東京ドームにて(6)
話すべきことはもう何もなかった。
かといって、ここで世間話を始めるほどの
神経の太さは持ち合わせていなかった。
つまり今は、無罪放免を待ち望む
囚人の気分なのだ。
最悪死刑。
私と佐々丘さんは、沈黙を気詰まりに意識しつつも、
やはり口をつぐんだままじっとゲーム観戦をしていた。
いつの間にか口を開くのが怖くなっていた。
早く終わってほしい気持ちと、
恐れる気持ちが交錯する。
私の頭の中は、集中力が尽きて、
佐々丘さんもめたもうも離れて、
目の前のゲームも離れて、
どこかへ飛びたがっていた。
逃げたいんだろう。
(東京ドーム。
なんだか景色がクリアに見える。
ふーん。
……
おなかすいたかな、
いや、まだすいてない。
今って何時だっけ。
まあいいや。
佐々丘さん、佐々丘さん、
……
怖い、
……じゃなくて、
えーと、
試合を見よう。
試合、見る。見渡す。眺める。
眺めず、眺めたり、眺める、眺めるとき、眺めれば、眺めよ。
?
あれ、なんか変。
いや、いいはず。
下一段活用。
?違うよね。
うわー、がんばれ国文科。
眺めず、眺めたり、眺める・・・、じゃなくて眺む。
眺むるとき、眺むれば、眺めよ。
そう! そうそう! 下二段活用だ!
私半年前に受験したばっかりなのに、
もう忘れてるよ。
古文の文法で下一段活用は「蹴る」しかなかったんだった、確か。
蹴ず、蹴たり、蹴る、蹴るとき、蹴れば、蹴よ。
それ以外は、下二段活用だ。
この試合が野球じゃなくて、
サッカーだったらもっと早く気づいたのに。
下二段活用って何があるかな。
「冴える」とか。
冴えず、冴えたり、冴ゆ、冴ゆるとき、冴ゆれば、冴えよ。
私の頭よ、冴えよ!)
そのとき、無個性な着信音が私を現実へ引き戻し、
佐々丘さんがポケットから携帯を取り出すのを見た。
表示を眺めている。
「……出ないんですか?」
「出ない」
私はなんだか嫌な気分になった。
後ろめたさ。
私は何も自分は卑怯なことはしていない、と思いたい。
ただ、めたもうのことを話したかっただけ。
想うだけでも、それは悪いことだろうか。
でも、佐々丘さんが私を好きかもと思った時点で、
私が突きはねるべきだった?
それは私のすべきこと?
それは佐々丘さんのすべきこと。
だとしても、
誰の役目とか、誰のすべきこととかの問題だろうか。
悪いとか悪くないの問題だろうか。
「出ないでいいんですか?」
「なんで」
「だって」
なんだか悪者の会話みたいだ。
「悪いから」
「彼女とよりを戻せって言ってるの?」
「だって」
「ほかに好きな人がいるって自分で分かってて、
何十年も彼女と過ごさなきゃいけない?」
「そういうわけじゃないけど」
「誰も傷つけたくないなら、
僕や自分が傷ついてもいいの?」
なんだかこの話になると、
佐々丘さんはちょっと厳しくなる。
前に、彼女が泣いてるから行ってあげて、
と言ったときもそうだった。
私はどうしたらいいのか自分でわからなくて困っているのに、
そんなふうに質問形で言われても困る。
佐々丘さんも困っていた。
生きるか死ぬかって話をしてたのに、
こんなことでまた袋小路みたいな気分になっているなんておかしい。
佐々丘さんはちょっと黙ってから、
「どうすればいいか分からないけど、
説明してみると、
彼女は僕を必要としているけど、
ほんとは僕じゃなくてもいいと思う。
彼女は恋をしている自分が好きで、
誰かを想うことを楽しんでいるけれど、
僕を見ているわけじゃない。
自分の気持ちを見ている。
自分がさみしいと思う気持ち、
自分が会いたいと思う気持ち、
そういう気持ちに目がいっていて、
それを恋だと思ってる。
あと、彼女は女として僕に惚れているけれど、
僕も彼女をきれいだと思うし、
笑顔も素敵だと思うけど、
でも二人の心が通じ合っているとは思わない」
「じゃあなんで付き合ったんですか」
「一緒にいるだけで幸せだと言われたから。
こちらから何もしてあげられないけど、
一緒にいるだけで幸せになってくれるなら、
付き合ってもいいかと思った。
でも、本当は、一緒にいるだけでは幸せになってくれなかった」
佐々丘さんは、なんでもどうでもいい、という感じだった。
初めて会ったときから。
どうでもよくないのは、めたもうだけ。
「僕はね、好きっていうのはもっと暖かいものだと思う」
最後にそう言った後で、
佐々丘さんは困ったことを言ってしまった、という雰囲気を漂わせていた。
まるで理想主義者の中学生みたいな青いことを
言ってしまった、という恥ずかしさ。
「ええと、もっと、水が低いところに流れるみたいに、
居心地のいいところを探していったら、
自然にたどり着いていた、みたいな」
フォローしようとするがフォローになっていない。
「ええと、心が近い感じ」
佐々丘さんがそう言って言葉をとぎらせたまま私を見ていたので、
やっと私も気づいたのだ。
その理想主義者の恋愛論みたいなのが、
論じゃなく実際に感じたことを言っていたことに。
「うわあ、もう分かったです」
「こんなことを話すのは似合わないんだけどね」
そう、前までちょっとニヒルで慇懃無礼なところがあったのに、
そのポーズがすっかり崩れている。
ともかくも、そんな会話が繰り広げられたのだ。
これを読んでいる人にとっては、退屈かもしれない。
くさいと思うし、のろけと思うかもしれない。
だったら何で、めたもうの話から反れるにも関わらず、
私が書いておきたかったかと言うと、
たぶん、忘れたくなかったからだと思う。
こんなことを言われたのは生まれて初めてだったから。
話を進めます。
試合が終わりました。