8 手を放すことは簡単で、でもそれを選ぶのは貴方
禿が、遊女になるのは当たり前のこと。
だって禿たちは、そのために金銭と引き換えに天姫殿へとやってきたのだから…。
水揚げの日時を決めて、それを乙衣さんに伝える。
もちろんそれを、本人である彼女にも伝えないといけないのに…なぜか俺はそれをしたくなくて、その役目を乙衣さんに任せてしまった。
何で俺は、それをしたくなかったんだろう。
仕事だと割り切れば今まで何だってできたのに。
考えても、考えても…わからない。
と、言うか一つだけ思い当ることがあるのに、俺はそれを認めたくない。
だって俺は、あの嫌いな色を持つ彼女のことが、嫌いだったはずだ。
鮮やかで馨しい、春を彩る華の色。
確かに桜歩兄が亡くなってから、俺は彼女のことが“嫌い”ではなくなったとは思う。
だけど、それだけだ。
“好き”とか言われたりもしたけど、返事だってしてないし、その返事は“否”しかありえない。
俺は白妙であって―今は天姫だけど―彼女は禿でしかないのだから。
ふと感じた胸の痛みに、俺は首をかしげる。風邪でも…ひいたかな?
「…ちゃん、みーちゃん?」
名前を呼ばれ、視線を向けると目の前に樋摘姉の姿。
考え込みすぎて、気付かなかった。
…というよりも、何で俺はこんなことを真剣に考え込んでいるんだろう。
「ごめんなさい、樋摘姉。えっと…何か用?」
「別に用があるってわけじゃないんだけどね、見世の子が“天姫様がひどくぼぅっとしていらっしゃって、話しかけても反応がないから樋摘様どうにかしてくださいませんか。”って言いに来るものだから。」
樋摘姉のその言葉に俺は思わず頭を抱える。
つまり俺が考え込んでいる間に本当に用事があった者が話しかけたが気づかず、終わりのない思考を巡らせていたというわけか…。
「それで、みーちゃんは何を考えていたのかしら?
仕事馬鹿…もとい天姫殿馬鹿のみーちゃんが仕事を放置してまで考え込んでしまったこと、私、気になるなぁ。」
そう言って樋摘姉はにっこり笑う。
仕事馬鹿だの天姫殿馬鹿だの、突っ込みたい点はいくつもあるが、突っ込んでも話すまで解放してもらえないのは目に見えている。
桜歩兄の前では大人しい女であった樋摘姉だが、彼女は結構したたかでなおかつ強い。
案の定俺は、すべてを彼女に話すしか道はなかった。
根掘り葉掘り俺から聞き出した樋摘姉は、その深紅の瞳に呆れた色を映し出して俺を見る。
なんとなく、視線が痛い…。
「みーちゃんって、変に鈍いわよね。」
「はい?」
鈍いはともかく変だなんて、好きなカタカナ並べて娘に“メリアム”とつける貴女に言われたくない。
「仕事もよくできて気もきいて、しっかり者で落ち着いた性格の男前…でもどことなく鈍いのよね。
まぁみんなそこがいいのかもしれないけど。」
「あの、樋摘姉?まったくもって何の話かわからない。というか、みんなって何のこと…?」
首をかしげて尋ねた俺の目前に、彼女はか細い指をぴっと向ける。
「ほら!やっぱり気づいてない。
あそこまで騒がれていて、全く気付かないっていうのもある意味才能よね。」
そう言って一人納得したように樋摘姉はうなずく。
一人で納得してないで、ちゃんと説明して欲しい。
「みーちゃん、白妙に“天姫殿の王子”って異名がついてたの知ってた?」
「え?乙衣さんそんな風に呼ばれていたんですか?」
俺の答えに、樋摘姉は大きなため息をつく。
なんだか馬鹿にされた気分…。
「あのおっさんにそんな憧れ目線の異名がつくはずないでしょ。
王子よ、王子!みーちゃんのことにきまってるじゃない。」
「えぇっ!」
“天姫殿の王子”って…何その、大変恥ずかし異名…そして本人であるはずの俺が全く知らないのは何で…?
それに俺が白妙をやっていたのなんて、一年と少しというとても短い期間で…。
「まぁ遊女屋なんて女ばかりだし、若くて未婚、なおかつ男前のみーちゃんがモテるのも必然だとは思うけど…当の本人は噂なんて全く知らないし、恋愛感情には鈍いし、頭は固くって仕事第一だし……。」
くどくどとお説教とも悪口とも取れるようなことを続けていた樋摘姉が、キッと俺の方を見る。
「でもね、みーちゃん。
あなたはもう従業員じゃないのよ?
当主なんだから、自分の気持ちに素直になって、少しぐらい無茶したって許されるのよ。
みーちゃん、雪葉ちゃんのこと好きなんでしょう?」
水揚げ、それは遊女になるべく売られてきた私にとって、近いうちにやってくるものだった。
禿…客は取らない見習いと言うべき立場である者が、初めて客を取る日、それが水揚げである。
もちろん遊女として春を売るのだから、私にとってもほかの禿たちにとってもそれは嬉しいものではない。
しかしそれ以上に、この知らせを受け取ったときに私が感じた絶望の大きさが重かったのは、その日を決めたのが私の愛する男であるだろうからだ。
ついこの間まで、“白妙”と呼ばれていた鮮やかな緋色の髪の少年。
初めの頃の彼はひどく事務的で、燃える炎の色を持ちながら、冷たい氷のような人に感じた。
“白妙”の名にふさわしい、清廉とした…空気のような印象の人。
“白妙”が本当の名ではないといい、名を聞いたら冷たく突き放された。
桜歩が死んで、彼はとても打ちのめされていた。
泣いている彼は小さな子供のようで、より愛しさが込み上げてきた。
独りになったと泣く彼に、私が一緒にいると誓った。
好きだと、告げた。
それから彼は、私の告白に戸惑いを見せながらも、次第に打ち解けてくれた。
最初に、堅苦しかった口調が柔らかいものになった。
ふとした時に、自分のことを“俺”と言った。
そんな彼の小さな変化が、嬉しくてたまらなかった。
困ったように笑う彼の笑顔が、何よりも愛おしかった。
それだけで、私はとても幸せだった。
ただ彼を視界に入れられる、この場所にいられるならば。愛されることを望んだりもしない。
ただ愛することを許してほしかった。
そして、最後に……。
夕闇に天姫殿が染まる、そんな時間帯。
天姫殿は煌々と明かりを灯し、息づき始める。
そんな頃に回ってきた、一通の手紙。
『桜の木の下で、貴方を待つ。』
手紙の場所に行ってみれば、予想通りの人の姿。
名前は書いてなかったけれど、なんとなく彼女である気がしていた。
「雪葉。」
名前を呼ぶと、長い桜色の髪を揺らして俺を見る。
白い雪に染まった真冬の桜の木を、桜色の彼女の髪と瞳が彩る。
「聞いておきたいと、思って。」
桜の木の下から、それのある中庭に面した廊下に立つ俺の方へ、彼女はゆっくりと歩いてくる。
俺よりもずっと小さな背丈の彼女が、廊下よりも低い位置にある庭から、俺を見上げる。
俺のことを白いと言った、桜の色と雪の名を持つ少女。
「貴方の名前を、教えてほしい。
白妙でも天姫でもない、貴方だけの名前を。」
いつものように淡々とした口調で、彼女は問う。
一度は必要ないと言って、教えなかった俺の名前。
「ミヤビ。」
「みや…び。」
「雅に灯すと書いて、雅灯。」
紅く鮮やかな髪色から付けられたんだろうと言われる、俺の名前。
「みやび…。みや、び。そう…雅灯って言うのね。」
そう言って雪葉は、華のように微笑む。
その笑みを見てると、嬉しさと同時に胸が苦しくなる。
それは“恋の病”と言うのだと、樋摘姉は言った。
「雅灯を、愛してるわ。ずっとずっと愛してる。
私は雅灯を、絶対に一人にしないから…。」
そう言って彼女は、ひどく鮮やかに微笑む。
だけどその微笑みはどこか儚く、今にも消えてしまいそうで…。
俺はとっさに庭へ飛び出し、彼女の腕を引っ張って自分の胸の中に押し込んだ。
それからというもの、思いもよらない出来事の連続だった。
なぜか周囲には俺の雪葉への気持ちも、雪葉の俺への気持ちも知れ渡っていて、
俺の知らない間に乙衣さんのもとにみんなで直談判に言っていたらしい。
そんなみんなの後押しもあって、雪葉の水揚げは中止となって、俺たちは婚約の儀を結んだ。
あの日初めて逢った時から、恋に落ちていたのかもしれないと、俺たちは顔を見合せて笑う。
天女が消えた楽園で、俺は新しい家族を手に入れた。
彼女は俺を、独りにしないと誓い、俺が孤独に怯えることはなくなった。
愛しい彼女が、華のような笑みを浮かべてささやく。
「ねぇ、雅灯。ちょっとだけ思わない?
怒ってくれる乙衣がいて、お節介を焼いてくれる樋摘もいて、心配してくれるみんながいる。
それはとても、家族のようだね・・・。」と。




