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四十五階の青い異世界

作者: Mayo


「心という機能に関して貴方の思うところはなぁに?」



 ことりと上品に紅茶のカップをソーサーに置き、目の前に座る少女はころころと笑った。長い睫毛が揺れる。胸元の小さな飾りがぎらりと光る。どくりと、心臓から血液が流れ出て、呼吸が荒くなる。直視できない。してはいけない。




 夕刻。太陽が最後の叫びを終え、月へと役目を交替する瞬間。すべての光が消え、気温が下がる、あの青い世界。この時こそ恐ろしい時間帯はないと思う。徐々に点きはじめる街灯はぼんやりと空気に霞み、青さを増す世界はこの世とは思えぬほど冷え冷えとしていて美しい。まるで時が止まったかのような錯覚、微かな音すらも鼓膜に響く。子供の時は徐々に大きくなる黒々とした木々を恐ろしく思い、競争と称して走って家まで帰った。大人になってもその青い異世界には慣れず、電車のごとりごとりと軋んだ音と共鳴するかのような窓の外の青さが厭だった。それが。



「怖いと思う瞬間、それは心が解放されている証なのよ。」



 今は、その青々としたひどく恐ろしい世界を見下ろしながら、ただただ怠惰に時間を殺している。



「貴方は恐ろしいということに気づいた。それはとても素敵なことよ。」



 紅い唇の少女は、囁くように言った。




 ここは、四十五階。


 普段はパソコンのキーを叩き続ける指先をカップに持っていきながら、高平はやっとのことで息を吐き出した。不可思議な苦しさに襲われる。視界一杯に広がった嫌な瞬間から目を背けるには、ただただ視線をカップに注ぐしかない。三百六十度硝子に囲まれたこのフロアは、世界のすべてを見渡すには絶好の場所だった。甘い紅茶を喉に流しながら、ゆったりとした拷問に堪えていた。逃げ出したい、目を覆いたい。そう思っても、目の前の少女はそれを許してはくれない。



「ねぇ、怖い?怖いでしょう?逃げたいでしょう?」



 だぁめ。まだ出してあげられないわ。そう言って、豊かな黒髪を揺らす。高平は虚ろな瞳で少女の首筋を見つめる。紅い華が咲いていた。



「貴方の答えを聞くまでは。」





 気がついた時、高平は四十五階のボタンを押していた。いつもは十七階で仕事をし、そのまま帰るはずなのに、何故か指先が四十五という洒落た透明のボタンに触れていた。今まで高層に上がったことなどなかったせいもあり、好奇心に負けた高平はそのまま上がることにした。巨大な会社内では、すべての階を把握することなど不可能。ましてやまだまだ幹部クラスには食い込めない高平が、知るはずはなかった。


 独身で真面目。根っからの仕事人間の彼にとって、これはささやかな寄り道だったのかもしれない。徐々に数字が増すエレベーターの表示に、どくりどくりと心臓が鳴る。不可思議な高揚感。高平にとって、小さな冒険だった。


 減速し、ゆっくりとエレベーターは停止した。表示は、四十五。じわりじわりとドアが開く。高平は、じっと前を見つめた。



「ずうっと待ってたのよ。」



 そこには、少女がいた。



 ピンク色のふわふわとしたワンピースを着た、黒髪の少女。中学生くらいの、あどけなさが残る幼い女の子。


 驚きのあまり立ち尽くした高平は、ぐいと少女に腕を引かれた。エレベーターから引きずり降ろされる。ついに、高平は絶句してしまった。




 フロアが、すべて一緒になっている。仕切りなどない。ただ、そのまま部屋をつくらず、ぐるりと硝子で囲んだだけの空間。床は大理石。中央にエレベーターがあったらしく、縦にのびる鉄の箱は異常な存在感を放っていた。硝子の向こうにはただ空と、東京の街が広がっていた。東京タワーが、じんわりと輝いている。



「こっちよ、」



 少女に手を引かれるまま、高平は遠くに見えているテーブルセットに近づいていく。紅いテーブルクロスで覆われた小さなテーブルに、二つの椅子。テーブルの上には、香ばしく甘い香りのクッキーと、湯気の出る温かなミルクティーがあった。


 座るようにうながし、自分も座ると、唐突に少女は言ったのだ。心という機能に関して、貴方の思うところはなにか、と。



 ─―君は、いったい何故こんなところに、



 やっと出た言葉は、噛み締めるようにゆっくりだった。眉間に皺を寄せた高平は、ごくりと喉をならす。


「つまらない人。別にわたしがここにいたっていいでしょう?誰にも迷惑はかけていないもの。」


 少女はつまらなそうにそう言った。クッキーに手をのばす。


「そんなことより、わたしの質問に答えてよ。」


 高平は、じわじわと迫る青さに耐え切れなくなっていた。自然に口が開く。逃げたい、逃げたい、逃げたい。



 ─―心は機能じゃない。色んなことを感じて、それを感じる場所が人間にはわからないから心と名前だけつけたんだ。脳がその部分だと、僕は思っているけどね。



 思わぬほか口が回った。ふと、子供の頃を思い出す。恐怖に急かされて、いつも以上に速く走れた、あの、



「それじゃあ、脳に障害がある人には心がないとでも言うの?」



 少女は冷ややかな目で高平を見つめた。


 ─―そうじゃない、ただ、


「心は機能よ。脳はただ感じているだけ。人間の中にはちゃあんと心っていう部位があるの。皆気づいてないけど。脳が意図的にその部位を否定しているから仕方がないわね。」



 ぐらりと視界が揺れた気がした。わからない。高平にとって、今はただ、眼下に広がる青と、ミルクティーの甘い匂いだけが本物だった。



「貴方はそれに気づけるはずよ。ねぇ、貴方はどこで怖いと思うの?何故怖いの?脳が怖いと思っているから貴方も怖いの?」


 紅い唇が歪んだ。少女は笑う。


 ─―僕は、



 目で見て、匂いを嗅いで、肌で感じて。そして過去の経験に照らしあわされ、恐怖は生まれるのだ。それでなければ、本能のままに、人は恐怖するのか。



「心臓がより強く血液を流す意味ってなぁに?脳は馬鹿なのよ。あのね、人はね、恐怖のさなかに恋に落ちるのだもの。」



 ぐらりと揺れる吊橋、遊園地のジェットコースター。海。事故。事件。



「どくりどくりと煩い心臓を聞いて、これは恋だと、勘違いするの。恐怖は恋。恋は恐怖から生まれた不確かな存在。」



 だから脳は心じゃない。



 そう、少女は声を上げて笑った。高平には反論できない。脳のことなど知らない。心臓のことなど知らない。心理学など、知らない。



「いくら考えても、心がどこにあるのかはわからなかった。それでね、一人の女の子が、あることを思いついたのよ。」




 少女は語り出した。哀れで、それでいてどこか甘く愛おしい、不思議な物語を。

 どこかで聞いたような、知っているような錯覚に陥った。

 高平は、少しだけ紅茶を口にふくむ。


   


                *



「わたしは甘い夢を見るだけじゃ嫌なの。」


 ロイヤルミルクティー片手に、拗ねたようにそっぽを向く少女に青年は声を出して笑った。


「それは随分と我儘な願いですね。俺は甘いだけなら其れは其れで幸せだと思いますけど?」


「わたしが幸せだから、きっと甘いだけじゃ物足りないのね。じゃなければ、そんな願いを思い浮かべたりはしないもの。」



 温かな午後。


 柔らかな風。


 屋上のテラス。



「よくわかってらっしゃる。確かに俺もそう思います。其れは幸せな者にしか見い出せぬ果てしなく贅沢な願い。あなたはとても幸せな方だ。」



 金の髪の少女



 黒髪の青年。



「だからきっと、わたしは苦みを求めている。放置していたダージリンのような、少しだけ嫌な苦さを。」

 

  

                   *




「その少女は、資産家の娘だったの。ただただおしゃべりに明け暮れて、護衛である青年と戯れる日々。甘いミルクティーが好きで、お茶会を愛してた。二人だけで過ごす午後はこの上なく平和で、安心で、幸福に満ちていたの。小難しい話から他愛無い話まで、様々なことを話した。」

 

 少女は言葉を紡ぐ。高平はじっと、彼女の唇から生まれる物語を聞く。


   

                *



「時にお嬢様、此の様なお話はご存じで?」


 屋上のテラスに広がる甘い風はビルの間を抜け、高速道路を急かす。面白そうに空に伸びる灰色を見上げ、少女は煌々と輝くダイヤの指輪を振り翳す。



「なあに?」


「幸せなんて虚空だと言う、貴方がたの様な人種こそ、幸せを知らぬのだという下賤の者たちの妬みです。」



 少女はくるりと振り返る。



「それはきっと、その人たちも幸せを知らないからそう言うのね。もし私たちは幸せを知らぬのだと主張したいのならば、その対比である自分たちは幸せなはず。けれどそのような発言は妬みから来ている。彼らは幸せではない。矛盾しているわ。」



 蒼い瞳に映る空の青さは、どんな蒼にも負けぬ程深く色鮮やかに奏でる。厚く深い音色は青年には眩しい。少しだけ、青年は目を細めた。



「其れはお嬢様、貴方が幸せの定義をされていませんから、なんとも曖昧な反論であるとしか言えませんよ?」



 青年は意地悪く笑った。



「幸せなど人によって違うもの。定義しようがないわ。病気の者にとっては息をすることが幸せかもしれない。貧しい者にとってはわずかな金品こそ幸せかもしれない。お金持ちにとっては家族で過ごすことが幸せかもしれない。そんなもの、毎日を幸せだと思えることが幸せにきまっているじゃないの。」



 少女はそう言って、ダイヤの指輪をそっと青年に渡した。



「最も貧しい者に、幸せを。これを届けて頂戴。神様からだって伝えてね。」


「神様とはまた随分と傲慢なことをおっしゃいますねぇ。実際これを受け取るであろう者は、あなたを神と思うでしょうが。」


「それが私の幸せ。他者が私を崇高だと認めることこそ、私の幸せだから。」



 ──そう、それが。



 少女の瞳は晴れている。曇りなど知らぬかのように、すっきりと晴れ渡っている。




                  *




「彼女は詭弁家でもあった。どこからが偽物で、どこからが本音なのか。それがわかるのは青年だけだったし、少女はいつも青年をからかっては可笑しそうに笑うの。悲しみだとか苦しみだとかは絶対に他人には見せなかった。それが彼女の意地だった。」


 噛み締めるように、少女は慎重に話した。いつの間にかぼんやりとティースプーンをもてあそんでいた高平は、少しだけ息を殺す。


「時代が悪かったのかもしれない。少女の幸せを奪う存在は、きっと個人ではなかった。社会、時代という大きな敵が、彼女を辛く苦しい迷路へと誘ったのでしょうね。」



 高平は夢想する。たった一人の気を許せる人が、もしも。もしも、この世界から消えたとしたら。それは絶望か、諦めか。いずれにせよ、壊れてしまったものを元通りにはできないと割り切ることなど、簡単にできるはずがないではないか。時代は流れる。止まることなど決してない。ただ、彼らが存在を続けるかぎり、彼らの物語も終わらない。


 

                 *



 少しだけ目を細めて笑う癖も、流れる黒い髪も、意地悪く歪む唇も、すべて、すべて。



『お嬢様、』



 美しくしたためられた手紙、紙ににじむインク。


「わたしはもう、生きる意味を亡くしました。」


 ──残念ながら、永久にお暇をいただくことになってしまいそうです。


「…わたしは辞めていいなんて言ってない!言ってないのにっ・・・!」


 ──どうか勝手を、お許しください。


 お菓子の山に埋もれて甘い夢に溺れて。其処は魔女の巣食う薄暗い地下室なのだと知らぬままで過ごせれば幸せだったのだろうに。結界を破られ侵入した悪魔はよこせよこせと耳元で囁く。


「今すぐに、技術部に連絡を。」


 そして少女は暗い海底へと堕ちていく。



                     *




「青年は戦争に巻き込まれ、戦地で戦死したのね。死ぬ前に己の行く末を悟った彼は彼女に手紙を送った。その後、結局彼の死体は見つけられなかったけれど、彼が彼女の元へ戻ることは決してなかった。彼女は思った。彼を、作ればいいのだと。馬鹿な考えだと否定されても、不可能ではないことを少女は知っていた。独りよがりの妄想だと罵られても、ただただ彼にもう一度会いたかった。話がしたかった。」



 愚かだと、人は笑う。狂っていると、蔑む。けれど、



 ─―愛して、いたのか。


「愛して、いたんでしょう。」



 歪んでいるとある人は言ったけれど、少女はそれを理解しなかった。少女はいたって自然に、本能のままに行動しているだけだった。



「少女は人間を作って、神になりたかったのではないのよ。ただただ、幸せな日々を守りたかっただけ。」



 冗談で笑って、食事のメニューで拗ねて。


 言葉を紡ぎ、ひそやかな囁きにどうしようもなく心が乱されるような。



「少女にとって、悲しみから逃げるためにはそれしか方法が無かった。ただひたすらに考え、悩む毎日。そして何より彼女を悩ませたのは、心の存在と、その出力についてだった。」



 高平はゆっくりと少女の瞳を覗き込む。きらきらと輝く小宇宙は冷たく、無機質だった。ごとり。心臓が鳴る。



 軋んだ骨と筋肉が、じわじわと体を動かす。



「例えば、物にぶつかったら痛いと言うプログラムを作ることはできる。でもそれは痛いと言っているだけで、痛みを感じているかはわからない。じわりと広がる痛み、不快感。それを脳が認識しているかはわからない。心という機能を見つけられれば、それは簡単にわかるだろうに。」



 いつの間にか、高平は少女の話に聴き入っていた。



 ─―それで、見つかったのかい?



 少女は、曖昧に微笑んだ。



「心というはっきりとした部位は確認できなかった。だからこそ少女は、考え方を変えてみた。」


 目の前の少女はゆっくりと紅茶を飲んだ。ほう、と吐かれたため息が、暖かく空気に溶ける。




「人を作れば良いのだと。そっくりそのまま、脳も心臓も血液も。骨も細胞も。すべてを人間そっくりに作れば、それは人間であり、人間そっくりに作られた存在にも、心が生まれる。所詮、心は機能。脳があって感覚があって、生きてさえいれば。それには心が生まれる。無機物にはない、生きるものにのみ与えられた特権。ねぇ、無機物と有機物の差ってどこにあるのかしらね。もし完璧に作られた機械が感情を持てば、それは無機物ではなくて有機物になるのかしら。わかる?」



 そんなことは、



 ―――知らない。



「…まあいいわ。それで少女は、出来るかぎり彼との思い出を思い出そうとした。匂い、空気、色、景色、感覚、すべてよ。幸せで、甘い拷問だった。彼の爽やかなライムの香りの香水を思い出して、そして機械が並んだ研究室で涙を流すの。辛くて、優しくて…狂おしい毎日だった。」


 高平は思う。愛する者を失った悲しみとは、そこまで人を必死にさせるのか。ただ仕事にばかり情熱を注いできた彼にとって、その少女の感覚は不思議で仕方がなかった。



「ねぇ、たかひら。」


 ふいに、甘い声で少女が囁いた。とろんとした瞳、紅い唇が弧を描く。ぞくり、と、背筋が泡立つ。だめだ、聞いてはいけない。



「心の存在を、信じてくれる?」



 蕩けるような声色は直に脳に響くようだ。頭蓋骨を反響して、体全体に染みていく女の空気はじわりじわりと高平を追い詰める。



「怖いのでしょう、逃げたいのでしょう。それは確かに、貴方が感じていること。人間の貴方には心が存在するの。ね?」



 にっこりと笑った少女は、青の世界を背景に、逆光で真っ黒になっていた。慣れた手つきで、隅に置いてあった蝋燭に火をつける。ゆらゆらとゆれる橙色の炎に、高平は少しだけ目を細めた。影が広がる。炎とともに広がり、縮み、ゆらゆらとうごめく影は別の生き物のようだ。陰影が濃くなった少女の顔をじっと見つめ、高平は静かに息を吐く。




 ─―君は、いったい誰なんだ。




 何故名前を知っているんだ。何故ここにいるんだ。



 少女は、少しだけ哀しそうに微笑んだ。



「わたしは心。わたしは、心という存在。」



 青い世界が終わろうとしている。東京の夜景に負けた空は、じわりじわりと濃さを増し、気づけば外はすっかり暗くなっていた。高平は思う。無知が、いかに重い罪であるか。



「この世に未練を残した哀れな女の成れの果てよ。罪深い、囚人なの。腐り落ちた肉体はとっくに灰。わたしは、思いだけでここに存在する。」



 生きてはいないけれど、存在はしている。


 それは、人ではない。


 いや、それでも彼女は人なのだ。心という部位が別離した、意識体。混乱する脳を無理矢理落ち着かせ、


 じっと彼女の瞳を見つめた。



 ─―ここから、出られないのかい、



 優しく語る。この少女を救いたいと、何故か高平はそう思った。



「ここにいるのが好きだから。貴方に会えて、よかった。もうさよならしなくちゃ。貴方は間違ってここに来たの。もう、帰らなきゃだめよ。」



 心はそう言う。来たときと同じように、高平の腕を引く。


 いつの間にかエレベーターがぽっかりと口を開けていた。高平はそこに押し込まれる。



「ここにはもう、来ては駄目よ。」



 少女の言葉を最後に、エレベーターがゆっくりと口を閉じた。











「所長、検体番号002、前回の検体に続き、人間名高平の体内からも心は発見されず。しかし、感情は芽生えている模様。仕種、目線特に問題はありません。」



 少女はゆったりと椅子に腰をかけ直した。蝋燭を吹き消すと、眼下にあふれんばかりの輝きが広がる。色とりどりの光の粒は星空を殺す。



 エレベーターがあった場所には、いつの間にか巨大なモニターが現れていた。そこに映っているのは、心なしか少女に似た女性。



『よかったの?貴方にはすべてを告白し、彼を引き止める権利があったはずよ。』



 少女はころころと笑った。


「ええ、とても残念なことがあって。わたしには、彼を引き止める理由を見つけられなかった。」


 モニターの女性は顔を歪めた。


『恐れていたことが?』


「そうよ。」


 少女はくるりと一回転した。ひらりとスカートが広がり、風を産む。


「わたしは、恋に落ちなかった。」


 女性は、目を反らした。じんわりと広がる苦みに、顔をしかめる。


「わたしは、彼女じゃないから。」


 これ以上は耐え切れないとでも言うように、女性は首を振った。


『…もう、いいわ。今後のことは、また連絡するから。』


「ええ、了解。」


 少女はにっこり笑って、モニターを切る。






 本当の暗闇になったそこは、月とネオンの輝きによってのみ照らされる。



「可哀相なひと。彼の記憶を植え付けた前作はそれなりに彼らしかったけれど、それがなければ結局ただの人なのね。ねえわたし、わたしが作りたかった彼は、やっぱり作れないみたい。それだけじゃないの。」



 ─―わたしが死ぬまでに、完成は不可能でしょう。



 少女だった女性は、ゆっくりとそう言って、ペンを走らせる。



 ─―わたしを作って。いずれ出来る彼と、であわせてちょうだい。



 あまりにも切実な願い。どこまでも真っすぐで、汚れのない思い。



「わたし、あの人を見ても、」



 少女がゆっくりと硝子に触れると、ぎりぎりと四角く硝子が切り取られていく。窓が開いたのだろうか。ぽっかりとした暗闇から、ひゅうひゅうと風が流れる。外は思ったよりも寒々しい。



「恋に、落ちなかった。炎を暖かいと思う。外は寒いと思う。それなのに、」



 わたしが唯一愛したあの人を、愛することができなかった。




「本当に、貴方は彼を作りたかったの?彼とそっくりの玩具を作っても駄目だってこと、本当は気づいていたのではないの?ねえ、だって、」



 こんなの、あまりに無意味で虚しいだけ。


 貴方が愛したたった一人は、永遠に戻らないのだから。




「今後なんて、いらない。」




 少女の呟きは風にながれ、東京の街に溶け込む。



 ふわりと浮かんだ体は、蕩けるように、世界と同化していった。








 翌朝。高平の会社の正面入り口の前に、等身大の壊れた人形がころがっていた。しっかりと大きな瞳を見開き、曖昧に微笑んだ表情で、ばらばらになった彼女はすでに物体だった。それを観た瞬間、高平の心臓付近からけたたましい警告音が流れる。




【アイカタシボウカクニン、プログラムヲジッコウシマス】



 ──君がいなければ死んでしまう。



 覚えのない台詞を脳内で無理矢理反復させられ、唐突に記憶が流れ出す。戦地へ赴く前、最後に見た少女の泣きそうな笑顔。そして“僕”は確かにそう言ったのだ。彼女のいない世界など、存在しても無駄だと。それを聞いて、再び会えるのならば永遠の別れではないと涙声で言った彼女。それでも。君がいなければ死んでしまう君がいなければ死んでしまう君がいなければし、んでし、ま、う、、、、、、







 そうして高平は、元の物体に戻った。存在はしている。けれどそれはもう、生きてはいなかった。








 了

                                     

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