夕暮れ
日が長くなってきたなあ、と思う。
エスカレーターで地上に出ると、
前ならもう夜になっていて
店の明りや車のライトが光る世界だったのに、
今では、同じ時刻なのにまだ日の光が感じられる。
街は淋しげで、灰色がかって、
昼間の名残が空気に溶けている。
水の底のような静けさと湿り気のある、
揺らぐような薄ら明かり。
私の心の底にもこんなような薄ら明かり。
こんなようなさみしい水の底のような空気がとどこおっている。
佐々丘さんの背広の肩口は、そんな揺らいだ空気の中でも、
黒々ときっぱりとしていて、
私の目に映る夕方の街の風景の中に、際立つ。
この人は男だなあ、と思う。
この人は大人の男で、私はまだ子供だなあ、と思う。
それは頼もしくて、同時に距離を感じてさみしい。
その上、その大人の男が、常識から外れたことに夢中になっていて、
当たり前のことをしているようなクールな顔で、
破滅?
していく様を見るのはいっそう危うくて恐ろしい。
私に何ができるのだろう?
佐々丘さんの彼女の警告は私には重く響いていた。
確かにおかしいよ。普通じゃないよ。
私の頭もまだ混乱していて、
今も思考が少しおかしくなっているかもしれない。
でも構わない。
この東京のこの都会のこの街中で、いま私に背を向けて歩いている
この男が少しおかしくなっている。
それに道行く人は気づいていない。
私と、彼女だけがそれを知っている。
だから、責任を感じる。
それに私は佐々丘さんのことが、どうやら、というか、
やっぱり、というか、なぜだかわからないけど、
何はともあれ、
……好き?
なので、佐々丘さんの力になりたいと思う。
……。
早くこのめたもうを片付けてしまって、
彼を、この人を、彼女の元へ返してあげたいと思う。
どうすればめたもうを片付けてしまえるのかはわからないけど。
きっとめたもうを捕らえることができれば、
それで終わりになるのだろう。
そうしたら、日常が始まる。
全て元に戻る。
佐々丘さんと私がこの奇妙な会合を開くことももう無くなり、
佐々丘さんは私に会う前の生活を送り、
彼女はもう泣くことはなくなり、
私も元の私に戻る。
戻るのか?
この街の中を歩いていると、
とてもたくさんの人と行き違う。
その通行人の一人に私は戻れるのだろうか?
私は私の中で、佐々丘さんをその見知らぬ通行人の一人に
戻すことができるのだろうか?
私は夕闇の中を、彼の後について歩きながら思っていた。
それはできないだろう。
佐々丘さんと出会う前はそれなりにバランスを保っていた世界が、
佐々丘さんと出会ってからは色を変えてしまって、
もし出会う前に戻そうと思っても、
彼のいた場所に、穴が空いてしまう。
”欠員”のランプが点灯する。
人を大切に思うというのはこういうことなのだろうか。
大切な人ができるほど、もう元には戻れなくなる。
もう一人には戻れなくなる。
そして、その人を失うたびに、別れるたびに、
この世界はバランスを欠いていく。
そして、何人もの大切な人と別れていった結果、
最後にはその人の世界はバランスを失い、倒れてしまうのだ。
それが、人を大切に思いながら、生きていくということなのだろうか。
だって、きっと佐々丘さんとすっかり縁を切ってしまって、
この先の人生が交わることのないよう別れてしまったなら、
佐々丘さんがいたはずのところの空気が薄くなる。
息苦しくなる。
世界が薄らぐ。
それは、まるで、めた__
佐々丘さんと目が合った。
「着いたよ。入ろう」
私は無言で彼を見上げる。
「今日は杉浦さん無口なんだね。考え事?」
「あ、はい。ちょっと」
佐々丘さんが店に入っていく。
この背中。
この背中をもう見れなくなる。
見れなくしようとしている。
この問題を解決させてしまって。
日常に返す。彼を彼女に返す。
それがきっと一番平和だ。
「ブレンドコーヒーとピザトースト」
「カフェモカと、私もピザトースト」
注文してから、佐々丘さんが少し横を向く。
そのすきに私は彼に見とれる。
今は幸せ。それは確かに。