3 差しのべられたその手が
降り注ぐ桜色の花びらが、邪魔で仕方がなかった。
無音と言えるその昼の遊女屋はただただ静かで、人は確かにいるのに誰もいないようで、俺だけが取り残されたというその事実を、俺に強く認識させた。
「どうかしたの?」
頭上から聞こえた声。
俺は慌てて涙を拭き、顔をあげる。
逆光になって顔は見えない。
薄紫の髪が、ゆらり、風にゆれる。
桜色の華を咲かせるその木の枝に座って、彼は俺を見下ろしていた。
「父さんも、母さんも、いなくなった。」
薄紫の髪の彼は、ただ静かに俺の話を聞いていた。
親が目の前で殺されたこと。
その犯人は俺だけ殺さなかったこと。
犯人が逃げる時、俺の視線とそいつの視線が絡んだこと。
そいつの目が何も感じてなく、無表情だったこと。
よすぎたその手際、異様に若かったその見た目から、そいつはその道にどっぷりつかった家の人間…忍者か何かだろうということ。
復讐を望んでいた俺に、それをさせないため知り合いの人によって伯父が天姫を務めていたここ、天姫殿へと預けられたこと。
「それで君は、なんで復讐をしようと思ったの?」
トン、と。
軽い音をたてて、長い薄紫の髪をなびかせ彼は俺の前に舞い降りる。
大きな濃紺の瞳が俺を見る。
「一人に、なったから。」
鋭い視線で彼をにらみ、そう言った俺とは対照的に、彼はにっこりとほほ笑み、手を差し出した。
「じゃあ、僕が一緒にいてあげる。
僕が君の家族になってあげる。
だから君は、いつか僕のために白妙になって。」
それが俺にとっての、世界の始まりだった。
いつも通りの時間帯に起きだして、俺は身支度を整え今日も天姫代行としての仕事と、白妙としての仕事の両方をこなす。
樋摘姉の言うところによると俺は俗に言う有能な補佐らしく、手際よく自分の仕事と共に主の仕事も片付けることができる。
それに近頃は、天姫様にその日仕事ができるかを聞きにいかなくてすむぶん、さっさと仕事に取り掛かれるからある意味で楽だ。
天姫様は秋が深まるにつれ体調がどんどん悪化し、ここ数日は布団をでることもままならない状況だった。
桜歩兄は、初めて俺とあったあの時にはすでに、体が弱く、寝込みがちな人だった。
先代天姫……つまりは俺の伯父の一人息子でありながら、彼は幼いころから、二十歳まで生きられないだろうと、医者に宣告されていた。
だけども彼は、彼が十八だった年に彼よりも五つ若い遊女見習いだった少女を嫁に娶り、二児の父となり、もう少しすれば、二十三歳の誕生日を迎える。
十二月一日に桜歩兄は二十三歳になる。
だけど桜歩兄の主治医の話によると、彼は誕生日を迎えられても、年を越えることができない可能性が高いらしい。
見世を開ける準備が済んだあと、開店までのそのわずかな時間、俺は彼の話し相手になるべく、彼の部屋にやってくる。
もう十一月も終わり、彼の誕生日当日となった今日、だいぶ風も冷たくなってきたというのに、彼はこうやって俺と話している間、窓を閉めることを許そうとしない。
自分が生まれ育った、天姫殿の景色を覚えておきたいんだそうだ。
「みーちゃん、みーちゃん。」
「貴方まで樋摘様のように呼ばないでください。」
あきれた調子で俺が言えば、彼はもうすぐ二十三になる年齢にはそぐわない幼い顔立ちで頬をぷぅと膨らませる。
「いつからみーちゃんはそんな子になったのかな。」
やめてくれと言ったとこなのに、変わらず『みーちゃん』と呼ぶ彼に、俺は大きなため息をつく。
人の話を聞かないところなど、この夫婦はとてもそっくりだ。
「ねぇ、みぃ。雪……降ると思う?」
小さく彼が首をかしげると、肩にかかっていた薄紫の髪がさらりと零れおちる。
先代と同じ、薄紫の髪と濃紺の瞳。
壊れてしまいそうなほど儚く、ガラス細工のように美しく繊細な容貌。
「そんなこと、俺にはわからないよ。」
彼が、俺を昔のように“みぃ”と呼ぶから。
思わず俺も自分のことを“俺”と言ってしまったのに気付き、パッと口元を押さえる。
そんな俺を見て、彼は小さく笑いをこぼす。
優しくて、消え入りそうなほどに美しい頬笑み。
まるで何もかもを悟ったようなその微笑みに、俺はぞっとしたものを感じた。
行かないで、消えないで、置いていかないで。
俺の、たった一人の家族。
俺にとっての…最後の世界。
「別に“俺”って言ってもいいと思うけど?」
「いけませんよ。ただでさえ若年ってことでなめられるのに、そんな一人称使うわけにいきません。」
ツンとそう言えば、また彼はふっと笑う。
初めて会った時から、彼はずっと綺麗だ。
俺がこの世で一番嫌いな、あの儚い桜の華のように。
「若年に見られるとか、子供に見られるとか、君はよく言うけど、みぃはまだ十六じゃない。
そんなに肩に力入れて、眉間にしっかりしわ寄せてるから、二十歳くらいに見えるとか、
老けてるとか言われるんだよ。」
そんな失礼なことを言う彼に、俺はまたため息をついて立ち上がる。
そろそろ時間だから見世を開けなければならない。
立ち上がり彼から背を向けて、そこで初めて気づく。
はらはらと、舞い落ちる白い結晶。六花と呼ばれる、冬の風物詩。
「ゆ・・・き?」
驚いた俺の声に、彼はまた笑う。
望みが、叶ったと。
慌てて我に戻り、俺は部屋から出るべく歩を進める。
彼に背を向けていたので、どんな顔をしてそう言ったのか、俺は知らない。
それを後悔することも、
俺は、知らない…………。
「雅灯。」
久方ぶりに呼ばれた、俺の本名。
そこで俺は足を止めたのに、なんで振り返らなかったのだろう。
「雅灯のこと、大好きだよ。
本当の兄弟じゃなくても、雅灯が僕の大切な弟であることに変わりはないから。
仕事、頑張ってね。」
その彼の言葉に、俺は何だか怖くなってそのまま部屋を出てしまった。
それを後悔するのは、その日の夜更けのこと。