちは、緊張関係にあった。
天津神たちは、その時は西方の、出雲の地を手に入れることにご執心だったのだけれど…それと同時進行で、須波の地も手に入れようと、あれこれ画策していたみたいなんだ。
けれど、そちらは思うようにうまくいかなかった。
何故って?こちらの答えは、もっと簡単さ。
須波の地の人々が、古きカミガミへの信仰を手放そうとはしなかったからだ。
天津神があれこれ力だとか神徳だとかを誇示しても、須波の地の人々は、古きカミガミを祀ることをやめようとはしなかった。
それほどまでに古きカミガミへの信仰は手厚く、そしてそれ故、古きカミガミは強大な力を持っていた。
それこそ、天津神をも凌駕するかもしれないくらいにね。
そこで、天津神らは別の作戦を立てた。
で、話は少し変わるけど……彼らは少し前に、出雲を手に入れた。
その際、結果的にではあるみたいだけれど、出雲の王族を滅ぼす運びとなったんだ。
けれど、出雲の王族には、最後の生き残りだった王子様がいた。
その王子様も、結局は雷神サマに敗れちゃった訳だけれど……よほど悔しかったのかな。
決闘の末、浜に打ち捨てられた亡骸は大蛇に姿を変え、嵐を呼んだ。
この『元・出雲の王子様の大蛇』こそが、私が最初にお話した『湖に落ちた大蛇』なんだ。
で、話を元に戻そう。
一言で言えば……雷神サマは、この大蛇を我々を揺さぶるための交渉材料としたんだ。
あらかた、須波の地に誘導して、ちょうど良い頃合いで狙いを定めて、湖に撃ち落とした。
……最後の方は、あくまで私の推測なのだけれど。何せ、本人が語りたがらないんだからね。
そして、雷神サマは言った。
『この者をこの地に封ずることを命ず。逆らえば、天津の軍勢を全て投じ、地祇の聖域を破壊し、一族を根絶やしにする』
それが、彼らが私たちに示した、争いを避ける為の条件だった。
彼らと全面戦争なんてしたら、それこそ須波の地が文字通り焦土になる……粗方、そう踏んだんだろうね。
かくして私たちは、この条件を飲み込むこととなった。
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そうして、須波の地の古きカミガミへの信仰は、護られた。
しかし、それでめでたしめでたし、とはいかなかった。
そう、問題は例の大蛇のこと。
ここに来て間もない頃は、そりゃあもう、大変だった。
憎しみやら何やらで我を忘れているみたいで……雷神サマが去った後は、また嵐を起こすわ、川は溢れさせるわ、古きカミガミのご神体を壊して飲み込もうとするわで……散々だったよ。
あの当時、まだそんな言葉は無かったかのだけれど……まさに『怨霊』と呼ぶに相応しかったね。
或いは単純に、『祟り神』で良いのかな?当時はそう呼んでいたわけだし。
……そうそう。私も彼を押さえつけようとしたら、返り討ちにされたことがあった。
お気に入りの武具を駄目にされたときは、結構落ち込んだりもしたっけな。
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結局、彼を鎮めるのに一番効果があったのは……そう、生贄だ。
選ばれたのは、天津神の男神を父に、それから須波の娘を母に持つ、齢十四の女の子だった。
なんでも、母方の遠縁である安曇平の長の許に養子に出したところを、これのためだけに須波に呼び戻したんだってさ。
養子に出された理由は、天津神の混血児である彼女は、古きカミガミの神官の一族にとっては、驚異になり得る存在だから。
その際、先方とは『彼女に二度と須波の地を踏ませない』という約束を取り付けていたみたいだけれど……結局は、それを持ちかけた側が反故にした、という訳だ。
ちなみに、私たち古きカミガミも、ヒトの生贄を欲することもある。けれど、そちらは原則として、神官一族の血を引く男児に限られてる。
だから、その女の子は、その大蛇の怒りをを鎮めるためだけに選ばれたんだ。
結果として……まぁ、それだけでは無いのかもしれないけれど……彼女の犠牲を契機に、大蛇は少しずつ、落ち着いていったよ。
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その後の彼らは……今も、須波の地にいるよ。
大蛇の方は、私をはじめとする古きカミガミと和解した。そして、彼らへの信仰をより手厚いものにするために尽力するようになった。
また、自らが荒らした山河を元に戻し、豊穣をもたらした。この地でコメ作りが盛んになったのも、この頃からだった。
或いは、彼がまだ出雲にいた頃、最後までと戦う意志を失わなかった……ということで、名のある武人が勝利を祈願するようにもなった。
そうして、須波……あとの時代からは「諏訪」に代わるけれど……の地の人々限らず、多くの人々に愛され、信仰される神様となった。
それと彼、生贄の女の子のことは、今でもとても大切にしているよ。
『憎しみに囚われ、怪物になり果てること無くいられたのは彼女のお陰だ。だから僕は、彼女に恩返しをしたい。何としても護りたい』……そう言った時の彼は、とても晴れやかな顔をしていた。
その女の子の方も、彼のことをとても大切に想っているよ。
『生贄としてここに来た時は、戸惑いが全くない訳ではなかった。でも今は、彼と出会えて良かった、幸せだと心から思う』……そう言った時の彼女は、とても穏やかな顔をしていた。
うーん、なんだろう……恋の力は偉大、ってやつかな?
なんだか陳腐なおとぎ話みたいではあるけれど、私は嫌いじゃないよ。そういうの。
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とは言え、実のところは反発も多く受けているんだけどね。
もとよりこの地とは、縁もゆかりもない外来の神で、散々悪さをしておいて、でもちゃっかり古きカミガミからは認められて、地位を手に入れて、ついでにかわいい女の子と幸せになって……なんて。
ヒトの感情からすれば、そんな虫の良いはなしあるか、って思う気持ちもまぁ、解る。
実際、彼はこの地では『諏訪の明神様』と呼ばれてはいるけれど、本来の彼の名前……つまり、『出雲国の王子』の名は、呼んではいけないことになっているしね。
ま、そのあたりは彼自身も弁えているみたいだけど。
だから今、彼自身を指す名……『明神様』というのは、言わば尊名だからね……は、違う名前を名乗っているよ。
『天を貫く蛇が地に臥せる』――そういう意味を込めて、虹臥と。
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長くなったけど、このお話はここまで。
とは言え、この件に関しては、私が知っている範囲で話したに過ぎない。
だから……全容を知ることとは、ほど遠いと思う。私とて、全知全能では無いのだからね。
それじゃあ、ひとまずこの辺で失礼するよ。
詳しいことが解ったら、また。