プロローグ 異常戦線
条約とは、条件を背負ってそれに見合った利を得る、というこの世界の基本的な構造である。
それは神話と呼ばれる時代、ネフィル=エストが魔神・ルシフェルを倒すために、【封印されていた時間を逆行する】代わりに【死にかけの身体を今なんとか動かす】という条約を結んだという話は一部の者にしか知られていなかったが、実際にはそうではなかった。
そもそも、ネフィル=エストは大英雄アリウスによって2000年ほど封印されていたわけだが、その封印術は世界を欺けるほどに精巧なものだった。つまりネフィル=エストは2000年間消えていたと世界が誤認し、その誤認を彼の結んだ条約によって認識したのだ。
そして条約には関係なくその世界の誤認を修正するために彼を過去、つまり本来存在していたはずの時間軸へと戻したというわけだ。
実際にはより正しい未来に運ぶために多少なり観測者の力が働いているのだが、それはまた別の話である。
しかしこのとき、一つの問題が発生した。世界の誤認はネフィル=エストだけではなかったのだ。そのとき天に昇ろうとしていた魂が強制的に過去へ引き摺り戻され、その魂は行き場を失い今までただひたすらに彷徨っていたのだ。
それが現代に闇を招く。
***
少女は貧しい家に生まれた。古い家に両親と3人で暮らしていて、食べ物がやや足りなかったものの、確かに幸せな日々を送れていた。
起きて、食べて、両親と話して、たまに怒られて、そして寝る。貧しいとはいえ、彼女にとって、いや、彼女の魂にとって、普通の日々というものは非常に幸せなものだったのだ。
しかし、そんな日々は突然にして奪われることになった。戦争が始まったのだ。戦争は今の時代においても珍しいものではなかったが、それでも非日常のものだった。
空から無数の爆弾が降り注ぎ、街が、彼女の幸せを築いた家が吹き飛ばされた。彼女は生まれながらに頑丈だったために軽傷で済んだものの、両親はそうはいかなかった。崩壊した家からは真っ赤な血が流れ出し、振り返れば街が火の海にされていた。
彼女の魂と肉体は異常なまでに強靭だったが、生まれて初めてその強靭さを憎んだ。普通の人間のような身体だったなら、父や母と共に死ねたのに、と。
両親を亡くしてから、少女はただひたすらに街だった土地を歩いていた。目的があったわけではないが、もし生きている者がいたら助けようと、そういう淡い思いを抱きながら。しかし当然、火の中で生きていられるような者は自分を除いて他にいなかった。
しばらく歩いたときのことだった。少女は元々学校があったところに辿り着いたのだ。そこには天界と現世を繋ぐ特殊な魔法陣があった。彼女は偶然その魔法陣に触れ、そして魔力を注いだ。いや、注いでしまった。その魔法陣は壊れかけていたこともあり正常に作動せず、本来なら何も起こらないはずが、最悪な魂を呼んでしまったのだ。
魂は現世を彷徨っており、その魂は常に生きた身体を乗っ取ろうと考えていた。しかしその邪悪で強大な魂に耐え得る器を見つけることはできずにいた。
しかしあるとき偶然にも、強力な魂を持った肉体が、その魂を呼び出した。そしてその魂は、一人の少女の肉体に宿ったのだ。少女の魂とその魂が偶然にも相性が良かったということが原因だ。
本来、その魔法陣が悪しき魂を呼ぶことはないし、魂が肉体に入り込むことなどない。しかし、異常事態に異常事態が重なり、それが起こってしまったのだ。
しかし、それに加えてさらに異常事態が起こった。強大で邪悪な魂が肉体に入り込んだものの、少女の魂はあまりにも強力で、悪しき魂が記憶を保持することは不可能だった。
そして絶妙に肉体と混ざり合い、新たな純粋で悪しき魂が誕生した。その魂が少女の魂を抑え込み、肉体の主導権を得ることになった。
それからは一瞬の出来事だった。少女の肉体を器として現世に顕現したその魂は、瓦礫の山となった街を平らにし、戦争に明け暮れる国の中枢を破壊した。
そして侵略してくる人や戦車、戦闘機のみならず、一生懸命に生きていた国民も、目に入ったそばから悉く殲滅していった。その魂はただただ破壊を楽しむ本能のままに動いており、誰もその進撃を止めることはできなかった。
そして少女は王城へと赴き、黒い髪を靡かせながら、全て破壊して戦争を終結させるに至った。
「くっ……! なんなんだ……君は……!! 軍人も……宮廷魔導師も……全て君一人で……!!」
崩壊した城の跡からなんとか這い出てきた一人の男が、瓦礫の山から燃え盛る地平線を見つめる少女に訴えた。
彼が生き残ったのは、彼女が殺戮を主旨としていなかったからだ。幸運だった。彼女が“物を壊したい”という子供のような衝動の他に殺戮にも快楽を覚えていたのなら、彼のみならず、この国に生きていた者は全て消されていたことだろう。
壊滅した国から生存者が出てくることができたのは、ただの彼女の気まぐれとしか言いようがなかった。
「醜い世界だ。平和を享受している者がいる裏側で、くだらぬ争いで命を落とす者がいる。戦争と平和の混在する世界なぞ、私が君臨し支配するにはあまりにも醜い。……そうだな、私はルシファー。生き残ったお前は、せいぜい私の名前を世に広めるがいい」
「ッ……!! ルシファー……か……」
ルシファーは国を出て燃える大地の奥深くへと歩いていった。
この世界は実に理不尽であった。ただ平穏を求めていた少女が、国の起こした戦争によって肉体を支配されてしまうのだから。
そしてその少女が国を滅ぼし、世界を蹂躙し、他者の平穏を奪ってゆくのだから。
そしていずれ訪れる更なる理不尽な世界というものは、神話においても見ない史上最悪の時代となる。
『神話の英雄譚』プロローグをお読みいただきありがとうございます!
本作は『神話の英雄譚』および『神話の英雄譚/神々の楽園』の続編となりますため、もしよろしければそちらもご覧になってみてください!
もちろん、本作だけを読んでも楽しめます!
第一部『神話の英雄譚』
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第二部『神話の英雄譚/神々の楽園』
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