11:麦の香りと、英雄の過去
廃棄都市バルドの朝の空気は、長らく鉄錆と腐臭に支配されていた。
だが今日の風は違う。
甘く、香ばしく、暴力的なまでに胃袋を刺激する匂いが、スラムの広場一帯を支配している。
広場の中央には、昨日地下プラントで刈り取られたばかりの黄金の大麦が山と積まれていた。
ヴィンデールが徹夜で魔導ポンプの動力軸に石臼を噛み合わせ、急造の「自動製粉機」を組み上げたおかげで、脱穀と製粉の作業は一晩で完了していた。
広場のあちこちには煉瓦と泥で即席の窯が組まれ、熱気と白煙を上げている。
「おいコラ、順番だ! 押し退けるんじゃねえ、全員の分はある!」
元ゴロツキの巨漢ガルムが、窯の前で怒鳴り声を上げている。
だがその顔は、呆れるほどだらしなく緩んでいた。
彼の手には、自分の顔ほどもある巨大な黒パンが握られ、そこから立ち上る湯気を吸い込んでは至福の吐息を漏らしている。
「あちちっ……! うめぇ、なんだこれ、甘え……っ」
獣人の少年レオも、顔を煤だらけにしながら、焼き立てのパンに齧り付いていた。
誰も彼もが、無我夢中で咀嚼している。
中には、麦の味を噛み締めながら声を上げて泣いている老人もいた。
外部からの兵糧攻めという死の淵から一転、彼らは自分たちの手で稼働させたインフラによって、完璧な『安息日』を勝ち取ったのだ。
その光景を、俺は広場を見下ろす崩れかけの建物の二階——急造の執務室の窓辺から見つめていた。
「……歩留まりは悪くない。だが、急速栽培による土壌の魔力枯渇が想定より三パーセント早いな。燐肥の配合比率を見直す必要がある」
俺は窓から視線を外し、机の上に広げた羊皮紙の束に向き直った。
インク壺にペンを浸し、地下プラントの稼働コスト、魔喰石の劣化速度、そして百人の労働力を維持するためのカロリー計算を、無機質な数字へと変換していく。
勝利の余韻に浸るつもりはない。
システムとは、一度回せば終わりではない。
常に誤差を修正し、破綻の芽を事前に摘み取る「保守」こそが命なのだ。
「……呆れたお人だ。下の連中は、あんたを神様か何かのように拝んでどんちゃん騒ぎだってのに」
背後で、軋むような足音がした。
振り返ると、片腕が義手の現場監督、バーツが立っていた。彼の手には、湯気を立てる丸いパンが二つ乗った木皿がある。
「英雄サマにも、お供え物を持ってきたんでさ。あんた、昨日から水しか飲んでねえでしょう」
「気遣いには感謝する、バーツ。だが、神様扱いはお断りだ。俺はあいつらにただの『飯』を与えたんじゃない。労働という名の『対価』を前借りさせただけだ」
俺はペンを置き、木皿からパンを一つ手に取った。
まだ熱い表面を割り、一口かじる。
荒削りな麦の食感と、素朴な甘みが口の中に広がった。
「美味いな。ヴィンの製粉機の精度がいい」
「ええ。ですがね、ノア様」
バーツは義手ではない方の手で頭を掻き、ひどく真剣な、探るような目で俺を見た。
「俺は長いこと、この街でいろんな奴を見てきやした。欲に狂った悪徳商人、威張り散らすだけの役人。……だが、あんたみたいな人間は初めてだ」
「俺がどうかしたか」
「普通、これだけのことを成し遂げりゃあ、少しは慢心するか、酒でもあおって笑うもんです。だが、あんたの目は……まるで『明日世界が終わる』って脅迫されてるみたいに冷え切ってる。……英雄ってのは、どいつもこいつも、そんなに生き急ぐもんですかい?」
俺は噛みかけていたパンを飲み込み、手元の帳簿へと視線を落とした。
ずらりと並んだ、備蓄と消費の数字。
俺にとって、この数字の羅列こそが「命の輪郭」そのものだった。
「……俺は、英雄パーティーとして剣を振るうずっと前、十二歳の頃に軍に放り込まれたんだ」
「パーティーメンバーだったんですか」
ぽつりと、自分でも驚くほど自然に、過去の泥水のような記憶が口からこぼれた。
「配属されたのは、華々しい最前線じゃない。泥にまみれた後方の輜重部隊だ。来る日も来る日も、馬車の車軸の耐久度を計算し、荷車の重さと馬の消費カロリーを天秤にかけ、腐りかけの干し肉の数を数える仕事だった」
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る。
冷たい雨の降る泥濘の中、折れた車輪を前に立ち尽くす絶望感を。
「ある日、前線で勇者と呼ばれていた部隊が、魔物の群れに包囲された。彼らは三日三晩、不眠不休で剣を振るい、魔法を撃ち尽くして戦った。英雄的な勇気だ。吟遊詩人が歌にすれば、さぞ感動的な悲劇になるだろうよ」
俺は嘲笑し、バーツを見た。
「だがな、バーツ。彼らが全滅したのは、魔物が強かったからじゃない。俺たち輜重部隊の馬車が、ぬかるみで車軸を折り、補給の到着が半日遅れたからだ。たった半日だ。だが、その半日の空腹と疲労が、百人の勇士をただの肉塊に変えた」
あの時、泥にまみれた帳簿を抱きしめながら、震える手で『死亡者:百名』の線を引いた日のことを、俺は一生忘れない。
「勇気では腹は膨れない。祈りでは折れた車軸は直らない。どれほど強大な魔法の炎を打ち上げようと、一人分の干し肉が欠ければ、最前線の兵士は死ぬんだ」
俺は手元の羊皮紙を、トントンと指先で叩いた。
「俺が信じるのは、剣でも魔法でもない。この『数字』だけだ。全員が確実に飯を食い、確実に眠り、確実に明日を迎えられる『仕組み』だけが、人間を人間たらしめる。……俺は二度と、俺の計算の甘さで、味方の胃袋を空にさせるつもりはない」
執務室に、重苦しい沈黙が落ちた。
広場から聞こえる労働者たちの笑い声だけが、遠く響いている。
「とはいっても、今の話はあくまでも。”きっかけ”だ」
バーツは、大きく息を吐き出し、義手の拳をゆっくりと胸に当てた。
それは、彼がかつて現場監督として、何百人もの命を預かっていた頃の、純然たる「敬意」の姿勢だった。
「……恐れ入りやした。あんたは英雄なんかじゃない。誰よりも泥水をすべって、誰よりも人の弱さを知ってる『責任者』だ」
バーツはそう言うと、残ったパンの乗った木皿を机の端に寄せた。
「あんたのその冷たい数字のおかげで、今日、百人の人間が腹一杯に笑ってまさぁ。……休むなとは言わねえが、たまには自分の胃袋の数字も計算してくだせえよ」
バーツは足音を立てて階段を降りていった。
残された俺は、冷めかけたパンを口に運びながら、再び帳簿に向き直る。
バーツの言う通り、俺は生き急いでいるのかもしれない。
だが、立ち止まることは許されない。
盤面を回し始めた以上、止まった瞬間にすべてが崩壊するのだから。
俺は窓の外、炭塵に淀んだバルドの街の向こう——荒野の地平線へと視線を向けた。
広場の窯からは、幾筋もの白煙が空高く立ち昇っている。
平和の象徴であるその煙は、同時に、俺の『計算』の中に新たな変数をもたらす合図でもあった。
「……死んだ街から、パンを焼く煙が上がった。腹を空かせた獣たちが、あの煙を見逃すはずがない」
ネクサスが稼働し、バルドが「飯の食える街」になったという事実は、あっという間に荒野を越えて広がるだろう。
それは、近隣で飢えに苦しむ難民たちという『新たな血(労働力)』を引き寄せる誘蛾灯であると同時に、街の許容量をいとも容易くオーバーさせる致命的な毒にもなり得る。
「……忙しくなるぞ。次は『選別』の時間だ」
俺は空になったインク壺を取り替え、新たな羊皮紙を広げた。
限界集落の再起は終わった。
ここからは、組織を巨大化させるための、冷酷な拡大フェーズの始まりだ。




