5 重ねられたその小さな手が
俺のことを好きだと言ったあの少女は、俺を独りにしないと言った。
「白妙さん!ちょっとこっちにきなさい!」
先代白妙、乙衣様の協力もあって、天姫がいなくなった天姫殿は何とか機能している。
あれから数日、彼女の言葉によって救われた俺はなんとか白妙としての仕事をこなしている。
彼女はと言うと、俺に言った気持ちの答えを求めようとせず、ただ懐く子犬のように、自分の仕事の合間を見つけては俺のところへやってくる。
そして俺も、そんな彼女に甘えて答えを返してない。
「やっぱり…ずるいのかな。」
「誰がずるいの?」
誰に向けたわけでもないそのつぶやきに返事を返され、俺は思わず飛び上がる。
今割れ物持ってたら絶対落として、乙衣様に大目玉くらうとこだった…。
「あら、ごめんなさい、みーちゃん。驚かせちゃったかしら?」
そんな言葉に振り向くと、後方斜め下に樋摘姉の姿。
そう、いくら彼女が童顔で背が小さかろうと、兄のような存在であった桜歩兄の妻である彼女は兄嫁、つまりは義姉さんということになる。
「それで、何がずるいのかしら?」
きゅるん、という謎の効果音が付きそうなくらいに可愛らしく、彼女は首をかしげる。
確かこの人…二児の母じゃ…。
「えっと…あの、その…。」
俺がどう言うか、それとも言わないか悩んでいるうちに、彼女は勝手に話を進めていく。
桜歩兄の前では大人しい女というか、良妻的だったのだが、俺の前での彼女はよくしゃべり、暴走を繰り返し、勝手に話を進めていくことが多い。
「あ、もしかして雪葉ちゃんかしら?
えっと、源氏名は確か酔夢ちゃんよね?
彼女、ここのところ毎日みーちゃんの所にかよってきてるんでしょう?
あらぁそれってつまりは通い妻っ」
「あんたちょっといっぺん黙ってください。」
とんでもないことを言い出した樋摘姉の口を慌てて手でふさぐ。
そんなこと言ってるの聞かれて怒られるのは俺なんですよ。
「白妙さん?こっちに来なさいと言う私の声が聞こえてなかったんですが?」
背後から聞こえた乙衣様の声に俺は思わず飛び上がる。
考えことをしていたからよく覚えてないが、呼ばれたような、呼ばれてないような…。
まぁ呼ばれた気はするが、
樋摘姉の出現に驚いた時にそんなこと頭の中から飛んで行ったというのが正しいか。
「すいません、樋摘様と少し、話をしていたものですから…。」
そこまで言って、今更ながら思い出す。
この二人、天敵と言ってもいいほど仲が良くなかったことを。
「そうですか、白妙さんの仕事を邪魔していらっしゃったのは樋摘様にございましたか。
ご自分の仕事もなさらず、裏の仕事の邪魔をしに来るとは天姫の奥方にあらしゃるだけあって、いい御身分ですねぇ。」
「あら、別に私だって暇なわけじゃないんですよ?
ただ今は表の仕事も終わりが近く少しばかり手も空きましたので、こちらの様子はどうなっているかなぁ、傷心の白妙君が乙衣様にいじめられてないかなぁと思い、見に参っただけですのよ。」
間に俺を挟んでバチバチと火花を散らすこの大人二人が怖いです。
もう何というか…仕方ないのかもしれないがあまり見たくない。
「白妙、あの二人は何してるんだ?」
そんな声に振りかえると斜め下に雪葉の姿。
今頃気づいたが、雪葉の身長は樋摘姉と同じくらいだ。
ということは、桜歩兄より五尺(十五センチ)…たしか彼と俺の身長差が二尺(六センチ)ほどなので、七尺ほども小さいのか。
「何してる…というか、戦っている…かな?」
あの二人はもうずっと前…それも桜歩兄と樋摘姉が結婚した頃から仲が悪い。
まぁその二人の結婚が、樋摘姉と乙衣様の中の悪い原因だけど。
「乙衣と樋摘は仲が悪かったのか…。なんでだ?」
「乙衣様と樋摘様、な。まぁ仲が悪い理由は単純だよ。」
俺はそう言って、あの頃を思い出し小さく笑う。
あの頃の樋摘様は俺より幼く、だけど今とあまり変わりがなかった。
「樋摘様はもともと、遊女見習いの禿だったんだ。
だけどそんな樋摘様に桜歩兄は恋をして、彼女を妻へと娶った。
もちろん、乙衣様の反対を押し切ってな。
『遊女上がりの奥方なんて許しません。』
そう言ってずーっと乙衣様は樋摘様のこと認めなかった。
だからあの二人は仲が悪いんだよ。」
そう言って俺は肩をすくめる。
その話だけだとまるで姑のように乙衣様が樋摘姉をいびっていたようにも思えるが、先ほどの本人たちのやり取りからもわかるように樋摘姉も決して負けてなかった。
そして俺は桜歩兄と二人、そんな樋摘様を影から見て、『女は強いね。』とよく笑ったものだ。
何を考えているのは、雪葉は悩むような動作をしきりに繰り返していて、はっきり言ってその様子は少々挙動不審とも言える。
「まるで、物語のような話だな。」
俺を見上げて小さく笑い、そう言った彼女に俺は目を丸くする。
確かに、言われてみれば物語のようだ。
『みぃ!みぃ!』
高い位置で結んだ緋色の髪が俺の視界の端で揺れる。
振り返るとそこには長い薄紫の髪を揺らして走ってくるいとこ従兄の姿。
『どうしたの、桜歩兄。』
どうやら走って来たらしく、体が弱いことにより極端に体力のない彼は大きく肩で息をしている。
医者には走っちゃいけないって言われてるのに。
そんなことを思い俺は小さくため息をつく。
『あのねっ、ついに乙衣を口説き落としたんだ!』
一瞬脳裏にいやな想像が浮かぶが、すぐにどういうことかわかり俺は納得したようにうなづく。
つまりは乙衣様から樋摘さんを嫁にする許可をもらったということなんだろう。
まぁ桜歩兄のあまりのしつこさについに乙衣様が折れたっていうのが一番正しいんだろうけど。
『おめでとう、よかったね。』
『うんっありがとうっ。』
そう言って笑った桜歩兄の笑顔、一番幸せそうだと感じたんだ。
「…え、白妙?」
過去を振り返っていたとこに名前を呼ばれ、俺ははっと我に返り、名前を呼んだ少女を見下ろす。
彼女はいつもと変わらぬ様子できょとんと俺を見上げている。
「あれ、止めなくていいのか?」
あれ、と言って彼女が指さした先には火花散らして言い争う樋摘姉と乙衣様の姿が。
何の騒ぎかと人だかりができていて、それでも騒ぎの中心にいること、騒ぎになっていることに気付かない大人二人に頭が痛くなりそうだ。
「ありがとう、止めてくる。」
大きなため息をついた俺に、雪葉は大人二人に呆れたかのように苦笑する。
「うん、がんばれ。
私もそろそろ休憩も終わりだから戻るよ。
水揚げが近いから覚えることがいっぱいあって大変なんだ。」
あぁ、そうか。
雪葉は十四なんだ。
去っていく雪葉の背を見ながら今更とも言えることに気付く。
天姫殿の禿が遊女へとなることを“水揚げ”と言う。
それはだいたい十四の年に行われ、彼女はつい二か月ほど前ここにやってきたばかりだが、
そのときすでに十四だった。
つまり彼女が禿だったのは、ここの暮らしに慣れるまで、だ。
俺が雪葉に与えた、“酔夢”と言う名の意味を、俺は今頃になって認識したのだった。